カクテルキッス1ーONE NIGHT IN HEAVENー

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「え~、茅ヶ崎さんも飲み会行かないの~?」
甘えたような高い声が、耳を通り抜けていく。至はどうにかその女性の名前を思い起こそうとして――諦めた。同じ部署ならまだしも、交流のない部署ともなるともう分からない。
「ごめんごめん。かわいい妹が、俺の帰りを待ってるんだよね」
それでもにこやかな笑みを返すあたりは、大人としての心得だ。
「あー、見たことある。髪の毛長い女の子。茅ヶ崎さんの帰りを待てるなんて羨ましい~」
「そりゃこんなにかっこいいお兄ちゃんなら、仕方ないよね~ブラコンでも~」
「あー、まあアイツもブラコンだし、俺もシスコンだし。じゃあそういうわけだから、ごめんね。飲み会楽しんできて」
また来週、とひらり手を振ってやる。きゃあ、と小さな声が聞こえてきたが、至は構わずに背を向けた。
面倒くさい。
誰も見ていないことを確認し、至は心の中でそう思う。きっと顔にも出ていただろう。
花の金曜日、そう親しくもない会社の同僚と、しaかも数部署合同での飲み会なんて、行っていられない。
本当は妹なんか待っていやしないし、当然ブラコンだのシスコンだのは関係ない。
(はー、ほんと、面倒くさ)
社会人になっていちばん困るのは、これだ。至はできれば仕事などしたくない。不労所得で生活がしたい。ゲームだけに興じていたいのだ。
まあそうは言っても現実は厳しいもので、働かなければ賃金はもらえず、ゲームに課金できない。仕事が嫌いなわけではないが、こういった誘いを断るのは本当に面倒だった。
(劇団のヤツらと一緒にご飯とかならね、いいんだけどさ。何かジャンクな感じの)
とはいえ、人付き合いが心の底から苦手というわけでもなく、親しい人間となら構わない。まさか自分が劇団員になるなんて、しかもまだ続いているなんて、一年前は夢にも思わなかったが。
家族みたいな存在がそこにある。
悪くないと思っていた。
ただひとり、読めない男を除いては。
小さくため息をつきながら廊下を歩けば、何の因果かエレベーターの前でその男の姿を確認してしまった。
卯木千景。春組第四回公演から入団した男。
度々公演を観に来ていたとはいえ、まさか入団までするなんて思わなかった相手だ。職場の先輩として多少知ってはいたが、距離が近づけば近づくほど、分からなくなる。腹の底で何を考えているか分からないのだ。
「せーんぱい」
「ああ、茅ヶ崎か」
「先輩も飲み会スルー派ですか」
職場用のトーンで声をかければ、向こうからも職場用の仮面で返ってくる。外面だけ見ていれば、とても劇団であんな問題を起こした人物だとは思えない。
この男には毒がある。
以前から感じていたそれが、だんだんと現実味を帯びてくる。それがぞくぞくするほど心地いいのは、やはり毒だからだろう。
「俺が飲み会に参加すると思うか?」
「……ですよねー」
抑揚なく返せば、エレベーターが生贄を受け入れるかのようにドアを開け、そろって飲み込まれた。
狭くはないハコの中でも、退社時刻には大勢の人間がいる。金曜日ということもあってか、どの生贄もなんとなくそわそわとした様子だ。
このぎゅうぎゅう詰めのエレベーターで、何を考えているのか分からない――もとい涼しい顔をしているのは、千景だけ。
至はそんな千景の横顔を盗み見て、小さくため息をついた。
「先輩、取引先との飲み会にも付き合わないんですよね。それでなんであんなに成績いいんですか?」
エレベーターを降りて、二人でそろって歩き出す。どうせ帰る場所は一緒だと、お互い何も不思議に感じていないようだった。
「秘密だって言っただろう」
「教えてくださいよ、俺にだけ、内緒で」
「お前だから教えたくないんだよ」
思わせぶりに甘えてみせても、ふ、と笑うだけであしらわれる。そうなると思っていたが、実際にこうなると面白くない。
千景は海外への出張が多い。もちろん国内でも顧客は多く担当していて、成績はトップクラスだ。至も悪いわけではないし、むしろ良い方だ。しかしもっと成績を上げれば、給料も上がって、課金額も増やせるかなと思うのだ。
だが営業テクニックは簡単には教えてもらえない。ち、と舌を打った。
「守らなきゃいけないヤツだからな……」
しかし、千景がぼそりと呟いた言葉が、至の耳にしっかりと届いてしまう。千景に好意を持っている女性ならば、ここでキュンと胸が締めつけられることだろう。至でさえが、ほんの少しドキリとしてしまった。
その言葉の意味を考える。
「守らなければいけない」ということは、その秘密を知ったら危険が及ぶということだ。
「せーんぱい、まさかマジでヤバいことしてるんじゃないでしょうね」
笑い混じりにそう返せば、眼鏡の奥の瞳が、鋭く射貫いてきた。だけどそれはほんの一瞬で、気のせいだったのかとも思える間。
「そうそう。茅ヶ崎、うちの会社にも結構ヤバい仕事やってる部署あるの知ってる? 裏の仕事ってヤツだな」
次の瞬間にはまた、涼しい顔でそんなペテンで返してくる。本当につかめない男だ。
「企業スパイやら帳簿の改ざんやらいろいろね。賄賂なんか当たり前、ドラッグの売買もあるし、唯一ないのがコロシ、ってくらいヤバいとこ。俺はそこの部署兼任してるから、成績がトップクラスなんだよ」
「うわぁ中二設定キタコレ」
「お前に合わせてやったんだろ」
「アリガトウゴザイマス」
おかしそうに肩を震わせる千景に、抑揚なく気持ちのこもっていない謝意を返す。どこまでが本当で、どこからが?なのか分からない。
千景の言う言葉すべてを鵜呑みにするのは危険だと、長くはない付き合いの中で学んでいた。
「あれ。先輩、寮こっち……」
ふいに千景がつま先の向きを変える。だがそれは、帰るべき寮への道ではない。至が千景の背中にそう声をかければ、振り向かないまま答えられた。
「今日は飲みたい気分だから」
