右手に殺意を 左手に祈りを

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さすがにしんどいと、至はドサリと椅子に腰を下ろす。
寮に戻ってどれだけも休めるわけもなく、着替えて朝食をとって、今日は電車で出勤してきた。
座れないのもしんどかったが、この状態で車を運転する気力も、安全性もなかったのだ。
そういえば、朝食も無理やり詰め込んだような状況で、若干消化不良ぎみ。
時間が経つにつれて、体の痛みが増しているような気がした。腰と、肩と、足の付け根。
今日は、どんな顔をして千景に逢えばいいのかと考えると、恋をしているにも関わらず、彼に逢いたくないなんて思ってしまう。
ため息交じりにデスクに肘をつけば、袖口から手首が覗いてハッとする。慌てて手首を下ろしたのは、拘束された痕がついているからだ。
右手首はどうにか時計で隠せたが、左がどうにもならなかった。場所的に、包帯を巻くわけにもいかない。余計な誤解を生んでしまう。リストバンドなど持っていないし、そもそもスーツには合わない。
今日一日隠し通せれば土日の連休に入るし、気をつけていなければ。
パソコンの電源をつけて、必要なファイルを開くも、少しも頭に入ってこない。このファイルで何をしなければいけないのだっけと、初っぱなから躓いた。
数字が、文章が、混ざって頭の中に入り込んでくるようだった。
(思ったより……ショックだったのかな)
最近、千景の触れてくる手が優しくなっていた中での、あの行為。
優しさを、変に勘違いしたら駄目だと思っていたはずなのに、どこかで期待していたのだろうか。
心臓が痛い。こんなことになるなら、気づかなければ良かった。
(恋とか、馬鹿みたいだし……先輩の中には、俺の居場所なんかない)
至は髪をかき混ぜて、はあーと長く息を吐く。
千景の中には、大事な人がいる。〝オーガスト〟という、八月の名を持った人。口にさえさせてくれない名を持つ人だ。
その人以外は必要ないとでも言わんばかりの、千景の壁は、越えられない。触れることさえ許してくれない。
(……え、でも、待って……先輩昨夜、アイツを殺したお前が、とか言ってなかったっけ)
あまり思い起こしたくないことだが、ふとあることに思い当たる。千景が口にした、〝ディセンバー〟という音。ディセンバーとやらに似た人が、劇団の写真の中にいたのだと推察するしかなかったが、それ以前に重要なことがあった。
(殺した……? ディセンバーが、もしかして、オーガストさん、を……?)
さっと血の気が引いていく。
殺した、殺された、という単語はひどく非日常的で、実感が湧かない。ゲームの中でならまだしも、至の日常にそんな危険な言葉は飛び交わない。
(オーガストさん、亡くなってる、の、か……?)
そんな非日常の真実がどこに在るのかはさておき、ひとつ、大事なことがある。
千景が、あんなにも悲痛な声でオーガストの名を呼んでいたのは、もう逢えない相手だからではないだろうか。
(だから、あんなに……)
その仮定は、千景の昨夜の様子で確信に近づいていく。
ディセンバーに似た誰かを見て、オーガストを亡くしたことを思い出してしまったのかもしれない。
ディセンバーがオーガストを殺したというなら、憎くてたまらないだろう。
どうして生きているんだと言っていたような気がする。オーガストがいないのに、どうしてのうのうと生きているのだと。
(……先輩……大丈夫かな……それに、もしかしたら、ディセンバーって人も、元は友達だったりしたんじゃないのか? だって、八月に十二月ってのがあだ名だとしたら、仲悪い人たちに似たようなのつけないだろ)
至は、ぐ、と唇を噛んだ。ファイルを見るのは諦めて目を閉じ、千景を想う。
胸が痛い。心臓を直に握られているかのように、痛い。
これは至の推測にすぎないが、大切なオーガストが、大切にしていたかもしれないディセンバーに殺された――その絶望は、どんなものだろうか。
オーガストの存在を知ったとき、なぜ千景の傍にいてくれないのかと思ったが、そんなに単純なものではなかったようだ。
千景の孤独は、簡単には癒やせない。
会社の後輩でしかない至では、ただのセフレでしかない至では、到底無理な話だ。千景の心に入り込めないのは最初から分かっていたが、願うことさえ難しいのかもしれない。
千景が、幸福でありますように。
(祈るだけなら、簡単だよ……!)
千景の心の傷をえぐるトリガーを引いたのは、自分なのかもしれないと思うと、心臓がズキズキと痛んだ。
劇団に、ディセンバーに似た相手がいるなんて知らなかったし、オーガストがもういないのも知らなかったことだが、きっと千景を傷つけてしまったに違いない。
(顔……合わせづらいな……先輩、今日出張とかあればいいのに)
先ほどとは違う理由で、千景に逢いたくないと思ってしまう。昨夜のことをなかったことにはできないのに、記憶をごっそり抜き取ってほしいなんて祈ってしまった。
「茅ヶ崎くん、顔色悪いけど大丈夫? 体調悪そう」
隣のデスクから、同僚が声をかけてくれる。至はハッとして顔を上げ、笑顔を貼り付けた。
「あ、平気です、今日終われば休みだし」
「今日外出予定とかある? あ、ないのか、デスクワークならまだマシかもね。あんまり辛かったら課長に言って帰った方がいいよ」
「ありがとうございます」
そうは言うものの仕事はたまっていく。月曜に持ち越したくないものばかりで、至は軽く拳を握ることで、意識を仕事モードに戻すことにした。

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