そして103回目の恋をする

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「千景さん、何か観たい映画とかないですか?」
「映画?」
エレベーターへと向かう途中、至は千景から視線を逸らさずに訊ねた。目を離しているのが惜しいとでもいう風情でだ。
「今どんなのやってるのかな。最近全然チェックしてなかったよ」
「あ、じゃあこれとかどうですか? アクションがすごいって評判になってますよ」
至は携帯端末を取り出し、映画館のサイトを検索する。そんな至の腕を引き、「歩きながらは危ない」と廊下の端で立ち止まらせる千景。そういう優しさに照れ笑いをし、至は素直に立ち止まる。
「スタント使ってないとか、俳優のこだわりを感じますよね」
「あぁ、この監督割りと好きだな。……ふぅん、面白そう」
至の端末を二人でのぞき込むのは、もちろん作戦のうちだ。近い距離と、お互いの柔らかな声。ね、と至は千景をじっと見つめる。せっかく検索で表示させた画面を見ずにだ。
「近い」
「仕方ないでしょ。俺は千景さんを好きな設定なんですから」
少しでも近くにいたいはずだと、至は眉をつり上げてみせる。もちろん、千景にしか分からない程度の絶妙な変化だっただろう。
「じゃあ、明日、行く? ……ふたりで」
「……はいっ……」
そうやって嬉しそうに笑い合う二人を、すれ違いざまにちらちらと見やっていく社員たちの多いこと。そのほとんどは女性で、連れとこそこそ囁き合っているのは聞こえていた。通り過ぎた後でさえ、二人を振り返っては叫び出したそうな口元を押さえる。
瞳の端でそれを確認した至は、たまに噴き出しそうになるのをぐっとこらえて千景に笑いかけた。
「こんなんで大丈夫ですかね……?」
「匂わせどころか、ほぼクロって感じになってるけどね。ま、いいんじゃない? ほら帰ろう」
人が少なくなって、改めてエレベーターへと向かう。そっと肩を抱いてくるあたり、千景の演技も堂に入っている。
エレベーターで数人の社員と一緒になったが、ここでは会話を控えた。あまり急激な接近はよくないと、お互いが判断したせいだ。
その代わり、至はちらりちらりと千景を見やる。そして恥ずかしそうに俯いて、こっそりと小指の先を触れ合わせる。たぶん他の社員からは見えない部分だ。それでも、舞台は続いている。
気を抜きたくないと思う当たり、自分相当な演劇馬鹿になったものだと、困ったような表情になってしまった。
それをどう受け取ったのか、触れた小指に千景が小指を絡めてきてくれる。やがて手のひらを合わせ、しっかりと手をつなぎ合うような形に変わってしまって、至は俯いたままドキンドキンと胸を鳴らした。
(ヤバ、ヤバい……演技、これ演技だから、っていうか、あの、ホント演技なんで!)
顔の熱が上がるのを自覚する。ポッポッと湯気が出そうなほど熱くなったあたりで、エレベーターがエントランスホールに着いた。箱の中からいちばん後に降り立って、至は誰にするでもなく心の中で言い訳を繰り返す。
胸が高鳴るのは、千景があまりにもいつもと違うせいだ。
顔が熱くなるのは、やっぱり千景がいつもと同じじゃないからだ。
つないで引かれる手を離したくないのはまだ他の人がいるからで、明日の映画が楽しみなのはミッション完遂できるかどうかの大事なところだから。
(ドキドキなんかしてない、いやしてるけど俺のせいじゃない! ああ、いや、そう、これも演技だからな。ドキドキすんのも演技だし。顔赤くできるとか、俺レベル上がったんじゃん? 使いどころないけど!)
車に乗り込んで、ようやく息をした気がした。当然のように千景が運転席に回ってくれたのをいいことに、至は助手席でだらんと脱力した。
「先輩やりすぎぃ……」
「お前に合わせただけだろ。なに、さっきのエレベーター。あんなことしてきたら、可愛いって思うしかないだろ」
「俺に対してそんなこと思わなくてもいいじゃないですか! 俺は、小指の先でも触れていたいって思っただけで!」
「恋人(仮)を可愛いって思うのは普通だろ。それとも、世間一般の恋人同士は違うのかな……まだちょっと、加減が分からない」
「あーそれな……。恋人相手って、どこまでどう表現していいのか分からない。俺は先輩を……千景さんを好きっていうの、前面に押し出していいのかどうか」
付き合い始めたばかりというのは、本当に相手のことしか見えなくなるものなのか。バカップルと称されるには、もっと全身で表した方がいいのか。
だけど、困ったことに人物の関係図は男同士だ。表すにも、世間の目はまだ厳しい。隠しつつ相手に惚れ抜いているという状況を示すには、どうしたらいいのか。
「……俺相手が難しいなら、推しだと思えば? ゲーマーであることは隠したいけど、推しは推しって感じで」
「いや、推しと恋は違うんで。……たぶん」
車を走らせながら、千景はアドバイスをしてくれる。だけど少しだけずれている感じがして、至は素直に頷けなかった。
例えば、千景も演じたことのあるガウェインだと思うことにしても、彼への感情は憧れになってしまう。最推しであるランスロットに対してもだ。彼らと幸せになりたいのではなく、彼らの活躍をこの目で見て、彼らが幸せになるのを見届けたいのだ。それは愛と呼ぶものかもしれないけれど、恋ではない。
「ふぅん、やっぱりオタクのこだわりは分からないな。今まで付き合った女性は? それなりに好きで交際したんじゃないの?」
「ん〰〰〰〰、あのですね、この際だから言いますけど。俺そういう経験一切ないんですよね。情けないっていうか恥ずかしいけど」
悩んで、ためらって、至は秘密を口にする。自身がモテるのは分かっているしわざとそういう状況を作ってきているのだが、正式な交際をしたことはない。告白をされても断ったし、匂わせアプローチはやんわりと遠ざけてきた。
この歳で未経験というのは珍しくもないだろうが、恐らく少数派で、あまり公表したいことではない。その顔でかと信用されないだろうし、健康な肉体ではないのかと忌避される可能性だってある。
言い寄ってくる女性を減らしたいのは、そういう理由もないではなかった。
「別に情けなくはないだろう。恥ずかしいって、どうして? 欲だけ処理してきた俺より、よほど誠実だと思うけどね」
自嘲して笑う千景を振り向いて、あ、と息を吐く。
千景の性的指向では、恋をして交際を経て肉体関係になんて、まさに青春そのものな道は歩めなかったのだろう。それでも欲はたまって、毒を抜くように関係を持った相手がいたっておかしくない。
「劇団に入って、余計にそう思うよ。みんなキラキラした情熱抱えて、まっすぐ進んできてる。険しい道のりだったこともあるだろうけど、純粋さは、誰にも否定できないよね。茅ヶ崎だって、……まあ、純粋っていえば純粋なんじゃない?」
「なんですかその含み笑いは。……でも、ちょっと、気が抜けたので、アリガトウゴザイマス……」
「俺たちは恋人同士だろ? そういう話しにくいことも、相談してくれると嬉しいね。馬鹿にしたりしないから。ねえ、好きな人はいなかった? 可愛いなとか、綺麗だなって思った人。その人を思い浮かべればいいんじゃないか?」
ゆっくりと柔らかな声音で、諭すように口にする千景を眺め、至はひとつ瞬きをする。
「かわいい……」
思い当たる人はいる。綺麗、という表現からは外れるかもしれないが、所作が美しいなと思った相手。
「……見ていたいなって、思う人、ですかね。近くにいたい、楽しい……」
「そうそう。そういう感情だろ。内緒の恋だと思えばいい」
なるほど、と正面に向き直る。その人に感じたものを恋に変える予定はないけれど、悪くない感情だとは思う。
「先輩は?」
「うん?」
「好きな人とか、いたことあるんですか。理屈として知ってるのと、感情で知ってるのとでは、やっぱり違うでしょ」
至も、理屈では分かる。他人の感情としてなら、見える。だけど自分自身の感情としては知らなかった。だから、千景に対してどう接するのが正解なのか分からないのだ。
千景は、こちらにアドバイスできるくらいにはその感情を知っているのだろうか。
「…………さあね」
ふっと数秒振り向いて、また正面に向き直った千景からは、正解が出てこない。曖昧なのはいつものことだけれども、嘘をつかなかったところを見るに、大切な感情だったのかもしれないと後悔した。
(いたんじゃないか……。今も好きな人? 傷えぐらないようにしなきゃ)
ちくりと胸が痛む。
千景の静かな想いが切ないのだと、ひとり納得して頷いた。

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