なるほど寄り道をするというわけか。会社の飲み会は行かなくても、飲むのは嫌いではないらしい。
「……先輩、俺も連れてってくださいよ。行くならお気に入りのとこなんでしょ?」
そのまま帰ればよかったのに、至の唇は思うことと正反対の音を奏でた。
だけど言ってしまったものは仕方がないと、千景を追うようにつま先の向きを変える。
「茅ヶ崎?」
「それともまさか、危ない仕事相手と待ち合わせ、――ですか?」
スーツの袖をクンと引っ張り、仕返しのように千景を見据えた。まさか本当にそんな危ないことをしているわけではないだろう。そう思いたい。思いたいけれど、この男は謎が多すぎる。
揺らいだ瞳が、レンズ越しに捕らえられたような気がした。
「謎は、謎のまま残しておくのもいいと思うけどね。構わないぞ、ついておいで茅ヶ崎」
見透かされている、と気まずい気分になりながらも、拒まれなかったところを見るに、やはりあれは?なのだろうと安堵もした。

千景に連れられて店内に入れば、抑えめの照明と、深いグリーンを基調にしたテーブルセットが出迎えてくれる。
「カウンターでいいだろ」
「え、あ、はい」
店内に客は何組かいる。テーブルを取り囲むソファにどっしり座り込む老齢の紳士や、奥のボックス席で多少のスキンシップを楽しむカップル、仕事帰りらしき青年、友人同士で飲みにきているらしい女性たち。
「なんか、予想通りで面白みもないな」
「どんなとこだったら面白かったんだ、茅ヶ崎は。パリピ御用達のとこでも行けばよかったか?」
「いやそれはそれで疲れるんで」
あまり他人と深く関わりたくないらしい。千景が選びそうなところだ。二人はカウンターの隅に腰を落ち着けて、店員にファーストドリンクを注文した。
「いつもの。茅ヶ崎は?」
いつもので通るくらいには常連らしい。至はしばし考え込み、エル・ディアブロを頼むことにした。
「茅ヶ崎は、ベースじゃなくて名前でカクテル選ぶタイプだろう」
「そうですね。ディアブロとかアガるわー」
できあがるまでの間、至は携帯端末でいつものゲームを始める。今さら千景相手に遠慮もない。特別にイベントはないが、日課だけはこなしておきたいのだ。千景もそれを気にした様子はなく、ネットでニュースをチェックしているようだった。
「先輩のカクテル、それ何ていうヤツですか? 綺麗な色してますね」
「イスラ・デ・ピノス。ラムとグレープフルーツジュースのカクテルだ。〝無防備〟を意味している」
千景のショートカクテルと、至のロングカクテルが出され、二人はグラスを合わせず掲げるだけの乾杯をした。
「ふぅん、カクテルにも意味とかあるんですか。……もしかして、俺のにも?」
「それは確か……〝気をつけて〟だったかな。ふふ、〝無防備〟と〝気をつけて〟なんて、ちょっと意味深だな。もしかして、この後何かが起こるのかな?」
ちらりとよこされる視線に気がついて、至はそれをあえて見返してやった。
「どっちも俺に向けられたメッセージなら、ね」
意味深に意味深で返せば、千景はどこか満足そうに口の端を上げる。その仕種に、思い出してしまった。
あの日の――キス。
SSRが引きたい至の物欲センサーを、千景はキスなんかで回避してくれた。
別に、キスくらいでぎゃあぎゃあ言うつもりはないし、欲しかったSSRは無事に三枚も神引きできたし、問題ない。
問題なのは、千景のその後の発言だ。
『俺女の子苦手なんだよね』
これである。
女の子が苦手、イコール同性愛者というわけではないだろう。免疫がないという意味で言ったのかもしれない。
そもそも、あの発言が本当だったのかどうかさえ、このペテン師相手では分からないのだ。
あの日以来、何もない。
同室の相手ということもあって、最初は身構えたものだが、あっけにとられるほど何もなかった。
(マジ腹立つ)
ホッとしたのが八割、あと二割はなぜか苛立ち。咲也や綴たち純情組だけでなく、よもや自分までもが、からかいの対象に入っていたなんて。
「先輩、真面目に答えてもらいたいんですけど」
「俺はいつだって真面目だけど? なに」
「ゲイなのは真実ガチ?」
間を置かずに訊ねる。だからどうというわけではない。
もはや、劇団には欠かせない人になっているし、至にしても、部屋にいて邪魔に思わないくらいになってきた。これをネタに劇団から追われるだとか、そういうことにはしない。
ただ純粋に、真実が知りたいだけだった。
「女を抱けないから、そうなるんだろうな。夜の相手はいつも男だ。お前にキスをしたあの夜もね」
千景は至を見やって瞬きひとつ。視線を正面に戻し、よどみなく告げてきた。
「もしかしてずっと気にしてたのか」
「……そりゃ、気になるでしょう。あんなことされた後だし、余計に」
「ああ、なるほど。それはすまなかったな。安心していいよ、劇団のヤツらに手を出すつもりはさらさらない。お前も含めてね」
「そりゃどーも」
やはり千景はそうだったのだ、とひとつ謎が消えた。真澄の勘は当たったわけだ。真澄の想い人である監督と二人きりでも、危険性を感じていなかったのは、そういうことだったのだろう。もっとも、真澄がこの解にたどり着いているかは別だ。
ただ、面白くはない。
手を出すつもりはないと、面と向かって言われたのは初めてだ。
いや、別に手を出されたいわけではないし、今までだって、男性にそういうアプローチをされたことなどない。女性相手ならば、少し言葉を交わしただけでさえ、もったいぶった思わせぶりな視線を投げかけられる。それなのに、わざわざそんな宣言をされるとは。
「うちの組織、ハニトラも結構やるからなぁ。エージェントはそういう技術も仕込まれるんだ」
「さっきの設定続いてたんですか。ハハ、先輩は男対象にハニトラ仕掛ける専門ってこと?」
「そう。邪魔なヤツらはそういう問題を起こさせて、会社から消すんだよ。もしくはうちに有利な条件で取り引きさせるとかね」
千景なら本当にやりかねない。そう思わせる何かが、この男にはある。
