そして103回目の恋をする

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そうして上映は終わり、混雑を避けてシアターを出られたのだが、ドリンクはもちろんポップコーンも大量に残っている。
「食べたがってた割に、減ってないね」
「ち、千景さんこそ」
「辛さが足りなくてね。帰ったら自分でスパイス追加するよ」
カウンターで持ち帰り用の袋をもらい、新作のチラシを物色して、これからの予定を確認し合った。
「ランチ、ですかね。待ってこのコーラ飲んでからじゃないと。持ち込み禁止でしょ」
「時間的にそうかな。どこも混んでそうだけど。……あ」
千景が何かに気づいたように小さな声を上げる。なんだろうと視線を追おうとした至のドリンクを手首ごと持ち上げて、千景はストローに口をつけた。
「あっ、ちょ……っ」
間接キスだ、なんて今さら気にする間柄でもないけれど、断りもなく人のコーラを飲むんじゃないとぺしぺし腕を叩いてやった。
「美味しそうだったから、つい。……戻そうか?」
「え?」
肩を抱かれ、ぐいと引き寄せられる。
「ちょっ……なに、を」
すぐ傍に、千景の端正な顔。飛び退こうにもがっちりと抱かれていて叶わない。吐息が、唇が、触れそうになる。
いくらなんでもこれは、と押しのけようとした時、唇の傍で千景の囁き。
「フードカウンターの列、手前から三つ目、割と後ろの方。お前の部署のヤツだろ」
「えっ、どれ」
「動くな。向こうからは、これでしっかりキスしてるように見えるはずだから。ちゃんと、……演技しろ」
「あ……」
そういうことか、と至は納得して、押しのけようとしていた手の力を緩めた。そういえば今日は、誰か知り合いに見られることを目的としていたのだ。本当にそうなるとは思わなかったが、これで一気に〝ほぼクロ〟から〝クロ〟へと変わるだろう。
納得したはずなのに、指先が冷えていく。
至近距離で見る千景の瞳。
まっすぐなそれには自分しか映っていなくて、だけどこれも彼にとっては演技なのだと思い知らされる。欠片でもそういう好意があれば、〝うっかり〟で触れてきそうなものだけど、千景はきっちり数ミリ手前で止まっている。
(……分かってる、けど、なんで……俺、なにを期待してたんだ? 期待ってなんだよ、先輩とキスなんかしたくないし)
千景が、キスの演技を終えてすっと離れていく。至も演技を重ねて、恥ずかしそうに千景の胸を叩いた。
「こ、こんなとこでっ……」
「可愛かったから、つい」
「かっ、可愛いって言えばなんでも許すと思ってるんですか。許す」
「許すんじゃないか。で、ご飯どこ行こうか」
「ん、待ってまだコーラ飲みきってないから」
「ここらへんのランチ検索しとくよ」
笑い合いながら交わす会話を、同僚はしっかりと目撃してくれただろうか。週明けには、ちゃんと広まっているといい。そんなふうに思いながら、至はコーラを飲み干す。気の抜けたコーラは喉を潤す良い仕事をしてくれて、緊張で乾いていたそこもどうにか許してくれるだろう。
(なんでだろ、すっごいモヤモヤする……)
手をつなぎながら映画館を出て、一応ランチの店を探して歩いた。
「見られてますねー」
「イケメン同士が手をつないでるから、目の保養なんだろ」
「自分で言うとか。確かに顔はいいですよね」
「映画館でも、いっぱい見られたな。好奇の目ってのは、やっぱり気持ちのいいものじゃないけど」
「自分であんなことしといて。するならするって、事前に言ってくださいよ。マジびっくりした」
そんな会話でも顔だけはにこやかにしておく。すれ違う人々は、甘ったるい言葉でも交わしていると思うだろう。
「本当にキスされるかと思った?」
「先輩ならやりかねないなって」
「まったく、お前は俺をなんだと思ってるんだ。ファーストキスが俺じゃあ、お前が可哀想だと思ってね。気を遣ってあげたんだけど」
「えっ、あ、……そ、そう、だったんですか……ありがとうございます……」
「どういたしまして」
千景に言われるまで、すっかり頭から抜け落ちていた。そういう経験は皆無で、確かにキスもしたことがなかったのだと。それをちゃんと気遣ってくれたことが嬉しくも、寂しくもある。
(待って、俺……別に良かったのにって、思った……待て待て、違うそういう意味じゃない! き、キスなんか大したことじゃないし、口と口がくっつくだけだし、ファーストキスは好きな子となんて、そんな青くさいこと言うつもりもないし、えええちょっと待って違う、俺は別にキスしてほしかったわけじゃなくて!)
あのまま唇が触れてしまっても構わなかった。触れそうな距離だった。触れなかったことが寂しかった。
(俺は……先輩が、好きな人と過ごしたかった時間をあげられればいいなってだけで……そりゃ圧倒的に経験が少ないから、手探りだし、その人にはなり得ないって分かってんだけどさ……)
千景が傷つくところは見たくない。笑ってくれるなら、自分に誰を重ねられていようと構わない。
(俺がその人じゃないから、キスしなかったんだ……)
どんどん指先が冷えていく。千景と手をつないでいるのに、温もりが移ってこない。移す気がないからだなと思い、ふっと苦笑した。
「週明け、大変だぞ」
「分かってますよ。視線には慣れてるし、あしらい方も知ってるつもりです」
「しんどくなったら言えよ、茅ヶ崎」
「なんですか、しんどくなったらやめるんですか。無理に決まってんでしょ、ここまできたら」
「そうじゃなくて、しんどくなったら支えるからって言ってるんだ。一人じゃないんだから、抱え込むなよ」
先ほどまで他愛ない会話で笑っていた顔が、急に真剣なものに変わる。どき、と鳴った胸を押さえて、至は頷いた。
一人じゃないんだから。そう言う彼こそ、一人きりだったのではないだろうか。想いを隠して、危険に巻き込まないように、どこかでラインを引いて、心を明け渡すことをしてこなかったのではないだろうか。
一人ではないのだからと言ってくれるこの人を、一人にさせたくない。
至は千景の腕に寄りかかり、形容し難い感情を全身に行き渡らせた。
「大分恋人らしくなったかな」
「そうですね。キスとかしててもおかしくないんじゃないですか」
「ハハハ」
笑われて、至はむくれる。
キスしてくれなかったことを、自分で思っている以上に根に持っているようなのだが、根に持つ理由が分からない。
キスをしたかったわけではないし、そこまでする必要もないと思っているのは本当なのに。
「先輩、あの」
「なに? 素に戻ってるけど」
「俺、気にしませんから。先輩が俺に誰を重ねようと、その、構わないので……もうちょっと、俺に気を許してくださいね」
言って、気づく。なるほどそういうことだったのかと。
(先輩が、俺にもまだ線を引いてるのが嫌だったんだな。こんなことまでしてるのに、したいこと言ってくれない。受け入れてほしいって、ちゃんと言ってくれないから)
本音をさらしてくれないことが悔しくて、寂しかっただけなのだと、ホッとした。他人に気を遣っているといえば聞こえはいいけれど、さらけ出して拒まれることが怖い部分もあるのではないだろうか。
こちらとしては、千景が詐欺師だろうとゲイだろうと犯罪者だろうと、構わないのに。
「俺はちゃんと、先輩のこと仲間だって思ってるので。先輩こそ、しんどかったらちゃんと寄りかかってください」
「……うーん、何のこと言ってるか分からないけど、ありがとう? で、ランチ行くの? 目撃談は充分だろうし、演技に身が入ってないようだし、帰る?」
「は? いやいや、せっかく来たんですからご飯行きましょうよ。お腹空いたんですけど」
「そう? 俺のオススメはこのカレー屋で」
「却下。昨夜もカレーだったじゃないですかっ」
「じゃあこの多国籍料理」
「……辛くないのあります?」
楽しそうにランチの店を物色する千景の端末をのぞき込んで訊ねる。そうする間も手が離れないのは、演技続行中ということだ。
千景が美味しそうに食べるのを見るのは嫌いではなくて、できれば辛い物と辛くない物があるところに行きたい。
「ん、大丈夫。デートなんだから、茅ヶ崎も食べられるものあるとこ選んでるよ。じゃあここ行こうか」
「ふふ、楽しみです」
手をつなぎ再び歩き出す。道行く人々の視線にはもう慣れた。というか、気にならなくなった。千景との会話を楽しむ方が忙しくて、視線なんて気に留めていられない。
ああ、恋してるってこういう感覚なのかな。
無意識にそう感じて、ハッとしてその感覚を無理やり押し込めた。
(演技。演技だから。今の俺は千景さんを好きなことになってるから、仕方ないよな)
役に入り込み過ぎてしまったのだと思うことにして、隣を歩く千景をじっと眺める。
目を離しているのが惜しいくらいに、好きな人。
彼の好きな相手がどんな人か知らないが、精一杯演じてみせよう。
見過ぎだよと笑われても、好きだよと演技で言われても、優しい声で呼ばれても。

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