右手に殺意を 左手に祈りを

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「大事なヤツだったんだ」
何度か熱を解放しあって、一息ついてから風呂に入ろうというところで、千景がぼそりと呟いた。
「え?」
「……オーガスト」
至はベッドの上で目を瞠る。
千景が隣で寝転がっているのも珍しかったが、それ以上に、口にするなと牽制したその名を、千景の口から聞けるとは思っていなかった。
「ああ、でも、恋愛感情じゃなくて……家族愛、かな。そんなこと、アイツには言えやしなかったけど」
「先輩……」
「お前には、言っておいた方が良いのかと思って。話すから、聞いて。そして――忘れてほしい」
どういう心境の変化があったのだろうか。ともかく、千景が話してくれるのならば、いくらでも聞く。千景が望むのならば、忘れる。
「……はい」
「小さい頃から一緒だったんだ。正直、考え方も違えば好きな物も違うし、面倒ごとばかり持ってくる。そんなヤツだった」
ひとつひとつの言葉を噛みしめるように、千景は呟く。至は上体を起こして肘で支えたまま、静かに聞いていた。
「でも、アイツはもういない。一度くらい、ちゃんと大事なんだって言っておけばよかった」
千景はそう言って、腕で目元を覆う。
どうして〝いない〟のかは、さすがに話せないらしい。ディセンバーとやらが関わってくることを、至は知っている。
そのことを、千景は知らないはずだ。黙って、知らないふりをする。ほんの少しでも、踏み込ませてくれだけで充分だ。
「先輩」
至は、目元を覆う千景の腕に触れ、指を絡めて持ち上げた。
「寂しい、……ですか?」
馬鹿なことを訊いたと思う。寂しくないわけはない。寂しくなくて、あんなに悲痛そうな顔で、オーガストの名を呼ぶはずがない。
だけど、千景にちゃんと言葉にしてほしかった。寂しいと。
そう思うことは少しも不思議ではなくて、とても人らしい感情なのだ。寂しくないなんて、否定はしてほしくなかった。
「ああ……そうだな、寂しいよ。いつだって傍にいたのに」
千景はほんの少し戸惑っていたが、ややあって素直に認めてくれた。
「茅ヶ崎、慰めて」
口の端を上げてそう続ける千景に、不器用な人だなと心の中で思う。まあそれは、報われない恋に落ちてしまった自分も同じかと、ゆっくり千景の唇を覆った。
慰めになるわけないと分かっているが、千景のために何かしたい。
彼が幸福であるように。せめて、ひとりきりになってしまわないように。
そう祈りを込めてキスをすれば、くるりと体の位置を変えられて、より深いキスへと変わっていく。千景の背中を抱きしめて、もう一度受け入れた。

ドライヤーで乾かした前髪を軽く手ぐしで整えて、まだベッドで眠っている至に視線をやった。
(馬鹿な男だな)
心の内を明け渡したふりをして、〝忘れてほしい〟と頼めば、至はそれを受け入れると思っていた。恐らく、読み通りになったはずだ。
(ご機嫌取りも楽じゃない。ディセンバーに繫がるラインだし、逃がすわけにもいかないんだよな)
至が、オーガストやディセンバーのことを知っている以上、あまり過度な接触はしたくないのだが、監視下には置いておきたい。
あえてオーガストの名前を出して、お前には話しておくと特別感を与える。そうして大切な相手を亡くしてしまった哀れな男を演じれば、至はそれ以上踏み込んでこないだろう。
寂しいかと訊かれた時は、思わず笑ってしまうところだった。
そんな感情は、もうどこかへ消えた。
今あるのは、憎しみだけだ。あと他にあるとすれば、至に対する哀れみ。こんな男と関わりを持ったばかりに、体をいいようにされ、復讐のための駒として利用されているのだから。
復讐を遂げた暁には、誰かいい相手でも探してやろうかなどと思って――唇を噛んだ。
誰か他の男が至に触れるのかと思うと、胸がざわつく。
体の相性がいいことは分かるし、素直に反応をしてくれるのは、たぶん可愛いと思っている。
だけど、それだけだ。
(それだけ、のはずなんだけどな……)
千景はベッドに歩み寄り、至の髪に触れる。
どうしてこんなにも、心臓が痛むのだろう。
なぜこんなにも、触れていたくなるのだろう。
(危険だ……これ以上深入りする前に、行動するか……)
目的は復讐だ。それさえ終わればあとはどうでもいい。至の前から姿を消して、人知れず生を終わらせることだって厭わない。
目的はただひとつだと、至の髪を撫でていた手を離し、ぎゅっと強く握りしめた。

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