だとしたら、あの日のキスも、組織とやらに仕込まれた技術なのだろう。確かに気持ちが良かった。まだ感触が思い出せるほど、至の脳裏に焼きついている。
「って、こんなとこでいいかな? 中二病設定はあんまり得意じゃなくて」
「どの口が言うんですかね。先輩、本当に食えない男ですよ」
「俺は食らう方だしな。まあ、食われる方もできるけど。茅ヶ崎、試す?」
「冗談でしょ」
「そう、冗談」
呆れ混じりに返したら、千景は飲み終わったショートグラスの底をぶつけ、わざと音を立てる。
「だからこれ以上踏み込んでくるなよ、茅ヶ崎。それがお前のためだ」
低くなった声のトーンに、ぞく、と背筋が震える。苦痛さが混じったそれに、踏み越えてはいけないラインを越えかけたのだと知った。
「……すみません」
「怒ってるんじゃない、心配してるんだ。俺の毒にあてられて死にたくはないだろう?」
「そりゃまあ……俺もまだ若いんで」
牽制された気分だ。いや、実際された。必要以上に関わるなと。
なぜこんなにも気分が沈むのか分からない。たぶんこんな千景を知っている人間は少ないだろう。
監督ならもしかして知っているかもしれない。仲の良さそうな密も。
そういえば、密の記憶がなかったのはもしかして――そんなふうに一人考え事をしていたら、千景の目の前にコトリとグラスが置かれたのに気づく。いつの間に次のオーダーをしたのだと振り向けば、訝しげに眉を寄せていた。
「……頼んでないけど?」
「あちらの女性からです」
千景は、そのカクテルが置かれた理由を分かっていながらも、あえて店員に訊ねたようだった。案の定、店員はあるテーブルの女性客を手で指す。だが振り向いたのは至だけ。千景は興味もなさそうだった。
(ナンパキタコレ。こういう誘い方ってマジであるんだ)
高価そうなスーツを着たイケメンともなれば、女性がそうしたいのはよく分かる。
そこで自分じゃないのが気にくわないが、至の好みでもないし、正直そういう出逢いは面倒くさい。至も早々にその女性から目を離した。
「遊んでそうな女ですね。話し相手くらい、受けてあげたらいいのに」
「金になるなら、どうにか我慢するけどね。申し訳ないけど、下げてくれる? ウォッカベースは好きじゃない」
千景は本当に面倒そうに、店員にそう告げる。ウォッカが好きではないなどと、嘘までついて。
「東さんたちと結構飲んでますよね、先輩」
「アレはコレとは違うだろう。この状況でアキダウト・カクテルを飲めって? 冗談じゃ――」
「先輩がいらないなら、俺がもらいますけど」
もったいない。至は純粋にそういった思いでカクテルに手を伸ばした。
隣に座っていた千景の目が大きく見開かれる。
「馬鹿っ、茅ヶ崎!」
口をつけるのを止めようとしてか、千景もそれに手を伸ばしてきたけれど、少しだけ遅かった。オレンジキュラソーの色を受けたその液体は、すでに至の唇の中。コクリと一口飲んでしまってからだった。
「え?」
至は驚く。
まさか千景がそんなに慌てるなんて。本当は飲みたかったのだろうか? と首を傾げるも、忌ま忌ましそうに眉を寄せるその表情は、どうもそんなに単純なことではなさそうだった。
「……お前、人に出された物飲むのはマナー違反だろう」
「先輩そういうこと気にするタイプじゃないでしょ」
「茅ヶ崎、あの女に食われたいのか?」
「は?」
「女を振り向くな。俺の質問に答えろ、あの女とホテルに行きたいなら邪魔はしない」
あの女と言われて、このカクテルをくれた女性だろうと思い当たり、振り向こうとするけれど、千景の鋭い視線と低い声に負けて、できやしない。さらに、面倒そうな言葉が降ってくる。
「冗談でしょ。悪いけど好みじゃない」
「ああ、監督さんみたいなのがタイプか? それなら女の好みは悪くないな」
「いや監督さんにそういうアレは……」
「まあお前の好みはどうでもいいけど、面倒なことしてくれたな」
グラスを持つ手首をカウンターに押しつけられる。これ以上飲むなということなのだろうが、面倒という理由が至には分からない。
「茅ヶ崎、怒るなよ? ……俺に合わせろ」
「え、ど、どういう」
『二人で飲もうなんて言ったから期待したのに、女の誘いに乗るのかよ、修司・・
千景の声のトーンが変わる。違う名で呼ばれる。エチュードなのだと瞬時に悟った。
『そ、そんなつもりは』
『カクテルの意味も知らないで、ほいほい受け取るな。一夜だけの遊びができるんだったら、俺でもいいだろ……!』
千景の……千景の役が、押しつけられた手からグラスを分捕っていく。至は役に入りきれずに目を泳がせた。
(一夜限りって、あーもしかしてそういう意味かコレ)
カクテルにも、それぞれ意味があるのだと、先ほど知った。察するに女性から送られたアキダクト・カクテルとやらは、一夜限りのワンナイトロマンスというような意味でもあるのだろう。
それとは知らずにうっかり飲んでしまったことを、さすがに後悔した。千景が怒るのも無理はない。
『修司』
貴史・・ 、え、ちょっと、待っ……』
考え事をしている隙に、グイと強く抱き寄せられた。
〝貴史〟の真意を悟る前に、唇同士が触れてしまう。流れ込んできたのは、一夜限りを意味するアキダクト。
至は目を瞠る。傍にいた店員が、気を利かせてか離れていくのをその視界に認め、顔の熱が上がった。
(怒るなよって、これ、怒るに怒れないんだけど……)
塞がれた唇では、物理的にも、そして助けてくれているのだと思えば、心理的にも怒れない。たかがキスだ、と目蓋を落とす。
(先輩、じゃ、ないか。貴史はずっと修司のこと好きだったって設定だよな。でも貴史だってまんざらでもなかった……違うな、好きだった、の方がいい。期待、したよ。二人で飲もうって言ったら、OKしてくれたの……)
エチュードでも、観客がたとえ少なくても、気を抜きたくない。紬や丞の演劇馬鹿が移ったかなと、至は空いた片腕を背中に回して抱き寄せた。
『貴史、いやだよ、俺……』
いったん唇を離して、正面の彼をじっと見つめる。
〝彼〟の瞳が寂しそうな色に変わるのに、胸がズキリと痛んだ。
『お前とは、一夜なんかじゃ終われない……!』
