右手に殺意を 左手に祈りを

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茅ヶ崎至は、きゅっとシャワーのコックを下げて、降ってくる湯を止めた。
ぽたりぽたりと髪の先から落ちる水滴。細い指先で髪をかき上げて後ろに流し、脱衣スペースでバスタオルを持ち上げた。
清潔なタオルは気持ちが良い、と体の水分を拭き取り、髪を拭く。軽くドライヤーをかけ、タオルを肩にかけるだけでバスルームをあとにした。
服など着るだけ無駄だからだ。
(脱がす作業が好きとかいう人だったら、ちゃんと着たかな。や、でも面倒くさい)
というのも、ここは自分の部屋ではない。入っている劇団の寮でもない。安っぽいわけではないし、逆に高級なわけでもない、そこら辺に立ち並んでいるホテルの一室だ。ただ、宿泊というより情事専門のホテルというだけで。
至はバスルームのドアを開け、部屋にいるであろう相手に声をかけようとした。
途中まで出かかった声が、唇の前で止まる。
彼――卯木千景は、そこから見えるベッドの縁に、腰をかけていた。来たときのままのスーツ姿で、膝に腕を乗せて、項垂れている。
珍しいものを見た気がした。
卯木千景は、至の勤める商社の先輩で、担当は違うもののその手腕は誰もが知るところだった。
仕事をスマートにこなし、同僚や上司の覚えもよく、下手な妬みや恨みは買わない。
女性たちの憧れの的なのだろうに、浮いた噂は流れてこない。平等に接しているせいなのだろう。
後輩へのフォローもしていると聞くが、正直そんな完璧な人間がいるものかと、至は思っていた。
千景は海外の取引先を多く担当し、まだ経験の少ない至には関係のない部門で、交流もなかったせいか、噂でしか彼を知らなかった。
いつだか、数部署合同の飲み会に、無理やり参加させられたことがある。その時だ、彼と初めて言葉を交わしたのは。
柔らかい物腰と優しそうな声。そう思ったあとに、どこか噓くさいな――そう感じたのを覚えている。
だけど、基本的に他人に興味を持てなかった至が、千景の〝噓〟に踏み込もうと思うはずもなく、そのまま会社の先輩後輩として過ごすはずだったのだ。
『茅ヶ崎って、他人に興味なさそうだな』
帰る方向が一緒だったせいで、いつの間にか二人きりになってしまった際、冷めた声でそう呟かれ、心臓が飛び出るほど驚いた。
会社ではそんなこと、隠してきたはずだったのだ。猫を被っていれば、仕事も人間関係もスムーズに流れていく。それを知っていたから。
『俺に興味のないヤツの方が、都合がいいか』
そう言って笑ったあとに、千景の唇が重なってきた。拒まなかったのは、他人に興味がなさそうと言った彼の方こそが、誰にも興味がなさそうだったからだ。
だからだろうか。興味を持ってほしいなんて思って、彼の誘いを受けたのは。
同性とセックスなんて、考えたことがなかった。
そんな至をさえ、ベッドの上で啼かせ、喘がせ、イかせた千景。悪くはないかな、とときおり体を重ねる関係になった。
これが何度目なのかは、数えるのをもう大分前に止めていて分からない。
だけど、両手で足りないくらいの回数を重ねていても、千景のあんな姿は見たことがなかった。
珍しいものを見た、と思うと同時に、見てはいけないものを見たような気がした。
千景の手には、見慣れない携帯端末と、写真のような紙切れが握られている。いつもかけている眼鏡を外し、その蔓を持ったまま目元を押さえる。
疲れているのなら、こんなことをせずにまっすぐ家に帰ればいいものを――と至が思ったそこで、
「オーガスト……ッ」
千景の、絞り出すような声が耳に入り込んできた。
どく、と心臓が大きな音を立てる。
根を張ったように足が動かなくて、至は瞬きさえもできなかった。

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