右手に殺意を 左手に祈りを

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春組の第四回公演を機に、千景がMANKAIカンパニーに入団した。しかも入寮希望だということで、至はホッとしたのだ。
これで千景がひとりきりになることはないと。
きっと、オーガストやディセンバーに敵うことはないだろうが、取り巻く他人に触れていく中で、違う種類の幸福を得られることがあるかもしれない。ただそう思っただけだった。
「千景さん、もう一度!」
「じゃあもう一度、よく見てて」
歓迎会でも、さっそく人気者。手先が器用なのは知っていたが、まさか手品まで得意だったとは、と至は隅の方で笑う。
この賑やかな劇団で、千景は心を溶かしてくれるだろうか。
「至さん、飲み過ぎじゃね?」
「そ? 別に普通だよ」
ゲーム仲間である万里が、アルコールを飲むペースが速い至を心配して、声をかけてくる。
実際、浮かれてはいた。
まさか、千景の方から入団希望があるとは思わなかったが、これで一緒にいられる時間が増えるのだと。
毎回ホテルで別れるのを、寂しく思うこともなくなるかもしれないと、恋心を多分に含めて。
「あの人、どういう感じ?」
「あの人って、先輩のこと? 見た通り、イケメンエリート。加えてチート技多数」
「ふーん……なんか、掴めなそうな感じだなって思って」
「そりゃ数日で掴めないだろ。万里だって、こんなに素直になるとか昔からじゃ考えつかないし?」
「素直って! なんすかそれ」
「言葉通り」
万里はふてくされてふいと顔を背け、オレンジジュースを追加で注ぎに行ってしまう。
彼も入団当初の態度から比べたら、ずいぶんと丸くなったと思うのだ。そんな展開は、読めていなかった。
入ったばかりの千景の動向を摑めないのも、それと同じだと言いたかったのだが、言葉の選び方がどうにも下手らしい。
(そんな簡単に掴めるような人なら、こんなに苦しくなったりしないのに)
体を重ねている自分でさえ、千景のほんの欠片しか分からないのに、たった数日のメンバーたちに理解されてしまっては、たまったもんじゃない。
(俺がいちばん近い、……と思ってたけど、違うんだろうな。俺は何もできない……せめて性欲処理くらいにはなってたらいいんだけど。ハハッ、我ながら健気じゃん)
そんなふうに思っていたら、主役の姿が見えない。千景に教えてもらった手品を、一所懸命練習している年少組の中にも、酒の飲める成人組の中にも、もくもくと料理やデザートを頰張る連中の中にもだ。
(あれ、どこ行ったんだ先輩……入団おめ~の乾杯しようと思ったのに)
乾杯など、もう何度したか分からない。新しい酒を注いで、千景のグラスと合わせる――それは傍に行くために、都合の良い言い訳だったのに、ターゲットがいないのではどうしようもない。
トイレかな、としょんぼりした至の視界に、あってほしいものがないことに気がついた。
(――え?)
密が、いない。
千景はひた隠していたし、至は忘れろと言われている――ディセンバーのことが頭をよぎった。
ディセンバーという名を知ったあの日、千景は冬組の写真を見てから様子がおかしくなった。
初めて観に来た公演も冬組だった。
もっと遡れば、そういえばマシュマロという言葉に、反応していたことも。
密には、記憶がない。この劇団に入るまでの記憶が一切合切だ。
もしかしたら、密がディセンバーなのではと、何度も思った。それ以外のメンバーは、身元も記憶もはっきりしているからだ。
ただディセンバーに似ているだけかも、と思うには、あの時の千景の声が耳に焼きついて離れない。
〝なんで笑ってるんだ……?〟
絶望と、混乱。そんな声だった。
(あれってやっぱり、密に向けられた言葉だったのか? 先輩、まさかとは思うけど)
至は嫌な予感がして、千景を探しにいこうとグラスを置き、談話室を出た。
「どういうつもりだ、ディセンバー」
(――え?)
