右手に殺意を 左手に祈りを

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「え? 公演のチケットですか?」
「うん、まだあったら一枚欲しいんだけど」
仕事が終わってから、ディナーをおごってくれるという千景と車に乗り込んですぐ、そう訊ねられた。
今チケットを販売している公演といえば、冬組の第二回公演。有栖川誉主演のものだ。
「本当なら、茅ヶ崎が準主演だっけ? その時に観てみたかったんだけど、生憎ずっと海外行ってただろ」
「ああ、そうでしたね。良かったですよ、観られなくて。なんか恥ずかしいんで」
千景の言う通り、至が準主演を務めた公演の期間は、彼はずっと海外出張だった。
当然逢えなかったが、たまに連絡は取り合っていたし、土産にと、現地限定販売のネクタイを買ってきてくれたことを思い出す。
「えぇ? 恥ずかしいってなんで。たくさんの観客の前で演じるんだろう?」
「そうですけど、知ってる人がいると思うと恥ずかしいですよ。始まればそんなこと考えてる余裕ないですけど」
「ふぅん。じゃあ次は是非春組の公演も観よう」
「ちょっとヤメテ」
千景は楽しそうにくすくすと笑う。千景が公演を観に来るほど興味があったとは思えないが、まだチケットは都合がつけられるはずだ。観客が多いに越したことはない。
「じゃあ、一枚取っておきますね」
「ああ、ありがとう」
「ところで、何でもいいんですか? ご飯」
「いいよ。茅ヶ崎が食べたいもので」
分かりました、と至は近くの店を頭の中で思い描いた。
正直言って、グルメな方ではない。外食をするならば、その分の金をゲームに課金したいと思う方なのだ。
おかげで、はやりの店や口コミで評判の店など、少しも分からない。
「イタリアンかな。何かよさげなとこ、探してもらえません?」
「了解。ピザとか好き?」
「好きです」
言ってから、ハッとして顔を背けた。きっと赤くなっているはずだが、千景には気づかれていないといい。
千景に向かって〝好きです〟と言ってしまったように感じられて、ひどく照れくさい。そんな言葉、絶対に言えやしないのに。
彼には、大切な人がいる。
至には触れさせてもらえない世界の中に、大事にしまい込まれたものがある。
どうにも複雑な事情がありそうで、訊いてはいけない気がするのだ。
(オーガストさんのことはともかく、俺がディセンバーって名前も知ってるのは、先輩覚えてないわけだし……知らないふり、していたい……)
オーガストの名を口にするなと言われたこともある。千景にとってその話題はタブーなのだ。裏切ったらしいディセンバーの名は、もっと聞きたくないだろう。
千景が傷つくからという建前で、訊くだけの勇気がない自分をけむに巻く。千景がどれだけその人を大事に思っているのか知ることで、自分が傷つきたくないだけだ。
「茅ヶ崎、次の信号右に曲がって。その近くにパーキングあるから、停めて少し歩こう」
「了解です」
千景の言っていたパーキングに車を停め、シートベルトを外しかける千景に向かって、思い切って訊ねてみた。
「先輩、今日はホテルありですか?」
「え?」
「最近、行ってないなあって思って。時間があるなら、その……」
行きたい、と小さく呟く。
ベッドの中での乱れっぷりは、もう嫌というほど知られていて、今さら純情ぶるつもりはないのだが、どうしても恥ずかしい上に、後ろめたい。
「もしかして、まだ……あのこと気にしてます?」
千景のタブーに触れた夜、手ひどく犯された。拘束されて、ろくに慣らさずに突き立てられた。だけど千景はそのことを覚えていないようで、その時ついた手首の痕をすごく気にしていたのだ。
「先輩、あの時から俺のこと抱く回数減りましたよね。気にしてるなら、それはやめてほしいです」
「茅ヶ崎……」
「大体、俺が責めてもないのに、償いみたいなことされるの嫌ですよ」
覚えていないのなら、そのままでいいと言ったはずなのに、腫れ物に触るように接されるのは気にくわない。至は俯いて唇を噛んだ。
「他に、相手ができたのなら……言ってください。いくらセフレでも、二股とか気分のいいもんじゃないですし」
「茅ヶ崎」
シートベルトを外した千景が、まだそのままだった至の方に身を寄せてくれる。
頬にそっと口づけ、驚いて振り向く暇もなく、そのまま唇にキスをされた。
「他の相手なんて、できてない」
唇のすぐ傍でそう囁き、千景は再度唇を合わせてきた。これは今日のことを期待してもいいのだろうかと、目を閉じて薄く唇を開く。
ぬらりと入り込んできた千景の舌を受け入れれば、口の中で互いの舌が絡んでいく。シートベルトに押さえられた体は、あの時の感覚と少し似ていて、だけど千景の唇はあの時とは違ってとても優しい。
上顎をなぞられ、そんなところでも感じるようになってしまった至は、ぴくりと肩を揺らす。千景の指先がネクタイのノットにかかり、緩められていく。喉元のボタンが外されて、指先が入り込んできた。
「あ、……っふ、んぅ」
ちゅ、ちゅ、と水音を立てながら合わさっていく唇と、乾いた肌を滑っていく指先。ドキンドキンと鳴る心音に気づかれたくなくて、ごまかすように千景の舌を必死に愛撫した。
「んっ、ん……ぁ」
「茅ヶ崎、お腹空いてる……?」
「え、いえ……それほど……」
「悪い、ご飯はまた今度でいいかな。抱きたくなった」
シャツ越しに、千景の手のひらが胸を撫でてくる。欲情されているのだと知って、カアッと頬が赤くなった。
自分から誘ってしまったようなもので、ひどく浅ましく感じる。
だがここで逃してしまったら、次はいつ関係を持てるのか分からない。至は了承を示すつもりで、千景の首筋に唇を寄せて軽く吸い上げた。

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