右手に殺意を 左手に祈りを

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(オーガスト……八月? 違う、人……の、名前……?)
八月を表す単語だが、至はそうじゃないと直感で悟ってしまう。恐らく、あの紙切れ――写真に写っている人間の名前なのだろうと。いや、もしかしたらペットの名前かもしれない。
どちらにしろ、千景にとってとても重要な相手なのだと分かってしまった。
ドクドクと音を立てていた心臓に、ズキズキという痛みが加わる。
(なんで……痛いんだ、今シャワーしたばっかりなのに、なんで寒いんだよ……あ、湯冷めか。そう、だよな)
至はどうにか千景から目を逸らし、息を吐くことに成功した。ようやく、体にかかっていた呪縛が解けたような気がした。
「先輩」
いつもの笑顔の仮面を被って声をかければ、千景はハッとして顔を上げ、珍しく慌てた様子で携帯端末と写真をしまい込んだ。
「おい、せめてタオルを巻いてくるとかしたらどうだ」
呆れた様子で眼鏡をかけ直しながら、至の格好を言及した。上から下まで眺めておいて何を言っているのかと、至は肩を竦めた。
「いいでしょ、どうせ脱ぐんですから」
「それはそうだけどな。お前はもう少し恥じらいってものを覚えるといい」
「今さら。先輩が、そういうのお好みならやってみせますけど? これでも劇団員なんでね」
「ああ……そうだったっけ。別に、今さら初心な反応は期待してないからいいけどね」
そうだったっけ、なんて言葉に、心臓が痛みを増した。この男は本当に茅ヶ崎至という男に興味がないのだと。
(いや、分かってるけどさぁ……セフレとはいえ、もう少しくらい、俺のこと見てくれてもいいのに……)
千景の態度は、初めての頃から少しも変わっていない。
セックスのテクニックは申し分ないし、たまには至の体力を配慮してくれることもあるけれど、優しいキスとは無縁だった。熱いキスなんてもらったこともない。情のこもったキスなんて、至は知らない。
「じゃあ、俺もシャワーしてくるから。良い子で待ってろ」
千景はネクタイを外しながら立ち上がって、至とすれ違いぽんと頭を叩いていく。触れられたそこから心臓へとビリッと電流が走ったように、ひどく痛んだ。
「ねえ先輩、俺が相手でいいんですか?」
「え?」
泣き出したいほど喉が痛い。何かが詰まっている感覚さえあるのに、余計な言葉が出てきそうで、恐ろしい。
不思議そうに振り返った千景に、無理やり口の端を上げて笑ってみせた。
「オーガスト」
それを呟いた瞬間、千景の表情が一変する。
呆れに似た穏やかさは吹き飛んで、先ほどの苦痛さの混じるものでもなく、驚愕と失望の入り交じる瞳が至を射貫いてきた。
「先輩、海外出張多いですよね。……向こうの、恋人、ですか?」
先ほど慌ててポケットにしまい込んだ端末と紙切れは、相当大切なものなのだろう。他人どころか、何にも興味がなさそうな彼が、あんな悲痛な声を上げる。その意味に気づかないほど疎くはない。
何しろ千景は、至が初めての相手というわけではなさそうだったからだ。至の方は千景が初めてだというのに、彼は最初から慣れた手つきで、体をずっと奥まで暴いてくれた。
他にも誰か、そういう相手がいるのだと思うのが、当然の流れだ。
別に構わない。自分たちは恋人同士ではないのだし、特定の相手がいようと、責める立場にはない。
分かっているのに。
「俺、日本こっちでの遊び相手ですよね。大丈夫ですか? ちゃんと代わりになってます?」
千景に、大切な人がいる――それを考えるだけで、張り裂けそうなほど胸が痛む。
どんな人なのか、相手もちゃんと千景を好いてくれているのか、どんなふうに千景を抱きしめるのか、千景はどんなふうにその人を抱きしめるのか、どんな瞳でその人を――。
そこまで思った時、千景の指先が喉元に触れた。
冷えた指先に、びくりと肩が揺れる。見たこともない鋭い瞳に、背筋が震える。
「茅ヶ崎。二度とそれを人の名として口にするな。死にたいのか」
踏み込んではいけない部分だったのだと、今さら気がつく。
いや、最初から分かっていた気がするのに、どうしても知りたかった。千景にあんな顔をさせるものの正体を。
「…………すみません、立ち入ったこと訊いて」
逃げ出したい。泣き出したい。
千景にとって、〝オーガスト〟という人は、本当に大切な相手なのだ。〝大切〟だなんて言葉では表しきれないほどに、かけがえのない存在なのだ。他人が名を口にすることも許せないほど、愛しい存在に違いない。
気がついてしまった。
「……そういう意味で言ったんじゃない。別に茅ヶ崎を代わりにしてるつもりもなかった」
「いいですよ、ただのセフレに、気なんか遣わなくても。そういう気分じゃなくなったなら、今日は帰りますし」
「いいから、いろ。ベッドで、ちゃんと待ってて」
千景の指が、喉を離れて唇を撫でてくる。そうしてバスルームへと向かっていった。
ちゃんと待っててという言葉が、本当に寂しそうで、至は頷くほかになく、少し冷えた体をブランケットに包んでベッドに横たわる。
気がついてしまった。
「…………好き、なのか……」
千景のことが、好きなのだと。
千景の心の中にいる〝オーガスト〟に、嫉妬してしまったのだと。
ただ体を繫げるだけの間柄である自分では、千景の心の中に入り込めない。好きなのだと気がついても、言葉にできない。音にならない。玉砕することが分かっていながら告げる勇気なんか、自分にはない。
(気づいた瞬間に失恋とか、どこの少女漫画だよ……まるで絶望的な想いじゃないか)
面倒だからと、触れてくれなくなるかもしれない。そう思うと、この気持ちは墓場まで持っていくしかないのだ。
胸が痛くて、くるまったブランケットをぎゅっと握りしめた。
あんなふうに、祈るように名を呼ばれる人が羨ましい。
今はどこにいるのか、どうして千景の傍にいられないのか、どうしてあんな顔をさせるのか、いつか逢えたら訊いてみたい。
そうして、お願いしてみよう。
どうか、あの人をひとりにしないでほしいと。
どうか。
「……オーガスト……」
二度と口にするなと言われた夜に、誰にも聞こえないように、ひっそりと、祈るように、もう一度だけ呟いた。

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