そして103回目の恋をする

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昨夜協力してくれた団員たちに申し訳ないというのも、確かに本音ではあったけれど、もうひとつ理由がある。
このまま誹りに負けてやめてしまったら、千景を傷つけることにならないだろうかと、心配になったのだ。至は間違いなく演技だが、千景は男性を好きになったことがあるかもしれない。それが叶うことはなかったのだろうが、あるかもしれない傷をえぐりたくない。
(ここで負けたら、俺自身も引くような男なんだって言ってるようなもんじゃん。先輩を否定したくないっていうか、うん、たぶん、そんな感じ……)
千景が傷つくところを見たくない。それは家族として当然の感情だと思っている。ペペロンチーノを口に運ぶ千景を眺めながら、自身もトマトの欠片と一緒にパスタをちゅるんとすする。
「こら、飛ばすなよ」
「あ、ふみまへ……」
「ほっぺた、付いてる。違う右。……ったく、子供か」
跳ねて飛んだトマトソースに眉を寄せながらも、千景は伸ばした指先で至の頬を拭ってくれる。さすがにペーパーナフキンで拭いていたけれど、その仕草に絶句した。
(マジでこういうことする人いるんだ……イケメンチートずるい)
古い漫画か、それこそ子供に対する仕草だと思っていたのに、うっかり胸が高鳴ってしまったのが悔しい。これは恋人としての距離感なのか、そうでないのか。もし自分に彼女がいたとしても、そんなことはしないだろうと思うと、どうにも千景との距離が分からない。
どこまで接近していいのか。しかも今は職場の連中が周りにいるわけではない。演技をする必要はないのに、千景が距離を詰めてくる以上、慣れるためにも付き合わなければいけないだろう。たった今、恋人ごっこを続けると宣言したばかりなのだから。
「千景さんと一緒だと、どうしても甘えたい部分が出てくるんですよ。嫌ですか? こういう子供っぽいところ」
「いや、別に嫌いじゃないよ。そうか……俺が入るまでお前が最年長だったんだよね。一応はしっかりしてなきゃって思ってたってことかな?」
「なんですか、一応はって」
「お前より綴たちの方がよほどしっかりして見える」
「否定できない」
う、と言葉に詰まる。
すべての情熱をゲームに燃やしていた自分よりは、劇作家として劇団になくてはならない存在となっている綴の方が、確かにしっかりして見える。大家族だということもあって、人の世話を焼くのに慣れているという観点からもだ。
至は口をへの字に曲げて、視線を逸らした。
「でも、綴も徹夜とかいっぱいしてるし、たまにメシ食わない時だってあるし、その点からはしっかりしてるとも言えないような気がしないでもないような」
「お前が言うな。睡眠は大事なんだぞ」
「いやそれ千景さんに言われたくないです。いつ寝てるんですか」
「なに、俺の寝顔見たい? 今度ね」
「そっ……んなこと言ってないでしょうが!」
寝顔を見るということの意味を深く捉えてしまって、顔の熱が上がる。千景は楽しそうにクスクスと笑っていて、またからかわれたと面白くない気分だ。
恋人らしい距離を詰めてきたかと思えば、こんなふうに大事な恋人をからかったりもする。世の中の恋人たちが、普段どんなふうに過ごしているのか分からないが、むずがゆい。
(先輩の中の恋人象は、こういう感じってことだよな。甘ったるいだけじゃなくて、会話を楽しめる……苦痛じゃない、割と普段通りでいられるような。……もしかして、俺もあんまり変えない方がいいのか)
千景とは同じ職場の社員として認識してはいたが、それこそ顔見知り程度だった。千景が劇団に入ってから急激に距離は縮まって、会話の仕方やネタの豊富さを知った。ちりばめられる嘘さえ楽しんで、千景との付き合い方を覚えた。
