そして103回目の恋をする

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今年ももうすぐうんざりする季節がやってくる。
茅ヶ崎至は、大きなため息をついてカウンターテーブルに突っ伏した。
「どうした、そんなでかいため息ついて。仕事でミスでもした?」
「んなわけないでしょ、会社では仕事のできるエリートさんですよ、俺」
へえ、とあからさまに馬鹿にしたような笑みを向けてくるのは、卯木千景。会社では先輩であり、劇団では仲間であり、ルームメイトでもある男だ。
少し遅くなった仕事帰り、軽く飲んでいこうかなんて誘われて、ついてきたこの店。千景が入るだけあって、雰囲気は悪くない。パリピ御用達というわけでも、セレブ御用達というわけでもない、静かな空間。
カップルもいればお一人様もいて、店員との会話は割と少なめ。椅子の座り心地は悪くない。長居もできそうだし、本当に軽く一杯飲んで帰るということも苦痛そうではなかった。
「先輩こそどうしたんですか、俺を飲みに誘うなんて。嫌なことでもありました?」
至は体を起こして千景を振り向く。交流は深くても、こんなふうに二人で酒を飲む機会は少ない。ランチはたまに一緒に行くけれど、帰りとなると時間が合わなかったり、そもそも稽古があったりで、ゆっくりなんてできないのだ。
「嫌なことがあった時、自分と飲んで癒やされるって思ってるのさすがだな。別に何もないよ」
自分と飲むことで癒やされるなんて自惚れてはいないし、千景を癒やせるとは思っていないが、愚痴を聞くくらいならしてやろうと考えていたのだが、そんな気持ちもご破算だ。
ふいとそっぽを向いた時、タイミングよくオーダーしたカクテルを出されて視線を戻す。綺麗な色のミドリマティーニ。千景のカクテルは真っ赤なアル・カポネ。
「それ度数強そうですね。何が軽く飲んでいく、だか……」
やっぱり何かあったんじゃないかと思いつつも、軽くグラスを合わせる。チン、と小さく響いた高い音が、耳をすり抜けていった。
「うーん、嫌なこと、……というほどでもないけど」
一口含んで味わった千景が、グラスをコトリと置く。眉間にしわが寄っているのを、彼は気づいているだろうか。
千景も、至に負けず劣らず、仮面を付けるのがうまい。人は誰でもオンオフで違う顔を持っているものだが、千景のそれは比ではなかった。同じ種類の分厚い仮面だなというのが、深く知り合う前の千景に対する印象だった。
だけど、その仮面が今は剝がれている。会社の人間はいないし、付ける必要がないのだろう。気を許してくれているのが手に取るように分かり、至は無意識に口角を上げた。
千景が愚痴を言いたいのなら、聞いてあげよう。
そういえば彼の愚痴らしい愚痴なんて聞いたことがないし、と興味が深まってしまうのを、ミドリマティーニを口に運ぶことでごまかした。
「今日行った取引先で、香水のキツい女性がいたんだ。あまり気分のいいものじゃない」
「……あ~、なる。それ先輩の気を引きたかったんじゃないですか? 気は引けてるけど逆効果ってヤツ」
「限度というものがあるだろう……」
「それでも笑顔の仮面付けて頑張って仕事こなしてきたんですね。偉い偉い」
香りを思い出したのか、千景の眉間のしわが深くなる。特に深刻なことではないようだと安堵する反面、至にも思い当たることはあった。
すれ違う時にふわりと香る、その程度なら気にならない。いい匂いだなと思うこともある。だけど、思わず顔をしかめそうになるほどの強い匂いは不快でしかない。
「馬鹿にしてるのか」
「してないでしょ。先輩の気持ちは分かりますよ。俺もたまに、そういうアプローチ仕掛けられるんで。ホント逆効果。むしろ何もつけてない方が好印象かも」
「……お前もつけてるよな?」
「え? あ、はい、少し。すみません、強いですか?」
至も、愛用の香水はある。手首と、耳に近い首筋に少しつける程度だが、他人がどう感じているか分からない。夜になって効果は薄れているが、千景には不快かもしれないと少し身を引いた。
「いや、大丈夫。いい香りがする」