中庭の方で、聞き覚えのある声がする。談話室から漏れてくる賑やかな声に混じってはいたが、至がこの声を間違えるはずがない。
千景が、ディセンバーという音を口にした。
至は壁の陰に隠れ、声のする方をそっと覗く。
千景の向こう側には、やはり、想像した通りの人物がいた。密だ。
「記憶喪失のフリなんて……」
「フリ……?」
千景の表情は見えないが、密は不思議そうに、不審そうに首を傾げている。
「まさか、本当なのか? お前は……オーガストとともに死んだものとずっと思っていた。一人おめおめと逃げ延びて……お前がオーガストを見殺しにしたんだろう……!」
オーガストという名前に、密の目が瞠られる。
どうやら、それに聞き覚えはあるらしい。至は彼らを覗き見るのを止め、ゆっくりと壁にもたれた。
(うそだろ……)
聞いてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴る。これは千景の不可侵領域で、聞くべきものではない。分かっているのに、神経が逆に研ぎ澄まされていく。
「お前への復讐を果たしに来た。分からないのならば、思い出せ。お前の罪を――オーガストの、最期の顔を。オーガストはどんな顔だった? どんなに無念だったか、お前には分からないだろう。悔いて、苦しんで、そして死ね、ディセンバー。俺はそのためにここにいる」
千景の、聞いたことのない低い声に、至の膝が揺れる。顎が震えカチカチと歯がぶつかり、目蓋も下ろせない。
(先、輩)
至が思っていたよりずっと、千景の悲しみは深い。憎しみも強い。
オーガストやディセンバー――密と千景が、どのようにして過ごしていたのか。
それは至には知り得ないことだが、もしかしたら、家族のように過ごしていたのかもしれない。
そのうちの一人の裏切りで、もう一人が死んだ。
そんな目に遭った千景の孤独を癒やそうと思ったのが、簡単に〝幸福になってほしい〟と願ったのが、間違いだったのかもしれない。
〝悔いて、苦しんで、そして死ね、ディセンバー。俺はそのためにここにいる〟
千景を救い上げることなど、自分には到底できないと、至は唇を噛んでその場を離れた。
(密を……ずっと探してたんだ。オーガストさんの最期に、一緒にいた人……)
一緒に死んだものと思っていたと聞こえたのは、気のせいではないはずだ。
生きていたことを、千景は喜んだだろうか。喜んだはずだ。だが、喜びの種類は分からない。お前だけでも生きていてくれて嬉しい、なのか、オーガストの敵が討てて嬉しい、なのか。先ほどの様子を見るに、恐らくは後者。
(公演を観に来たのも、俺に優しくなったのも、入団したのも……密に逢うため、か……)
至は歯を食いしばって、目元を押さえる。
いつ頃からか、千景との距離が近くなった。あの夜のことをまだ気にしているものだと思ったのに、そうではないのだろう。
ディセンバーに近づくために、油断させるために、逃さないために、きっかけと鍵を手に入れたかったに違いないのだ。
(別に、いいけどさ……利用されてたって、そんなの……)
千景のためになるなら、力になりたかった。苦しいのなら、話を聞いてそして忘れて、ただ傍にいたかった。想いが叶わなくても、他の人よりほんの少し近い距離にいられればいいと思っていた。
(でもなぁ……密を売ったみたいになってんのは、しんどいわ……)
至は、賑やかな談話室には入れずに、廊下の壁にもたれ、そのままずるずると座り込んだ。
千景に使われていたこと、知らず知らずのうちに、密を危うくさせていたこと、こんなことになってもまだ、千景への想いが消えていってくれない諦めの悪さが、至を俯かせた。
「あれ? どうしたんすか至さん。ちょっ、アンタ大丈夫?」
その時、談話室から万里が出てきて見つかってしまう。誰に見つかっても面倒だが、放っておいてくれないだろう万里だったのが、至には辛かった。
「あー、何でもない……ちょっと酔っちゃって」
「はァ? だから止めとけって言ったのに。今水持ってきてやっから……つか立てる?」
そう言って手を差し出してくる。引っ込めてもくれなくて、至は仕方なくその手を取る。
「万里はどうしたの、みんなといなくていいの?」
「あー、一成がさ、この間買ったシューズ見せてっつったから、持ってこようと思ってただけで。そんなんあとでいいだろ」
至は万里の力を借りて立ち上がる。正直、手のひらから伝わってくる温もりが胸をざわつかせて、ありがたくはなかったのだが、この状態ではそんなことも言っていられない。さっさと水でも飲んで、酔っ払いが介抱されているフリをしてしまおう。
「……アンタ、酔ってねぇだろ」
「……酔ってるよ。なんで?」
「噓つけ。足元しっかりしてんじゃねーか」
「ふらふらしてるって」