『修、……』
そうして自ら唇を重ねた。
彼とキスをするのは初めてではない。気持ちよかったあの日のキスを、まだ忘れていない。乗ってくるかなと思いつつ唇を開けば、忍び込んでくる舌先。すぐに捕らわれる……いや、捕らえさせた。
『んっ――』
初心なふりをしようか。それともいっそ積極的に出てみようか。
彼はどちらの方が好みだろう、とうっすら目蓋を上げれば、レンズ越しの瞳と出逢ってしまった。
愛しそうに〝修司〟を見つめるその色に、ドキリと胸が高鳴った。
同時に、ぞわりと何かが背筋を這い上がってくる。
心音が速くなる。〝貴史〟が触れている箇所が、異様に熱い気がしてくる。
(入りすぎた。いや、まだ大丈夫、入りすぎたって思える自分が残ってる)
カウンターで情熱的なキスを交わしながら、至は引き際を探した。いや、探したいのにそうできない。彼のキスは心地が良すぎる。
(待って。待ってヤバい……やっぱこの人相当な場数踏んでんだな……)
ぞわぞわと肌を取り巻くこの感覚が、何なのかは理解できる。
理解はできるが、認めたくはなかった。
(キスひとつで感じるとか、ほんとこの人チート過ぎる。これで何人の男を手玉に取ってきたんだか)
なんだか無性に腹立たしい。
仕事なのかプライベートなのか知らないが、そのうちの一人になんかされたくない。
至は絡みつく舌に歯を立ててやった。
ん、と小さく声を上げて、千景の体は離れていく。その視線は至ではなく、テーブル席の女性に注がれているようだった。
『ここ、出ようか、修司』
『貴史……』
『収まりがつかない』
それでも演技はまだ続けているようで、手が腰に回ってくる。びく、と震えたのは、演技だということにしておいた。

「今後、お前と二人で飲みにいくのはやめにしておくよ、茅ヶ崎。どんなイレギュラーが起こるか分かったもんじゃない」
飲んでしまったアキダクトの分に、チップを少々上乗せして、店を出るなり卯木千景に戻る一人の男。さらりとした髪を、すらりとした指で面倒そうにかき上げるのが、癇に障った。
「すいませんでしたね、世間知らずで。っていうかあんな意味があるとか思わないでしょ、普通」
「茅ヶ崎ならそういう誘いもたくさんあっただろ、これまでに。もっとあからさまなのかな」
おかげで、助けてもらった礼もろくに言えていない。突然唇を奪われたことで帳消しになるだろうかと、視線を背ける。
「あからさまな方が、分かりやすくていいですけどね。色仕掛けで仕事取ったことなんてありませんから、俺は」
「なんだ、いやみとはご機嫌斜めだな」
「誰のせいだと思ってるんです? あ、あんな……突然キスなんかされたら、怒りたくもなりますよ」
今さら唇を拭っても、感触は消えない。
千景の唇、千景の舌先、濡れた音、湿った呼吸、響く衣擦れ。
おかしな気分になっているのは、自分だけだと言われているようで、恥ずかしくてしょうがない。
「怒るなって言ったぞ、俺は。ああでもしないと、お持ち帰りコースだっただろう。あの女、いっそどっちでもいいみたいな顔してたからな」
あの手合いはいろいろ搾り取られる、とネクタイのノットに指をかけて崩す。その仕種にさえ、胸が鳴ってしまった。
(あのカクテル、何ていったっけ、アキ……アキダクト、そう、アキダクトのせいだ。ウォッカが強い……そのせいだ、絶対)
「まあ、お前とのキスは悪くなかったな、茅ヶ崎。うちのエージェントにいたら、ボトムで充分やっていけるだろうに」
振り向いた千景の指先が、至の唇を撫でる。どういうつもりで、そんないたずらを仕掛けるのか、少しも分からない。分からなくて腹が立つ。たぶん、それだけだ。
「じゃあ、先輩がお持ち帰りします?」
その指先が離れていく前に、至はぺろりと舌先で遊ぶ。レンズの奥の瞳が揺れたのを確認して、気分が良かった。
「茅ヶ崎」
とがめるような、いさめるような視線が突き刺さる。動揺は一瞬で隠れてしまった。
自分はこの男をどうしたいのだろうと、至はレンズの向こうの瞳をじっと見返す。慌てさせたいのか、暴きたいのか、跪かせたいのか。最後のはないかなと思いつつ、口の端を上げた。
「俺の中にアキダクトなんか流し込んでおいて、そのまま知らんぷりって、ひどくないですか? 先輩」
「……キスだけじゃ足りなくなったって言うなら、まあ、確かに俺にも責任があるか」
「それな。あんな恋人同士みたいな熱いキス、体が勘違いしちゃってもしょうがないでしょ」
千景はややあって、あからさまにため息をつく。至が舐めた指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、目を細めた。
「ノンケに手を出す気はなかったんだけどな。まあ茅ヶ崎なら、面倒なことになる可能性はゼロだし……いいよ、ついておいで」
どうも子供をあやすような言葉に、至は眉をひそめる。ベッドへの誘いくらい、もっと色気があってもいいんじゃないか。そんなふうに思う。
せめてもう少しだけでも優しさがあれば――そう続けて考えかけ、ふと足を止めた。あれば――なんだというのだろう。
「茅ヶ崎? 怖じ気づいたなら、帰っていいよ」
立ち止まってしまった至を訝しんで……いや、面白がって、千景が振り向いてくる。その言いように至は諦めたように息を吐き、小さく首を振った。
この男に、優しさなんて求めたら負けなのだと。
「行きますから、ちゃんとイカせてくださいね」
「ああ、わりとお安い御用だな」
口の減らない千景に、対抗できる手段など今のところない。至は早々に諦めて、熱のこもる体だけどうにかしてもらおうと、彼の少し後ろを歩いた。

「あ~ラブホとか久々」
「そうなのか? もっといい部屋選べばよかった?」
「別に、そういうの気にしないんで。最近のラブホってラブホっぽくないしね……ああ、俺はもちろん女の子とですよ」
廃人レベルでゲームにハマっていると、そういうことはとんとご無沙汰だ。
もちろん自分で処理はしているものの、異性とはもちろん、同性とこんなところに入るようなことには、なりようもない。