だけど千景はそれを追うように身を寄せてきて、首筋の匂いをすんと嗅いだ。至は思わずびくりと肩を竦める。
「少し甘いな」
「……先輩、こういうの女の人にやったら駄目ですよ。俺でも今ちょっとドキッとしたんで」
「するわけないだろ。ただでさえうんざりするのに」
千景はそれ以上何をするでもなく、すいと体を戻してカポネを飲み干す。それがまた様になるせいで、至はまぶしさに目を細めそうになった。が、千景の眉間のしわは深くなるばかり。
そんなに大きなため息をつくほど、うんざりしているようには見えなかったのだが、そこは千景の猫かぶりの賜物ということだろうか。至に負けず劣らずモテるくせに、特定の相手はいないようで、それがまた女性たちのアプローチに拍車をかける。それでも浮いた噂はひとつも聞かない。
至もそうだが、至は他に夢中になりたいものがあるせいだ。好意が迷惑というわけでもない。だけど千景は、好意さえ煩わしそうだ。それを隠すあたりはさすがだと思うが、引っかかる。
「先輩、変なこと訊いてもいいですか?」
「駄目」
「もしかして、女の人駄目だったりします?」
駄目と言われたのも気にせず、至は続けて訊ねた。
女性に見向きできないほど彼が夢中になっているものがあるかと聞かれたら、首を傾げる。スパイスは人生に欠かせないもののようだが、交際に邪魔になるほどではないだろう。演劇だって、千景ならば恋愛と両立できそうなものだ。それなのに、浮いた噂どころか嫌悪さえ感じていそうな雰囲気である。
「ああ、恋愛的な意味でなら、そうだな」
「あ~、先輩から女の匂いがしないの、やっと合点がいった。そうだったんですねー」
多忙だということも理由にあるだろうが、千景に特定の恋人がいない理由に納得した。これだけのハイスペックイケメンならそれこそ選り取り見取りだろうに、千景にとっては選り取りさえしたくない存在だったらしい。
「驚かないな」
「ん~それなりに驚いてますけど。だって監督さんにも優しいでしょ。女駄目だとは思わなかった」
「監督さんは別かな」
「うわあ、それ恋というヤツでは」
女性が駄目というわりには、劇団の総監督である立花いづみには普通に接している。猫をかぶる必要のないあのカンパニーの中でだ。
「うーん、恋じゃないかな。確かに女の人に対する見方が変わったのは彼女のおかげだけど、キスをしたいとは思わないし、ましてやセックスなんてね」
言いながらも、千景はひどく優しい顔をする。その優しい顔で拒む台詞を吐くイケメンの破壊力たるや、いかほどのものか。至は少し項垂れて、指先ひとつで額を押さえる。
(恋してないって顔か。この人がマジで恋したら、どんな顔で語るんだか)
うっかり想像しそうになって、至はふるふると首を振った。
「仮に俺が女性を恋愛対象にできるとしても、彼女は除外するだろうな。無意識に」
「そんなに好みの範疇から外れてるんですか? 監督さん可愛いと思いますけど」
「いや、そうじゃなくて。左京さんはともかく、真澄を敵には回したくないなって」
苦笑する千景に、ああなるほどと頷いた。いづみにほんのりアプローチをしかける男と、隠すこともせず積極的に迫り倒す男がカンパニーにいる。
「真澄に憎まれるのも、泣かれるのもごめんだよ、俺は」
「孫大好きですもんね、おじいちゃんは。それ言ったら俺もそうかも……真澄や左京さん押しのけて監督さんとイチャイチャとかできないわ……」
至は千景と違って女性が恋愛対象ではあるが、周りの環境を見て無意識に除外するという千景の思考には共感できた。
「まあそもそも俺も女の子にそこまで興味あるわけじゃないんですがね」
「枯れてるの? 若いのにな」
「違いますよ! 俺にはゲームの方が重要ってことです!」
「ハハハそうだろうと思ったけど」
「なんで真澄といい先輩といい、俺にだけ当たりがキツいんだ……クソが」
ぶつぶつ文句を言いながらミドリマティーニを飲み干し、次のカクテルは千景に奢らせようかと思ったところで、ふと気づく。
「え、あれ、先輩」
「なに?」
「女の人駄目って、それバレンタインが二重地獄なのでは」
眉をつり上げ引きつった顔のイケメンが振り向いてくる。そんな顔でもイケメンの領域を出ないのがどうにも解せない。