(そういう先輩と一緒にいて親密になったっていう設定だから、普段通りの先輩を全部ひっくるめて好きになったんだよな。俺……っていうか、フリだけど。無理に目で表すより、いつもとおんなじの方がいい)
なるほど、と再分析をして、ちらりと千景を見やる。優雅に食後のコーヒーを飲んでいる恋人にときめいたりなんかして、理不尽に小さな怒りがこみ上げてきた。
「千景さんは、いっつもそうやって俺をからかう。本当に俺のこと好きなんですか?」
拗ねたフリをして、嘘と真実を練り込んで、千景に仕掛けてみる。
「信じられないなら、言葉以外で示してもいいけど?」
「こっ……言葉、以外って」
「何想像してるんだ。プレゼントとかあるだろう」
言い方がいやらしい、と睨みつけて、負けないように口を開いた。
「物につられるとでも思ってるんです? 俺が欲しがるものなんて、超レアクラスですよ」
「頑張って手に入れてみるつもりだけど……ねえ、そもそもどうして俺にばかり確認するの? お前も本当に俺が好き? 気持ちを信じてもらえないのは寂しい」
「すっ、……好き、ですよ! というか、大好きなんですけど……」
さすがに好きという言葉を口にするのは恥ずかしくて、照れくさくて、後ろめたい。だけど、千景が本当に寂しそうな顔をするものだから、ちゃんと言葉にしてやりたい思いが勝った。
「そう。良かった。俺もだよ」
言って、ふわりと笑う。それはスパイスの話をしている時の彼のようで、至は思わず項垂れて顔を覆う。可愛い、なんて思ってしまったのは、恋人ごっこをしている最中だったからなのか、素の自分なのか。
ざわつく心をごまかすためにコーヒーをぐいと飲み干して、店を出る。ランチセットで安くなっていたメニュー、千円札を一枚ずつ出してお釣りがくるはずだったが、お釣りを全部渡された。これでは割り勘になっていない。
「先輩」
「なに。たかだか二百円程度だろ。お前、いつもオゴれって言うくせに、たまに気にするよね」
「いや確かにそうですけど。恋人としては、対等でいたいのかも……ちょっと気が引ける」
それをそのまま財布にしまうのもはばかられて、手のひらに乗せたままゆっくりと歩みを進める。
千景はたまに本当にオゴッてくれることがあって、至もそれに甘えることがある。それは先輩と後輩だからであって、ごちそうになるのも務めだなんて逃げてしまえた。
でも、今、千景とは恋人だ。
周りに職場の人間はいないけれど、役作りとしては一時も気は抜けない。特にこの男相手では。
「でも俺もう財布しまったからね。気になるなら、貯金箱でも作ってそれに入れておけば? 貯まったらそれを使ってどこか食べに行くとかね」
「あっ、それ! それにしましょ。なんかよさげな貯金箱探そ」
千景の提案に、俯けていた至の顔がぱっと上がる。すれ違った通行人たちが、皆一様に目を瞠っていくのが気にかかった。
「……茅ヶ崎、お前可愛いな……?」
「は? え、なんです急に。それ、素なんですか?」
「今、お前の笑った顔が可愛いって思っただけ。すれ違った人たちもそうだったんじゃない?」
素なのか、演技なのか、千景は答えていない。いったいどちらなのかと深く考えるのはやめておいて、褒められたことだけを心に留めた。
手のひらの小銭を、ひとまずハンカチに包んでポケットにしまい込む。いいアイデアだと思った。二人でランチに出掛け、お釣りは貯めておいて、次に使う。それは二人で出掛ける約束となって、続いていく関係を物語っている。その縛りを重いと捉えるか、想いと捉えるかは人それぞれだろうが、自分たちは付き合い始めたばかりの設定なのだ、浮かれて嬉しがっていたっておかしくないだろう。
空き時間に貯金箱を探してみようと、ウキウキした足取りで会社へ戻る。途中で千景が髪をなでてくれたのも、周りへのアピールに一役買ったことだろう。

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