「先輩は、こういうとこよく来るんですか。かわいい男の子と」
「かわいいかどうかは、個人の主観だろう。面食いじゃないとは思うけどね」
「へぇ、意外」
こういうところを利用することを、否定してもらえないのが気に障る。この状況で、他の相手のことを聞いたこちらも、充分マナー違反だとは思うものの、少しは隠したりしないものだろうか。
「まぁでも……茅ヶ崎の顔は、わりと好みだな」
「え? うわっ……」
何の前触れもなく肩が押されて、ベッドに倒れ込む。天井の照明が千景に隠れて、至の視界は突然明るさを減らした。
「ムードない……」
「お前相手にそんなことしてどうするんだ?」
「あの、ちょっと、シャワーとか」
「いいだろ別に」
こちらは別に良くないのだが、馬乗りになられた状態ではろくに動けやしない。
身体能力の差も歴然としていて、覚悟を決めるしかないと引きつった笑いを浮かべた。
千景は何のためらいもなく肩からジャケットを落とし、腕を抜く。ベストのボタンも外し、ネクタイを引き抜く。しゅるりと衣擦れで立つ音がやけに艶っぽく思えて、至は自覚なく頬を染めた。
「そうだ茅ヶ崎。先に言っておく」
ほどいたネクタイをこれ見よがしに掲げてみせ、千景はゆっくり指から落とす。
「抱いてもいいけど、これで俺に惚れるなよ」
唖然とした。
この状況でこんな台詞が言えるのは、たぶん卯木千景だけだろう。
今の今まであった緊張のようなものが、一気に抜けていった。
「誰が、先輩なんか。それに、一夜限りだって分かってて惚れる馬鹿もいないでしょう」
「……ま、そうだな。お前に流し込んだアキダクトワンナイトの分くらい、楽しませてもらおうか」
ふふ、と笑って千景は眼鏡を外す。その指で至のネクタイをほどき、ボタンを外し、?ぎ取っていく。鮮やかだなあとどこか他人事のように思いながら、至はシャツから腕を抜いた。

長い。
そう思ったのは、なかなか千景が離れていかないからだ。
「んっ、んぅ」
舌を絡め、吸い上げ、引き抜かんばかりの強さで、舌を弄んだと思ったら、次の瞬間には優しく触れるだけ。そうして油断したところをまた搦め捕る。上顎を舐められて、ぞわりと背筋を震わせた。
「先、輩っ……ちょっと、いつまでこんなキス……っ」
「ははっ、気持ちよさそうにしてたからな。さっきの店でも、SSR引いてやったあの夜も」
今入る力で目一杯千景の体を押しやれば、それでようやく互いの間に隙間ができる。
荒い呼吸の中で抗議をすれば、面白そうに笑う声。至はカッと頬を紅潮させた。
「好きなんだろう、キスするの」
「なっ……」
確かにキスは気持ちよかった。だが、言われるほど好きではない。と思っている。抗議をしたいのに、濡れた唇を指先で拭われて、胸が鳴った。
「茅ヶ崎、俺はこれでも気を遣ってやってるんだぞ。さっきまで体ガチガチにしてたじゃないか。まあ、初めてのボトムじゃ仕方ないけど」
するりと指先が滑る。喉を通り過ぎ、鎖骨を撫で、やがてひとつの赤に到達する。親指と人差し指に挟まれて、至は息を呑んだ。
「今のキスで、ここは別の意味で硬くなってる」
「先輩っ……」
「ほら、こっちもだ」
胸の突起を両方つままれ、軽くひねられてのけぞる。キスで感じていたことを見透かされて、どうしようもない羞恥に襲われる。
男に抱かれるのは、彼が言うとおり初めてなのに、こんなふうに簡単に快楽を引き出されるなんて。
「お前は運がいいと思うよ、茅ヶ崎。初めての相手が俺なんだから」
「ひぁっ……う」
片方を舌の上(と言うのか舌の下と言うのか)で転がされて、全身に電流が走ったかのようだった。ちゅ、ちゅうとわざと音を立てて吸われ、その音でさえ犯されているような気分になってくる。
千景の指が、舌が、軽く立てられる歯が、至の快感を引きずり出して増幅させる。
「う、うぅ……っ」
「声、抑えるなよ。俺がひどく犯してるみたいだろう」
ほら、と引き結んだはずの唇を指先でこじ開けられ、なだめるようなキスをされた。
誘ったのは至だが、仕掛けたのは千景の方。お互い合意の上での行為のはずだ。
ただ、だからといって恥ずかしさが抜けていくわけではない。
「ここは寮じゃないんだ、俺以外誰も聞いてない」
(……アンタは聞いてるじゃないか)
ピンと立った乳首に口づけられ、至は吐息をこぼすだけに留める。恋人でもない相手にそんな声を聞かせられるほど、こういった駆け引きには慣れていない。
「……先輩、いつもこんなふうなんですか」
「なにが」
「セックス。もっと淡泊で、相手のことなんて気にしないのかと思ってたんですが」
「お前の中で俺はどんな男なんだ……。ま、でもあながち間違っちゃいないかな。普段、こんなに時間をかけて触れることなんてないよ」
肌を強く吸われ、痕がつく。その印を千景の指先は面白そうになぞり、口の端を上げる。
「俺だけ、こんなふうに……?」
「言っただろう、気を遣ってるって。いつもみたいに抱いて自分の欲だけ処理したら、その後気まずくなるのが目に見えてる」
面倒だろうと続ける千景に、さっと目の前が真っ暗になったような錯覚に陥る。ああそういうことなのかと、ほんの少しでも優しさを期待していた自分に気がついて、情けなくなった。
(無理かもしれない……)
惚れるなよと言われたことを思い出す。
いや、きっとまだ惚れてはいない。そのはずだ。
だけど近いうちに、自分はこの男の手に落ちてしまうのだろうという、予感があった。
「確かに……手間かけてすいませんね」
「いや、反応が新鮮で、俺も楽しませてもらってるよ。こういう初心な反応見せる相手は久しぶりだ」
「なら、もっと楽しませてあげますよ」
至は両腕を伸ばし、千景の体を抱き寄せた。
駆け引きも何も分からなくても、こうしてキスを仕掛けることくらいできる。千景の技術に敵うことはないだろうが、それこそ初心な反応を楽しませてやろう。
そう思って、吐息と一緒に千景の舌先を自分の中へと引き込んだ。
「ん、んん……ぁ、ふっ」
