右手に殺意を 左手に祈りを

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気にしないでいいと言ったのに、千景は週明けにも気まずそうに声をかけてきた。
至はランチの誘いを素直に受けて、ひとときの逢瀬を楽しむ。事情がどうあれ、好きになってしまった相手とは少しでも一緒にいたい。
「カレーはやめてくださいね」
「もしかして、昨日も寮でカレーだったのか?」
「昨日どころか、朝もカレーだったんで……いや美味しいからいいんですけどね」
「了解」
そうして、千景のオススメらしい多国籍料理の店へ、連れていってもらう。
インド風の炊き込みご飯に目を輝かせている至の前で、千景は、白身魚のアクアパッツァにタバスコをかけて、満足そうにフォークを手に取っていた。
「先輩、辛党ですか?」
「そうだな。スパイスとかたくさん使ってある料理は好きだよ」
アクアパッツァが食われていくその口で、〝好きだよ〟なんて音が飛び出てきて、至は喉を詰まらせないようにすることで必死だった。
千景は料理のことを言っているのに、正面にいるというだけで、その言葉が自分に向けられているような錯覚に陥った。
(無理。ない。ありえん)
万が一にも、千景からそんな言葉を投げられることはないと、充分に分かっている。千景の中には大事な相手がいて、その人以外は恐らくどうでも良いのだろう。千景自身を含めて。
「茅ヶ崎、手首、大丈夫か?」
「え? あー……平気です。もう痕もないし」
不意にそう訊ねられ、至はぱちぱちと目を瞬き、視線を逸らした。両の手首についていた痕は綺麗に消えてくれている。これなら他の人たちに怪しまれることもないし、舞台にも差し障りはない。
「っていうか、こんなとこでする会話じゃないでしょ……気にしないでって言ったのに」
「いや、でも……」
「覚えてないんだったら、謝るのさえ不誠実ですよ」
あの日のことを鮮明に覚えていて、それを心から申し訳ないと思っての言葉なら、至も素直に受け入れただろう。だけど、千景は覚えていないのだ。そんな男から実のない謝罪をもらっても、何の意味もない。
「俺が茅ヶ崎にひどいことをしたのは確かだろう。何か、その……詫びとか、できないか」
「いりません。あ、でもここはオゴリですよね」
「ああ、それはもちろん」
そうは言うものの、千景は納得していないようで、じっと視線を向けてくる。何か対価を払ってすっきりしたいのだろうなと、その気持ちは理解できた。
至は千景の瞳を見つめ返し、わずかに下向く。
「じゃあ……いつかでいいんで、俺のお願い一個だけ聞いてもらえます?」
「いつか? お願いってなんだ」
「今は言う時じゃないです」
「なんだそれ、意味が分からない」
分からなくて良いんですよと、至は笑ってみせた。
千景に叶えてもらいたい願いがある。
だけどそれは、今ここで告げても叶わないものだ。笑われるのがオチで、解決にもならない。
「……なんだかよく分からないけど、茅ヶ崎がそれでいいなら」
「はい。じゃあ、この話はもうおしまいってことで。カレーじゃないお昼くらい、楽しく食べさせてくださいよ」
呆れ気味に息を吐く至に、千景がようやくふっと笑ってくれる。そういう顔を見たかったんだと、胸をなで下ろした。

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