「思い出させるな」
「ガチのヤツだこれ。ご愁傷様です」
千景は女性が苦手。それに加えて、甘い物が苦手。女性が甘いチョコレートや菓子などでわかりやすくアプローチしてくる日など、拷問以外の何物でもないだろう。至は千景を憐れんで、両方の手を合わせてみせた。
「面白がってるだろ」
「いーえとんでもない。身近にそういう人いなかったから、興味はありますけど。でも先輩、ちゃんと受け取るのすごいですね。こっちの都合お構いなしに渡されるんだから、断ればいいのに。あんなにたくさん」
かくいう至も、うんざりはしているのだ。もうすぐバレンタインという告白イベントが催される。全国各地で展開されるそれに、浮き足立つ男女の多いこと。しかし、あまり嬉しくない者もいる。少なくとも、ここに二人。
「一回受け取る実績作ると、後が断れない」
「あ~外面もありますもんね、お互い」
「出張に行ったら行ったで、デスクにこんもりと置かれてるしな……まあ直接じゃないだけそっちの方がありがたいけど」
「モノ自体は寮に持って帰れば秒でなくなりますしね」
「ああ、十座たちがいてくれるから、それは助かるよ。あのカンパニーに入って本当に良かったと思う」
同意です、と返す。カンパニーに入るまでは、家族と一緒にどうにか二月ほどで消費する状態だったのだ。十座を始め甘党が何人かいるカンパニーで、一週間ともたずに消費されるのは、本当にありがたかった。
「なんかもう、もらうのはいいんですけど、その後のお返しがめんどい。お返しに使う分推しに課金したい。ガチャどんだけ回せると思ってんだ……っ」
至がバレンタインのチョコを回避したいいちばんの理由はそこだ。もらった以上お返しはしたいが、量が量なだけに購入資金が高くなるのだ。顔と名前が一致しない女性の腹に収まるお返しを買うくらいなら、JPEGで残る推しに課金したい。たとえドブでも他のカードの育成素材になるのだから。
「茅ヶ崎に夢を見てるヤツらに聞かせてやりたいな、今の暴言」
「いや先輩も割と暴言吐いてますよ」
「お前以外聞いてないからいいだろ。はぁ……言ったところで憂鬱なのは変わらないけど」
「ほんそれ。せめてもうちょっと数が減ればいいんですけど」
うううと唸りながら、次のカクテルをオーダーする。テキーラたっぷりのメキシカン。千景も二杯目をロブ・ロイで決めたようだった。
「茅ヶ崎は普通に恋人作ればいいんじゃないの。彼女ができればそういうのも減ってくると思うよ。素のままのお前を理解してくれる女がいればだけど」
「難しすぎません? デートも少ないだろうし彼女よりゲーム優先するし素のままってアレですよ、先輩も知っての通り」
「ハハ、まあ会社での茅ヶ崎しか知らない子は引くだろうね。実際俺も最初は引いたよ」
ぐっと言葉に詰まる。千景は入団当初一〇三号室で過ごすことはなかったものの、至が廃人レベルのゲーマーだということも、部屋の掃除ができない男だということも知ってしまった人だ。個人間契約により外に漏れることはなかったが、曲がりなりにも職場の先輩に対してあまりにも酷かったと今なら反省もする。
反省はするが、今さら生活を変えられない。これを全部受け入れてくれる人なんているものか。
「だいたい、チョコ減らしたいからって恋人作るとか、不誠実にもほどがあるでしょ。刺されるわ」
「そうだな……俺もあそこ入る前に、既婚者っていうデータにしておけば良かったと思ってるよ」
千景も大きなため息をつく。チョコをもらえない人からしたら、贅沢過ぎる悩みだろうなとも思うのだが、こちらはこちらでそれなりに切実だ。主に金銭的に、精神的に。
「……あ、そうか」
そしてどちらかといえば、千景の方がより切実に。そんな彼が、ふと思いついたように声を上げる。振り向いた至の目に映ったのは、面白そうに口の端を上げる卯木千景の顔だった。
彼がそういう顔をしているときは、大体においてろくでもないことが待ち受けていると、経験上で知っている。至は無意識に身を引きながらも、目を瞬いて先を促した。

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