「してねーよ。なぁ、なんかあったんだろ。ゲーム? 仕事?」
こういうとき、距離が近いというのも考え物だった。
万里とはよく一緒にゲームをしているからか、他の組のメンバーの中ではいちばん仲がいい。至の素を、いちばん知っている男かもしれない。
「至さん」
もともとが聡いのだろう、至の変化には敏感に反応してきた。ぐっと肩を押さえられて、正面から覗き込まれる。
千景は絶対にしないだろう、力強い支え。
(なにも、今じゃなくても)
例えばゲームのガチャで、推しが来なかっただとか、リリースが遅れているとか、そんなことだったら、素直に愚痴をぶつけられる。
仕事で少しミスをしたと言っても、きっと万里は話を聞いてくれる。それは、日常会話の中でやり過ごせるレベルだからだ。
だけど、千景の真実に気づいてしまった今、その強さをぶつけてこないでほしいと、唇を噛む。
甘えてしまう。崩れてしまう。
「なあ、至さん、アンタ今……泣きそうな顔してんぜ」
「……してないだろ」
「これ見ない方がいいヤツな」
言って、万里は片腕を首に回し引き寄せてくれる。泣き出しそうな目元は、ちょうどいい位置に肩があるせいで、誘惑に負けて押しつけてしまった。
「万里、めちゃくちゃ男前じゃん?」
「はァ? 仲間が困ってんだったら当然だろ。無理には聞かねーけど」
「うん、ありがと」
はあ、と呆れたようなため息が聞こえる。心の底から心配していることを、そんなため息でごまかす万里は、やっぱり年相応だなと笑ってしまった。
「悪い、ほんと。ちょっと、ショックなことがあってさ。ごめん……」
「いーから。ったく……ちょっとは千景さんにも頼ったらどーすか? 春組の中じゃ年長者だからって、咲也たちには、こういうとこ見せらんねーって思ってたんだろ」
「……っ、や、アイツらにもかなり甘えてるよ俺」
万里の口から、千景の名を出されて体が強張る。
確かに千景が入団してくるまで、春組の中で最年長であり、ある程度の責任が発生するのは理解していた。今は年上である千景がいるのだから、少しは頼れと万里は言っているのだろうが、原因である千景に頼ることなど、甘えることなど、できやしない。
(無茶言うなよ万里)
至は万里の肩に額を預け、ゆっくりと息を吐き出す。今の状況を把握して消化するには、どれだけの時間と覚悟と諦めが必要だろうか。
「……サンキュ、万里。もう平気。みんなんとこ戻るわ」
「ん? あー。本当に平気っすか? ……ならいいけど」
「ん、平気平気。今のちょっとキュンときたわー。俺が女だったら惚れるね」
「軽口叩けんなら平気そうだな。愚痴くらいならいつでも聞いてやっから」
万里はそう言って、何も訊かずに体を離してくれる。好きになった相手が彼だったら、どれだけ楽だっただろう。
そう思って体を翻したとき、外から戻ってきた千景の姿を視界に捉えてしまった。
「あれ、千景さん。何やってんすか主役が」
万里もそれに気がついて声をかける。万里はどうか分からないが、千景の眉間に刻まれたしわに、至は気づいてしまった。
それはほんの一瞬で平らになって、気のせいだったと済ませてしまえる瞬間だけ。
(ヤバ、い)
ぞわりと、鳥肌が立った。
密とのやりとりを聞いてしまったことを、千景が知っているとしたら、それはとても危険なことではないのか。睨まれたのは、気のせいではない気がするのに。ディセンバーの正体を知ってしまった至を、千景は放っておくか。
「ちょっと、熱気に当てられちゃってね。万里はどうしたの? 茅ヶ崎も」
「あー、えっと」
「さっきガチャやったらドブだったんで、ヘコんでる俺を慰めてくれただけですよ」
言葉を濁す万里を遮って、至は状況を作り上げる。廃人ゲーマーである至をして、無理のないもの、というか、わりとよく見られる日常茶飯事だ。
「ああ……なるほど、ゲーム仲間なんだって? 仲いいんだな」
千景はそう言って笑うものの、瞳が少しも笑っていないような気がする。それは以前からだったが、さらに噓くさく見えるようになったのは、気持ちの問題だろうか。
(気づいてなかった? それとも……他のヤツがいるから泳がせてるだけ?)
千景が何を考えているか、さっぱり分からない。密に接触できたから、その他のことはもう、どうでもいいのだろうか。
(あり得る……。俺なんか、眼中にない、ってね……)
「万里、もう平気だから。ありがとな」
それ以上千景を見ていたくなくて、至は早々に談話室へと戻る。賑やかなパーティーに紛れていれば、千景を疑う自分を覆い隠してしまえると。
夜遅くまで繰り広げられた歓迎会で、至が千景の傍に行くことはなかった。

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