千景もそれに乗ってくれて、まるで恋人同士みたいなキスになる。
店でしたときよりももっと深くて、強いつながりのように思う。舌の裏を舐められびくりと腰を浮かせると、予想していたかのような手のひらに、包み込まれた。
「あっ……! や、んぅっ」
直に触れられることで、現実味が増してしまう。千景に抱かれるのだと。
今さら逃げ出す気もないけれど、どうしてこんなことになってしまったのか。
酒の勢いと言うには、お互いそんなに飲んでいない。仕掛けたのは千景で、誘ったのは至。
お互いに責任があって、こんなことになっている。
それを理解していても、どうしても恥ずかしい。
逃れるように顔を背けても、千景はふっと笑うだけ。
「こっちの体勢の方が好きか? 茅ヶ崎」
「なっ、そんなわけっ……あぁっ……」
顔を背けたのをいいことに、その流れのまま体が翻される。すぐに背中にのしかかられて、身動きが取れなくなった。
「せ、先輩……っ」
「茅ヶ崎、腰上げて。……そう、いい子だな」
ぐいと腰を持ち上げられ、必然的に膝が立つ。耳元で低く囁かれ、背が弓なりにしなった。
慣れた千景に比べたら、初めて体験する至は子供のようなものだろう。それでも、こんなに簡単にあしらわれるなんて思っていなかった。
「は、はあっ……あぅ」
「声を出してもいいって言ってるのにな。まあそういう強情さも、たまにはいいか」
千景の手が、至を握り上下にしごき上げてくる。指先はくびれをこすり、形を確かめるかのようにうごめいた。
だんだんと濡れていく音に耳を塞ぎたいのに、この体勢では難しい。清潔なシーツを握りしめて、せめて早くないと言われるくらいには、我慢しようと思うだけだ。
「あ、あっ……ぅう、先輩、駄目……これ、以上、はっ……」
だけどそんな努力も無駄だった気がする。
「イキたいときにイッていい」
「駄目、ほんと、離して、くだ、さ……っあ」
そそり立つ中心とともに、硬くしこる乳首をも責め立てられて、さらには耳元で欲情にまみれた声が犯してくる。そんな状態で、何をどう我慢しろというのか。なけなしのプライドさえ打ち砕いてしまう強い快感に、至は体をびくびくとわななかせた。
「そのまま力抜いてろ」
達して弛緩した体をまた転がされたが、抗議する余裕などどこにもない。
呼吸を整えることもままならない至の唇に、千景の唇が降ってくる。まるで、ご褒美とでも言わんばかりの仕種だが、心地よさに受け入れてしまう。
「っんぁ……や、な、なに」
腰の後ろに、何かふわふわした物が差し入れられる。どうやら枕らしく、その高さ分腰が上がった。膝の裏に手を入れられて、ぐいと大きく開かされた。とんでもない格好に、至の羞恥は最高潮に達する。
「なにしてんですか先輩っ……」
「ああ、顔が見たかったから。茅ヶ崎ならきっといい顔してくれるんだろ」
人にこんな恥ずかしい格好をさせておいて、一切悪びれることもなく、千景はさらりと言ってのける。
「こら、だから力抜けって言ってるのに。ちゃんと慣らすから」
「な、慣らすって……ひあっ」
ぬるりとした感触が、尻の間にある。ボトル型の潤滑剤が、千景の手を伝って至にまで降りてきていた。カアッと顔の熱が上がる。全身の熱が上がる。
そこを使うのは理解していたが、いざこうして目の当たりにすると、羞恥以上の怯えがあった。
「せ、先輩、待って、あの、本当に」
「平気平気、こっちでイカせてやれるから。おとなしく足開いてろ、茅ヶ崎」
怖じ気づいたわけじゃないよな? と暗に言い含める千景に、イエスともノーとも言えない。だがここまでしてしまった以上、最後までするしかないだろう。自分だけ気持ちよくなって終わり、ではあまりにも薄情だ。
至は何度目かの諦観を込めた息を吐き、言われるように体の力を抜いた。
「う……」
尻の間の窄まりを何度か撫でていた指先が、つぷりと入り込んでくる。違和感らしきものはあったが、先入観が働いたものでしかない。
思っていたよりするりと入り込まれてしまって、肩すかしを食らった気分にもなる。
「痛くはないか?」
「ない、ですけど……気持ちよくもない」
「ならいい」
「いいんだ?」
「まだ、入れただけだろ。俺の指で乱れるのはこれからだぞ」
ニ、と皮肉げに上がる口の端。ぞくりと背筋を這い上がったのは、悪寒にも似た快感だった。
「そ、な、指なんかで……っ」
中で、千景の指が動くのが分かる。息を呑んだ。
付け根まで押し込んでいた指を、ゆっくりと引き抜かれて、喉の奥で声が詰まった。
「あっ……」
足された潤滑剤とともに、また指が突き進んでくる。中で関節を曲げ、広げられているのが伝わった。
増えた潤滑剤がぐちゅりと音を立てるせいか、余計に恥ずかしい。
「ほら茅ヶ崎、入れるだけじゃないだろ」
「待っ……て、先輩、そん、な、回さないで、くださ……っあ、あぁ」
入り込んだ指先を固定して、ぐるりと押し広げるように手を回す千景。びくびくと体が震え、つま先が踊った。
「エロいこと言うなあ、茅ヶ崎は。指増やすぞ」
「や、いやだ、やめ……っんぁ、あ、あっ」
また増やされる潤滑剤と、今度は一緒に指が増える。前後に、左右にと好き勝手に動く指に翻弄されて、違和感などとうに吹き飛んでいた。
「あ、あう、ああっ……ん、んぅ」
「いい声が出てきたな。気持ちいいだろ」
千景がそう訊ねてくる。からかう目的でないのが分かるから、至は視線を泳がせて、目一杯ためらって、おずおずと頷いた。
「よくできました」
くいと俯いた顎を持ち上げられ、またご褒美のキス。
他の相手にも、こうして何度もキスをするのだろうか。
そう思うと悔しくてしょうがない。
きっと他の慣れた相手たちは、こんな時上手におねだりするのだろう。そんなことはしてやるものかと、唇に軽く歯を立ててやった。
「……ふ、くくっ、かわいいな茅ヶ崎」
「嬉しくないです」
「そう? こっちは喜んでたけど」
「あッ、ちょ、待っ……」
ぐっと指を突き立てられて、のけぞる。それを追ってきた千景の唇が触れてくる。
「ほら、キスをすると、……俺の指に絡みついてくる。もう一度……」
