右手に殺意を 左手に祈りを

この記事は約4分で読めます。

 

無事に初日の公演が終わり、明日に備えてしっかり休もうということになったのに、千景は一〇三号室に足を踏み入れるなり、スーツケースに手を伸ばした。
「どこ行くんですか?」
「ああ、ちょっとスーツケースを貸すことになって」
もう寝ていると思ったのか、至がそう声をかけると、ほんの少し肩が揺れたように見えた。
「そう、ですか」
「すぐ戻ってくる。先に寝てろよ」
「はーい。おつです」
そう言う千景をベッドの上から見送った。フリをした。
「……戻ってくる気、ないくせに」
分からないとでも思っているのかと、ゲーム機を手放して携帯端末の方へ手を伸ばした。
情けないなと思いつつ、LIMEである人に連絡を入れる。
「……あ、咲也? ごめん、寝てた? ちょっと頼まれてほしいんだけど」
数コールの後、我らが春組リーダーである咲也が、端末の向こうで応答してくれた。
『至さん? どうしたんですか。明日の公演のことで何か……?』
「んー、公演っていうか、それ以前っていうか。関係はあるんだけどね。先輩のこと、引き留めてくれない?」
彼は、出ていったまま戻ってくる気がないのだと思う。
詳しいいきさつは分からないが、あの日密とともに戻ってきたということは、和解できたのだろう。ひどい誤解があったのかもしれない。
復讐だけを生きる目的にしていた、なんて本気で言っていた千景が、その目的をなくしてしまったのだ。
ここにいる意味がないという思いだけなら、見送るべきかもしれない。
だけど、どうしても嫌な思いが渦巻く。
生きる目的をなくして、気力をなくしてしまうほど弱い男だとは思っていない。
しかし簡単に踏み越えられる状況でも、強い男でもないのだろう。
「咲也、お願い。先輩のこと連れ戻して」
『千景さん、出て行っちゃったんですか……?』
「うん、ついさっき……本当に今。まだ捕まると思う。お願い」
至は、何度もお願いと繰り返す。咲也がそういう言葉に弱いのも知っていて、それに甘えて、ねだった。
「俺じゃ無理なんだ、あの人には俺の声なんか届かない。絶対に手を振り払われる……でも咲也なら平気だと思うんだよね。先輩、何だかんだで咲也のこと気に入ってるみたいだったし」
『至さんの声も、充分届くと思いますけど、でも、待っててください、オレ、絶対に止めてみせます!』
咲也の後ろで、どうしたネ~? と眠そうなシトロンの声が聞こえる。あっすみません起こしちゃって、と慌てる咲也の声が聞こえる。
絶対、と言い切れる咲也の強さを、少し分けてほしいと思いながら、LIMEの通話を打ち切った。
至はベッドの上に仰向けになり、腕で目元を覆う。
もし咲也に止められなかったら、きっと誰にも止められない。いづみにも、密にもだ。自分はもっと可能性が低くて、心臓が締めつけられる。
「食べてくれたのにな……おにぎり……」
作ったおにぎりを食べてくれたのは嬉しかった。みっつにしたのは、千景の分と、密の分と、オーガストの分。昔は、仲良く食べていたのかもしれないという思いからだ。
食べるという行為は生きるという意志に繫がっていて、千景は生きようとしてくれていると思えたのに。
「ひとりにならないでくださいよ、先輩……」
生きる目的をすぐに見つけなくてもいい。この劇団でせめて温かなものに触れて、ゆっくり探していってほしい。
至は、どうか咲也が千景を引き留めてくれますようにと祈りながら、眠れない夜を過ごした。

 

「は、なにこれ」
翌朝、あわせの稽古に舞台へと向かってみれば、すやすやと眠る咲也と――千景の姿。
(マジでか。この人、他人の傍で眠るなんてことしなかったのに。俺も寝顔なんて一回しか見たことない)
しかもそれは、千景の意志が働いていない状態だ。
(あ~……咲也ウラヤマ。これ写真撮っていいかな、いいよね。パシャー)
咲也がどうやって千景を引き留めたのか、あとで訊いてみようと思いつつ、貴重な二枚目の寝顔を収める。初めての寝顔より、ずっと穏やかだ。
こんなこと、咲也の他には誰にもできないだろう。これが咲也の咲也たるところだと、口許が緩んだ。
「寝起きドッキリするネ~」
「こいつらが寝てるんなら俺も寝る」
「じゃあ、俺も……おやすみ」
「おいおい! はぁ……っていうか、一人じゃ稽古できないだろ……」
シトロンが楽しそうに呟き、おやすみ三秒。朝に強くない真澄が咲也の布団に潜り込む。最終的には綴も寝転がってしまった。
至はちゃっかりと千景の左隣を陣取って、至近距離で彼の寝顔を眺める。
(良かった……こうして眠れるなら、この人そのうち春組に溺れてくれる)
こんなに騒がしいのに起きもしないなんて、相当疲れていたのだろう。体ではなく、心の方が。それは咲也が溶かすきっかけをくれて、今、こうして休めている。
至は心の底からホッとして、どうか起きませんようにと祈りながら、布団の中で隠れて千景の左手をそっと握りしめた。
(どうか、幸福でありますように)
何度か祈ったその願いを、千景の左手に初めて込めてみる。
これだけ近くで祈れば、叶うような気がした――。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました