右手に殺意を 左手に祈りを

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そうして、なんとか昼休憩まで過ごしたわけだが、ランチをどうしようかと悩む。
無理やり詰め込んだ朝食のせいか、空腹感はないし、食欲も湧かない。そもそも立つことさえ億劫なのだが、これを逃したら定時までキツいだろうと、体にムチをうって立ち上がった。
ひとまずコンビニでも行って、適当にサンドイッチでも買おうとエレベーターの方へ向かう。そこで、聞きたかった、聞きたくない声がかけられた。
「茅ヶ崎」
びく、と体が強張る。振り向かなくても分かる、卯木千景の声。
「お、はよ……ございます」
「ちょっと、こっち来て」
「え?」
顔を合わせづらくて、視線を逸らしたままで千景に答えれば、腕を掴まれて非常階段の方へ歩かされる。
肩の痛みはまだあって、腰の鈍痛や脚の付け根の違和感で、相当歩きづらかったのだが、人の波に逆らうように千景の後を追った。
非常階段のドアを開けてすぐの踊り場で、ようやく腕を解放してもらえる。やっぱり昨夜のことを怒っているのかと、至は歯を食いしばった。
「あ、の……」
「これ、ホテルの洗面台に置き忘れてたぞ。コンタクト」
何を言われるかと思えば、どうやら忘れ物を届けてくれたらしい。ワンデータイプの箱を、置き忘れてきていたようだ。
「あ、す、すみません……」
至はそれを受け取って、ホッとした。気まずさはあるけれど、千景は概ね普段通りでいてくれる。
「……茅ヶ崎、ちょっと訊きたいんだけど」
「はい?」
「昨夜のこと、その……」
「あ、あの、すみません、俺、余計なことしたかもしれないですけど、できれば、忘れて、くれると……」
やはり話題は昨夜のことになってしまって、早口でまくし立てた。
忘れてほしいなんて言うのは、無責任だと分かっているが、言わずにはいられない。
千景を傷つけただろうことを、自分自身も忘れてしまいたい。
「……茅ヶ崎? それ、忘れなきゃいけないようなことが……あったってことか?」
「え?」
「昨夜のこと、ほとんど覚えてなくて――」
目を瞠る。
(な……に? 何言ってんの、先輩)
記憶をごっそり抜き取ってほしい、と祈ったのは事実だが、千景が本当に何も覚えていないなんて。
そういえば珍しく寝入っていたし、状況を考えれば、相当なショックがあったことは、理解ができる。
「なんだかひどく疲れてるみたいだけど、俺……そんなに無茶させたのか? 悪い、そんなふうにしたのに、覚えてないとか」
千景から発せられる気まずさは、覚えていないことに対する後ろめたさだったようだ。
「だ、大丈夫です」
「でも、ふらふらしてるぞ。仕事、できてるか?」
「……はい……」
至は次第に俯いていく。
忘れてほしいと思ったものの、本当に全部忘れられてしまうのも寂しいなんて、身勝手なことを考えた。
(なにこれ……)
傷ついたことは忘れてほしい。だけど、ひどい行為でも熱を分けたあの時間のことは、忘れてほしくなかったのだと気がついて、きゅっと唇を噛みしめる。
「しんどいなら、医務室へ」
「――千景さん、ちょっとだけ、寄りかかってもいいですか……」
「ああ」
立っているのがそれほど辛いわけではなかった。だけど千景は、迷いもせずに抱き寄せてくれる。至は千景の肩に額を預け、ゆっくりと、小さく、息を吐き出した。
(忘れてるんだ、本当に……)
千景と呼んでも、何ら変わった反応を見せなかった。昨夜「お前には許可してない」と言ったはずなのに、呼ばせてくれる。
(忘れよ……その方がいい。先輩が忘れたいなら、俺が覚えてたってしょうがない)
オーガストという名も、ディセンバーという名も、心の奥底に閉じ込めておこう。
至はそっと目蓋を閉じて、スーツ越しの体温を感じた。
「もう、大丈夫です。お昼ご飯の時間なくなっちゃいますから、行きますね」
そうして千景の体を押しやり、にこりと笑ってみせる。
「茅ヶ崎」
心配そうな顔をする千景を押しのけて、フロアに出るドアノブを握った。
そのまま千景の傍を離れるつもりだったが、突然腕を掴まれて、叶わなくなる。
「……これなに、茅ヶ崎」
千景が、至の手首を胸元まで引き上げる。引きつるような痛みに顔をしかめたが、もう隠す余裕がない。
「なんでこんなのついてるんだ」
時計で隠せなかった左手首、時間が経って濃くなってきてしまった拘束の痕。
うかつだったと後悔しても、もう遅い。千景が気づいてしまった。
「もしかして、俺が……?」
千景は眉を寄せて、思い出せない昨夜の行為を思い出そうとしているようだ。
至は掴まれた腕を振り払って、こんなのは何でもないとまっすぐに千景を睨(ね)めつける。
「覚えてないなら、別に構いませんよ。気にしないでください」
「そんなわけにはいかないだろう、おい茅ヶ崎!」
「俺が頼んだからとか、考えないんですか? 先輩にとって、楽しくはなかったんだろうなって思うだけですけど」
千景に、思い出してほしくない。どうしてあんな乱暴な行為に至ったのか、認識してほしくない。
こんな、いつか消えてしまう傷なんかより、千景の心につくだろう深い傷の方が耐えきれない。
「じゃあ、ホントに食いっぱぐれるんで、行きます。コンタクト、ありがとうございました」
言って、まだ納得していなそうな千景を振り切る。階段のドアを閉めて、無理に足早に踏み込んだ。追いかけてこないところをみると、この傷のことを気にしてしまっているのだろうと推察できた。
(覚えてないなら……その方がいいのに。でも、もし思い出したら、先輩の傷に、俺でも少しは関われるのかな、とか……馬鹿みたい。みたいっつーか、馬鹿)
オーガストのことを、ディセンバーとやらのことを考えるたびに、千景は傷を深くしているに違いない。もし昨夜のことを思い出したら、必然的に傷が深くなる。その原因に、自分が少しでも関われる。
傷ついてほしくないと思う傍らで、その傷に触れていたいとも思う。相反したふたつの気持ち。
至は再度エレベーターの方へ向かい、どうしたらこの気持ちが消えてくれるのかと、ぼんやり考えた。

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