「んっ、んむ、んんっ……」
「気持ちよさそうに腰揺らして、物足りないって言ってるのに」
「そんなこと、してない、でしょうっ」
「意地っ張りだな」
さらに指を増やされて、ほんの少しの痛みと目一杯の快感が、至の体を支配した。
「先輩、いや、いやだ、あ、だめ……駄目、こんな、あぅ」
「駄目っていう顔じゃないよ、茅ヶ崎」
ぬぢゅ、ぬぢゅ、とわざと音を立てながらかき回してくる千景。心までもがかき乱されて、至は自分の浅ましさから目を背けたくて顔を横向けた。
「エロ魔神……」
手の甲で口を覆って呟いたのに、それは千景の耳に届いてしまったようだ。にっこりと笑う表情が恐ろしい。
「そうだな、初めてのお前をここまで乱れさせられるんだから、もう魔神クラスかもしれないな。茅ヶ崎、何か召喚して対抗するか?」
「バトルキタコレ」
「しないのか」
こつ、と額がぶつかる。はぁ、と漏れた千景の小さな吐息で気がついてしまった。千景が欲情しているのだと。
どく、と胸が高鳴った。
余裕だと見せかけておいて、欲を隠すペテン師を知ってしまったら、対抗も、抵抗もできない。
「使っていいんだったら、じゃあ、……体力回復魔法で」
両腕で千景の背を抱き、ドキンドキンと鳴る心臓を隠しもせずに、ゆっくりと呟いた。
「先輩のそれ、全部受け止める自信ないんで」
この至近距離で、その心音に気づかれないわけはない。赤い顔も気がついているに違いない。
「……惚れるなって言っただろ」
「惚れてませんよ、自信過剰なひとだな」
「それは残念」
「残念って顔してませんね」
「そうかな?」
「そうですよ」
ゆっくりと唇が引かれ合っていく。触れ合う直前まで目を閉じなかったのは、奥に潜む孤独に気がついてしまったからだろうか。
キスとともに、千景の優しい手が素肌を撫でていく。
はあ、と吐く息が唇のすぐ傍で混ざり合って、どちらのものか分からなくなった。
「あ」
潤滑剤を施した千景の熱が、散々にかき回されたそこに押し当てられる。ぐ、と先端を押し込まれて、至は歯を食いしばった。指とは比べものにならない圧迫感に息が止まる。
「う、うぅ……」
なだめるように髪を撫でられ、安堵して力が抜け、また押し込まれる。その繰り返し。
「ちょっと、待って、あ、待っ……あぅ、ん」
至にも千景にも塗り込められた潤滑剤が、体の中で混じり合う。
結合していく部分の淫猥な音は至の耳を犯し、気分を高揚させていく。
「さすがに、キツいな……」
震えそうな吐息と一緒に耳元で囁かれ、胸が高鳴った。それはいい意味なのか悪い意味なのかと訊ねようとして、ふっと目蓋を持ち上げた。
「……っ」
そこに頬を上気させた千景を見つけてしまって、余計に胸は高鳴ってしまう。
(何これマジ無理)
ドキンドキンと心音がうるさい。千景の触れている箇所すべてが熱を持っているように思えてならない。
「茅ヶ崎……力、抜いて。奥までいかせてくれ」
もう無理だ、と思った。たとえこれがこの男のいつもの手管なのだとしてもだ。
たぶん、落ちた。
そう思ったのは、これが最初だ。
至は「しがみついててもいいですか」と両腕で千景を抱き寄せ、ゆっくりと息を吐く。
千景はそれに合わせて腰を推し進めてきて、至は声を上げてのけぞった。
「あ、あぁ……っ」
千景の熱が、至の中を突き進む。胸が合わさって、互いの間で汗が潰れた。
「ひぅっ……」
奥までいかせてくれと頼んできた男は、どれだけもそこにとどまっておらず、ずるりと引き抜いていく。心許なくて千景を腕で引き留めると、突き戻されて脚が揺れた。
「駄目、だめ、こんな……っ先輩、いやだ」
「腰振りながら言うなよ……」
「振って、ない……っ」
至の羞恥を煽るような言葉を、わざと言っているのだと分かる。腰なんか振ってないと抗議するように、首だけ振った。ぱさぱさと揺れる髪が額に当たって、ささいな刺激につながった。
「ん、んん、う……あぁっ」
「かわいいな、茅ヶ崎」
「か、わいく、ないです……!」
そんなことを言われても嬉しくない。一夜限りの相手に対して、口説くような文句を吐いてどうするのだと、背中に爪を立ててやった。
「こら」
「あっ……」
お仕置きとばかりに鼻先をかじられ、膝が胸につくくらいに曲げられて、ずっと奥まで入り込まれる。中で混ざり合う潤滑剤と体液が濡れた音を響かせた。
「あぁっ、あ、ん」
「気持ちよさそうだな」
「先輩、先輩……っ」
たしん、たしん、と肌がぶつかる。汗が飛び散ってシーツに溶けていく。
「や、いやっ……こんな、だめ、い、い……」
じゅぷりじゅぷりと淫猥な音を引きつれて、千景は至を責め立てる。がっちりと腰を抱えられ、引き寄せられては押しやられ、引き留めたいのにさせてくれない。
「せんぱい、い……く、いい、も、いやだ」
は、は、と息が荒くなる。熱が集中していくのが分かる。
こんなふうになってしまうなんて思わなかった。
千景の熱に、千景の吐息に、汗のにおいに、欲情してはじけそうになるなんて。
「……茅ヶ崎っ、そんなに、……締めるな」
詰まるような千景の声に、ぶわりと全身があわ立った。締めるなと言われても、無意識なのだから、どうしようもない。至はあまりの快感に首を振り、ぎゅうと千景を抱きしめる。
「ん、んんっ、ん、あ、あぁ……――ッ」
「ん……っ」
びくびくと体が震え、至は欲を解放した。それに引きずられてか、至を抱く千景の腕が強くなる。引き抜かれていく速度が速くて、引き留めるのには失敗した。
「あ、ああっ」
ひくつく穴に、びくびくと痙攣を続ける腹に、千景の体液がかけられる。その刺激にさえ感じてしまって、気持ちよくてしょうがなかった。
「はあっ、はぁ、あ……」
「茅ヶ崎……大丈夫か」
乱れた髪をかき上げたその手で、千景は至の腹に飛び散った体液を拭う。
「どっちのか分からないな」
ふ、と笑う口元に、途端にこみ上げてくる羞恥。ふいとそっぽを向けば、その体液を乳首に塗り込められた。
「や、なにっ……」
「乳首立ってたから……足りないんじゃないのか?」
