右手に殺意を 左手に祈りを

この記事は約5分で読めます。

 

密が所属している劇団の、総監督である女を拉致し、この部屋に軟禁した。出張および彼女との婚前旅行と言ってはいるものの、劇団ではさすがに今頃騒ぎになっているだろう。何しろ千景が主演を務める公演はもうすぐで、もちろん出るつもりもない。
千景の目的は、密が大切にしている場所の破壊と、真実の懺悔を聞くことだ。
千景はソファに座り、情報がどこかに漏れていないか確認する。組織への報告はやめておいた。ディセンバーの生存が知られたら、彼の身が危うくなるからではない。組織の連中に、報復を出し抜かれたくないからだ。
裏切り者は処分した、とディセンバーの遺体とともに組織に戻れば、危うくなっていた千景の信用も回復するだろう。
だから、待っている。
ディセンバーが思い出すのを。思い出して、ここに来るのを。そして、その口から真実が語られるのを。
そのために、これまで我慢してきたのだ。
劇団の連中との、疑似家族のような生活を。
寮に寝泊まりこそしなかったものの、食事と稽古と談笑と……。オーガストや、あんなことがある前のディセンバーとしていたことと、おおよそ同じ暮らしオママゴトを、あの何も知らない連中の傍でしてきてやっていたのだ。
そこまで思って、千景は思い直す。
ひとりだけ、知っている男がいたか、と。
(わりと徹底してるな、アイツは。こんなことをすれば、さすがに連絡してくるかと思ってたけど)
その男は、茅ヶ崎至。たまに体を重ねる、職場の後輩だ。
至には、密と何らかの確執があることを知られている。復讐のためだけに入団したのだと知られている。
それなのに、知られたあとも劇団で過ごすことができたのは、彼が誰にも何も言わなかったからだ。
密を追い落とすという目的が知られていれば、即追い出されていただろう。
快楽に溺れさせて懐柔した、と言えるほどのテクニックは持ち合わせていないし、セックスしか頭になくなっているようには、とても見えない。
どうして至が、しっかりと黙っているのか――それは、密やかな脅迫をしたからだ。
至には身近に好きな相手がいるようで、おかしなことをしたら、大事な彼が無事でいると思うなと言ってやった。あの手合いは自身に危害を加えられるより、大事な相手に何かあることを嫌う。
(命拾いしたよね、万里は)
そう思って口の端を上げる。至がもっとも気を許している相手だ。
彼のことがとても大事で、自分の体を、恋心を投げ出してでも守りたいのだろうと思うと、健気さに反吐が出そうだった。
忘れたい、何も考えたくない、忘れさせて。
そう言ってすがってきた至を何度も抱いて、動けなくなるほど抱き潰してきたけれど、その口で名を呼ばれたことが一度もない。いつも、いつでも、〝先輩〟と固有でない名称を口にするだけだ。
その理由は、恐らく千景自身にある。
いつだか彼をひどく犯したことがある。密が楽しそうに笑っている写真を見たあの夜。
未だにはっきりと思い出すことはないが、監視の映像ログに残っていた千景の声。
〝俺の名を呼ぶな、お前には許可してない〟
至は訳もわからず、それを守っているに違いない。
(どうかしている……本当にどうかしている。呼んでほしいなんて……)
卯木千景という名は、本名ではない。もちろん、エイプリルというコードネームもだ。
オーガストが、日本企業への潜入に合わせてつけてくれた、それらしい名前、らしい。
日本名なんて分からないから、なんだって良かったのだが、実際潜入してみて、わりと珍しい字面なのではないかと、オーガストのセンスに呆れたこともある。
だけど、彼がつけてくれた大事な名前。大切な音。
商社に潜入して、劇団に入って、その音で呼ばれたことは何度もある。
どうでもいい人間に呼ばれたところで、別になんでもなかったのに、どうして至に対してだけ、感情がぶれるのだろう。
(怒っているだろうか……アイツ、何だかんだで劇団のこと大事みたいだし、公演だって、稽古頑張ってたし)
至からは、何の連絡も来ない。
LIMEのIDも知っているのに、着信はおろかメッセージのひとつもなかった。
見切りをつけられたのだろうかと思うのは、他の団員からは連絡がきているからだ。もちろん未読のままだし、着信に応答することはない。
(代役立てて、公演はしてくれると……、いや、何を言ってるんだ。あの劇団は、壊れてくれた方がいいのに)
密を苦しめるためなら、何を犠牲にしてもいい。そう思っている。そうでなければ、何のために今まで生きてきたのか分からない。馬鹿馬鹿しい疑似家族を演じてきたのか分からない。
〝演じてくださいよ。変に思われたくないでしょう〟
忘れると言った至が、一度だけそう忠告してきたことがある。春組のメンバーである碓氷真澄が、家の都合で黙って劇団を出ていった時だ。
みんなで迎えに行こうとざわついていた時、千景は〝入ったばかりだし〟と回避しようとしたのだ。その際、至が袖をくいと引っ張ってこっそりと囁いてきた。家族を演じろと。面倒だったが、表面上で馴染むためには仕方ないのかと、従ったのだ。
そんなことをしたのも、すべては内側から崩壊させてあの男を苦しめるためだ。
(何をしている、ディセンバー。早く思い出してここへ来い。そうしないと、お前の大好きな劇団が潰されるぞ)
主演の降板という今の状況を、代役を立てることで脱しても、総監督の不在は堪えるだろうし、次の手は当然考えてある。
ネット上の口コミというのは恐ろしい物で、それが真実かどうかは関係ないのだ。
MANKAIカンパニーの、良くない口コミをひとつでも書き込んでやれば、それは拡散していく。芋づる式に、あることないこと書き立てられて、公演もままならない状態になる。
簡単に作れる〝存続の危機〟だ。
(苦しむべきなんだ、お前は……! お前だけは、絶対に許さないぞ、ディセンバー)
千景はぐしゃりと髪をかき混ぜて、歯を食いしばる。一時でも、裏切り者を家族として扱っていたことが、腹立たしくてしょうがない。
苦しめばいいと思えば思うほど、共に過ごしてきた日々が現状にオーバーラップしてくる。
少しも変わらない男が、オーガストのいない状況で覆い被さってくるのだ。
そこにちらつく春組のメンバーや、まだ交流の浅い他の組の連中。拉致してきた総監督の、図々しくも力強い瞳。苦しそうに逸らされる、茅ヶ崎至の視線。諦めにも似た、あの時の笑い顔。
ぎゅう、と心臓が締めつけられる。
どうして、たったひとつのことしか望んでいないのに、余計な雑音しか聞こえてこないのか。余計なものしか見えてこないのか。
「……助けてくれ、オーガスト……っ」
知らず、漏れる声。
千景は歯を食いしばって、眼鏡を外して両手で目元を覆い隠した。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました