右手に殺意を 左手に祈りを

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「明日稽古あるから……あんまり激しいのやだったんですけど……」
ぐったりと手足をベッドに投げ出して、至がそう呟く。
そういえば彼は劇団に入っているのだったっけと、千景はその言葉で思い出した。
会社での猫被りはそこで培ったのか、それとも猫被りの技をもっと磨きたかったのか。それは分からないが、ベッドでの乱れっぷり以外にも、至には隠している顔があるのだろうなと思う。
千景自身、隠している顔があるせいか、至のそういう部分には好感というか、共感を持っていた。
「なんだ、それならそうと、早く言えばいいのに。手加減してやったぞ?」
「……別に、いいですよ……稽古っていっても、俺の組は公演まだですし……発声とか体力作りとか、エチュードばっかりだし」
濡れたタオルで至の体を拭いてやりながら、ふぅんと適当に相づちを打つ。
こんなふうに甲斐甲斐しく世話をしてやるのも、千景には初めての相手だ。いつもは一夜限り、コトが終わればすぐに別れていた。
だけど至は、職場での後輩だ、あまり無体なこともできないし、あとが面倒くさい。
「組って、いくつかあるのか?」
「春夏秋冬、四つ組に分かれてるんです。俺は春組。もうすぐ冬組の公演があるんですよ。だから稽古は必然的に彼らが優先」
「なるほど……結構な大所帯だな」
「それなりに楽しいですよ。あ、先輩も興味あれば観にきてみます?」
「遠慮しとく」
「……ですよね~」
残念そうにぽすんと枕に顔を埋めた瞬間、無粋なコール音が響いた。至の携帯端末だ。
こういう時くらいマナーモードにしておけと、ベッドをまさぐって端末を手渡してやる。
ちらりと見えた画面には、〝月岡紬〟との表示。悪気はないが、自分の癖かもしれないとは思う。情報はあって過ぎることはない。茅ヶ崎至についての情報は、思ったより少ないのだ。
友人か、それとも件の劇団の仲間なのか、至は千景から端末を受け取ると、ほんの少し柔らかな表情になった。
(親しい相手か。俺には見せないな……)
千景はほんの少し、眉間のしわを深くする。友人と、ただのセフレに対する表情など、違いがあって何の不思議もないというのに、イライラしてしまう。
後ろめたい相手ではないようで、至はそのまま通話を始めてしまった。
「紬? どうしたの、珍しいね。稽古中じゃないの?」
稽古中という単語で、劇団の仲間なのだと分かる。別に聞いて有益なことはないだろうと思い、千景は立ち上がってバスルームへ向かいかけた。
「え? うん、まだ外だけど……は、マシュマロ?」
(――え?)
杭でも打たれたかのように、足が動かなくなった。
マシュマロという菓子は、千景にとって……いや、エイプリルにとって、切り離し難いものだ。
珍しい菓子でもないのに、過敏に反応しすぎだと、未熟さを嘆いて、息を吐いた。いちいちそんなものに反応していては、いつか足下をすくわれる。
(あの裏切り者のせいで、こっちの身だって危なかったんだ! どこにいても、見つけ出してやる)
殺したいほど、憎い相手がいる。
大切な人を裏切って、逃げ延びた男。
いや、生きているのかいないのか、それさえも分からない。〝彼〟が死んだときの状況を聞けば、生きている確率は低いとは思うのだが、生きていてほしい。
(生きていろ、ディセンバー。俺が、この手でッ……!)
この手で、〝彼〟の敵を討つ。そう決めて、今を生きている。
あの男が好きだったマシュマロという菓子に、過敏に反応してしまうのは、そのせいだ。
「俺もうしばらく帰れないよ。うん、ちょっと、残業。ハハッ、万里でもパシらせれば? アイツ何だかんだで面倒見いいし。これでいいっしょ、なんつってちょっと高めのマシュマロ買ってくるんじゃない? 密、喜ぶよ。うん、ごめん手伝えなくて。じゃあ」
(――な、に……?)
千景は目を大きく見開いた。至が発した言葉の中に、聞きたかった、聞きたくもない名前が含まれていたことに。
(ひそか……密!? な、ど、どうして……馬鹿な、そんな、まさか……!)
あの男が彼につけてもらった日本名は、〝御影密〟。
ドクンドクンと心臓が波打つようだ。どうして至が、その名を口にするのか。しかも、マシュマロというアイテムを伴って。
千景が探している人物に合致する符号が、ふたつ、同時に、そこにある。
千景はその場で少し振り返って、震えそうな声をどうにか我慢して、口にしてみた。
「……マシュマロ?」
「え? ああ……劇団に、すごくマシュマロ好きなヤツがいるんですよ。どこでも寝ちゃうんで、マシュマロで起こすっていうのが定石で。どうもそのストックが切れそうだっていうんで、お遣い頼まれたんですけど」
こんな状態じゃね、と至は笑う。
残業だなんて噓をついて、男とベッドを共にしていたなんて、劇団の仲間には言えないだろう。
だが千景は、至のそんな自嘲に付き合っている場合ではなかった。そうだなと適当に返し、バスルームへと逃げ込んだ。
ガンガンと頭が痛む。
(アイツだ……ディセンバー……! やっぱり、生きて)
探していた、殺したいほど憎い相手が、まさかこんなに近くにいたなんて。日本には、灯台下暗しという言葉があるらしいが、正にその状態である。
千景はシャワーのコックを上げ、頭から水を被った。
(劇団……、劇団員だと!? そこがお前の隠れ蓑か! 盲点だった、顔を出すようなところなんて、見つけてくれと言ってるようなもんだと、除外していた!)
ダン、とバスルームの壁を叩く。水滴がちりぢりになって飛んだ。
ぎゅう、と強く拳を握りしめる。ぎり、と歯を食いしばる。
「は……はは、もうすぐだ、オーガスト……やっとお前の敵を討てる……! 待っていてくれ、もうすぐ……!」
降ってくる冷水の下で、千景は両手で顔を覆った。

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