「たっ、足りてます! あっ……」
くにくにといやらしくこね回され、膨れ上がる期待。
「嘘つき。それは俺の専売特許じゃないのかな」
「嘘なんて……あ、あ!」
かり、と爪の先で引っかかれて、腰が浮く。こんな反応をしてしまえば、千景に何も反論できない。
「茅ヶ崎」
促すように耳元で囁かれ、きゅっと唇を引き結ぶ。その間にも千景の手は汗で湿る肌をなで回し、肝心なところには触れずに揺さぶりをかけてくる。
「先、輩……」
触れてくれない愛撫がもどかしくて、至はゆるゆると手を上げた。それを千景の手に添え、いまだにひくつく窄まりへと誘導した。
「も、もう……一度……」
吐息と一緒にそう囁けば、千景は満足そうに口の端を上げる。
「一度じゃすまないけど?」
くちゅりと音を立てて指先でかき回され、膨れ上がる期待と疼く熱。
目一杯求めてもいいのなら、何度だっていい。
「……構いませんよ、先輩」
至は腰を揺らして千景を誘い込む。欲情したい。欲情されたい。
「俺をもっとイカせてください」
この一夜だけの恋ならば。

すっかり身支度を調えた千景は、いまだにベッドですやすやと眠る男をソファから眺める。さすがに初めての相手に無茶をしすぎたかと、今になって反省した。
思いがけず夢中になってしまったのは、少なからず気を許した相手だったからだろうか。
気を許している相手だからこそ、抱くべきではなかったというのに。
(面倒なことにはならないと思ってたんだけどな)
ノンケに手を出すと後が面倒だというのは、聞いた話として知っている。男の味を知ってしまった相手に本気になられたら困る――そんな話は何度も聞いていた。実際面倒なことになったエージェントも知っている。だが、体感したことはまだ、なかった。
そう、まだ、なかった。
だけど早々に、眠るあの男の手に落ちてしまうのだろうという予感がある。
乱れたらきっとものすごいのだろう。予想に反さず、初心な言葉を吐きながらもしがみついて絡みついて、甘ったるく切羽詰まった声で「先輩」と呼んでくる彼に。
「乗るんじゃなかったな、あんな誘い」
ふっと苦笑して、好奇心と欲に負けた昨夜の自分を後悔する。
ノンケに惚れても先がない。
酒の勢いで一夜限り、相手をしただけだ。
そう言い聞かせるが、この唇はキスをしたがってしょうがない。
千景はソファから腰を上げ、起きてしまわないように祈りつつベッドに手をついた。
ゆっくりと唇に触れれば、つい数十分前までの濃密な時間が思い起こされる。
これ以上は駄目だと理性を総動員させ、ほんの数秒触れるだけで体を離した。
本格的に面倒なことになりそうで、どうしようもない。
〝俺に惚れるなよ〟
そう言った手前、こちらから惚れることなどできない。惚れてももらえない。
千景は再度ソファに腰を下ろし、見慣れない天井を見上げる。
これから、どれだけ自分をペテンにかけられるか。それにかかっている気がした。
「……先輩?」
小さな声が聞こえる。ベッドの上で所在なさげに揺れた腕に、胸が鳴った。そこにあると思った温もりに触れ損ねて探しているのだろう。
たぶん、落ちた。
明確にそう思ったのは、これが最初。
「茅ヶ崎」
ゆっくりと声をかければ、重たそうな目蓋を持ち上げて視線をよこしてくる。
そこにいたのかという安堵と、何を自分だけさっさと身支度しているのかという不満と、ベッドに一人きりだったという寂しさが、ない交ぜになったような瞳と出逢った。
(……無理だな、これ)
最後の一線は越えないようにしていたものの、どこかで越えてしまってもいいかと思う気持ちがあったに違いない。
千景は諦めたように目蓋を伏せ、呆れて息を吐く。
「ずいぶん間抜けな顔で眠ってたな。おはよう」
「なっ、……へ、変な写真とか撮ってないでしょうね、先輩」
「変な写真って? お前が俺の下で喘いでるとこか? それとも俺の上で腰振ってるところ?」
記憶にはあるらしく、至は顔を真っ赤にするだけで、否定はしてこない。
そんな反応がやっぱり新鮮で、手遅れだなと感じてしまった。
「心配しなくても、写真撮って脅して関係を迫るなんて真似はしないよ」
一夜限り、気を許した相手を抱いた。それだけだ。続ける気もないし、叶わないだろう。
「別に脅迫なんてしなくても……俺、構いませんけど。たまになら、その、……しても」
千景は驚いて思わず目を瞠り、至を見やった。
赤い顔を背け、恥ずかしそうに唇を引き結ぶ彼をそこに見つけて、千景こそが目を泳がせた。
「……ノンケが何を言ってるんだか」
「ちゃんと欲情したから、ノンケってわけにもいかないんでしょうね、これ」
「俺に惚れるなよって言っておいたのに」
「惚れてません!」
勢いよく枕が飛んでくる。「それは残念」と本音を返し、受け止めた枕を手に腰を上げた。
「俺、一度寝たヤツと二度は寝ない主義なんだ」
これまでのことを思い起こして、主義というよりは面倒を避けただけの事実を口にすれば、至の肩がびくりと震えたのが分かる。
「でも――茅ヶ崎ならいいかな。お互いの気が向いたときにこうして寝てみるのも」
「え――」
投げつけられた枕をベッドに戻すのと同じ速度で、至の腕を引き唇を合わせた。
薄く開いた唇を吸い上げれば、誘うように緩む。それを逃すことなく舌先を押し込んで、捕らえて引き出した。
「ん、んぅ、あ」
そのままベッドへ押しつけて、朝にしては熱烈なキスを楽しむ。
苦しそうに喘ぐ声にやっと解放してやれば、期待に満ちた瞳が見上げてくる。それに欲情するのは、もう仕方のないことだ。
「もう一夜限りって時間じゃないけど、抱こうか?」
「俺たまにならって言いましたよね? 今とか意味分からないんですが」
「今ならまだ柔らかいだろう、ここ」
「んあっ……あ」
いい声、と口の端を上げながら、せっかく調えた身支度をまた崩していく。期待して揺れる瞳を見下ろしながら、千景は眼鏡を取り去った。

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