右手に殺意を 左手に祈りを

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ぱたりとドアが閉まってから、千景は大きな鏡を背にずるずると崩れ落ちた。
いまだに、真実を受け止め切れない。稽古をしている最中も、何度台詞が止まったことか。
オーガストの死と、ディセンバーの行方不明を知らされた時、この世界に生きている意味を見いだせなくなった。
ディセンバーの遺体が見つからない以上、生きている可能性もあると組織に言われてから、一筋の光が見えたような気がする。ディセンバーが裏切ったのだと囁かれ、目の前が真っ赤に染まったような感覚を味わったことを、今でも覚えている。
信じていた分余計になのか、思っていたほど信じていなかったのか、裏切られたという言葉が、やけに根深く頭に残ってしまった。
憎しみだけが力になって、復讐だけが生きる目的に変わってしまった。
他人に囁かれた声だけを残して、ディセンバーに問う前に憎んだ。
こんな裏切りを、許してもらえるはずがない。
ディセンバーが許してくれても、オーガストが許してくれても、エイプリル自身が許せない。
(大切だなんて、口先だけった……! 本当に大事なら、あんな声はねのけて、何を犠牲にしても探し出すべきだったのに)
ディセンバーが生きている可能性もあると言われた時、確かに一筋の希望ヒカリを見いだしたのに、どうしてそのまま灯せていられなかったのか。
千景は膝を抱え、ぎゅうと拳を握る。爪で手のひらが傷つこうとも、構わなかった。
こんなものは痛みのうちに入らない。信じてもらえなかったディセンバーや、守り切れないうちに死んでいったオーガストが受けた、心の痛みに比べたら、何でもない。
「どうして……どうして俺が生きてるんだ……ッ」
オーガストが死んだのに、ディセンバーを傷つけたのに、何をのうのうと、こんなところで生きているのか。
死にたいわけではないと思う。生きてと言ったらしいオーガストを、これ以上傷つけることはできない。
だけど、生きている実感、生きていく覚悟がない。
すべてが、目の前で消えてしまったようだった。
「こんな状態で芝居なんて、できるわけがない……!」
握った拳を床にたたき付け、あふれてくる涙で、顎を、喉を濡らす。
初日の公演を終えたら、身の振り方を考えなくてはいけない。ここにはいられない、いていいわけがないのだと、濡れていく頬を拭う。
どうやって生きていこう。何を理由に、何を力に。
死にたいわけではないけれど、生きていたくもない。
涙を止めようと思う気力もなく、どれだけそこでそうしていたことだろう。
レッスン室のドアのところで、物音。組織で培った技術なのか本能なのか、こんな時でも耳は敏感に反応してしまった。
(……? なんだ?)
寮内はもうすでに静まりかえっているのに、そこに人の気配がある。
誰かトイレにでも起きてきたのだろうか。それともお人好しでお節介な総監督殿が、様子を見に来たのだろうか。
千景はひとまず濡れていた頬を拭い、眼鏡をかけ直し、ゆっくりと腰を上げた。
相手が、こちらに入ってくる様子はない。ただ数秒ドアの前にいただけのようなのだ。
廊下を歩いていく音。意識して音を立てないようにしているようだが、どうしても聞こえてしまう。ということは、密ではない。軽そうな女性のものではない。
千景は不思議に思って、そっとドアを開けて外の様子を窺ってみる。
ゴツ、とドアにぶつかるものがあった。音の正体を見下ろせば、小さなトレー。皿に盛られラップをかけられたおにぎりみっつ。
は? と声を上げそうになって、足音の方へ視線を向けたら、見覚えのある髪色。明るいハニーブラウン――茅ヶ崎至のものだった。
つまり、これは。
千景はトレーごと持ち上げて、至が去っていった方を眺める。
「馬鹿なのか、アイツは……」
声が震えた。
あの部屋で呆れたふうに呟いたときと同じくらい、胸が締めつけられる。
至が作ったのだろうおにぎりは、臣が作るものより形がいびつで、大きさもまちまちで、笑えることに、タバスコの小さな瓶が添えられていた。
「どうしろっていうんだ、おにぎりにタバスコって」
はは、と吐息のように笑いがこみ上げてきた。せっかく止まった涙もまたこみ上げてきた。
どうしようもない自責の念と、オーガストの最期を知れた安堵と、共にいられなかった寂しさが、全部混ざってあふれ出してくるようだった。
千景はドアの傍で座り込み、ラップを外しておにぎりをつまみ上げる。
どうしようか迷って、首を傾げながらタバスコをかけて食べてはみたけれど。
「辛い上にしょっぱい……まずい……」
タバスコの辛さだけならいいかもしれないが、塩むすびなのか、それとも流れた涙の味なのか。
それでも千景は、みっつのおにぎりを腹の中に収めた。

 

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