右手に殺意を 左手に祈りを

この記事は約6分で読めます。

千景は、談話室のソファで手品の練習をする劇団員たちに囲まれながらも、意識をひとりの男に集中させた。
(茅ヶ崎は……もしかして)
窓際で、携帯端末を片手に他の団員たちとにこやかに話す、千ヶ崎至へと。
先ほどディセンバー――御影密と接触した。
記憶喪失などという責任逃れを平気で行う男に。
どれほどあの場で絞め殺してやろうかと思ったことか。
だけど、それではあの日の真実が知れないし、オーガストがどんな最期を迎えたのか、確認することもできない。ディセンバーには、あの日のことを事細かに説明してもらった上で、悔やんで、苦しんでほしいのだ。
ディセンバーが苦しむ姿を近くで見たいがために、ここに潜入したのだ。復讐だけが今生きる目的である。
それは自分でよく分かっているのに。
分かっているのに、先ほどの光景が頭から離れていってくれない。
万里に抱き寄せられて、至が安堵したように身を預けているところが。
ゲーム仲間だと聞いているし、劇団で共に芝居に励む意味でも仲間なのだし、距離が近くなるのも理解はできる。
今も、楽しそうに話しているメンバーの中に、万里がいた。
彼に向ける顔は、本当にどの時とも違う。会社にいる時とも、稽古をしている時とも、ゲームをしている時とも、ましてや千景だけが知っているであろう、ベッドの中での顔とも、全然違う。
心を許している相手なのだと分かる。
指先が冷えていくようだった。ざわりと肌があわ立つようだった。
(俺には見せないな、あんなところ。まぁ……いいけど、そろそろ潮時だろうし)
至とは恋人同士ではない。他の誰かと仲良くしていたって、責める立場にはないわけだが、胸のざわめきが収まらない。
千景は目を細めて、今一度、自分の望みが何なのかを心の中で確認した。

歓迎会がひとまずの終わりを告げても、成人組は何だかんだ理由をつけて酒を飲む。
紬や丞の演劇論にも熱が入っているようで、ほんの少しこの一〇三号室にまで漏れ聞こえてくる。至はゲームをやりたいからと、そこを抜けてきた。
会社の飲み会よりは随分と気楽だが、至がゲームの時間を何よりも欲していることを知っている団員たちは、それでも不思議に思うこともなく解放してくれる。
居心地のいい場所だ。
最初はこんなに長く居座るつもりもなかったのになと、以前脱退しかけたことを思い出す。
こんなに熱くなれるとは思っていなかった。芝居に。……恋に。
ここにいる仲間たちが大事なのは本当だ。
距離感をわきまえている連中ばかりなのが幸いで、踏み込まれ過ぎず、また踏み込み過ぎず。
ただ誰かに何か問題が起きれば、全員が全力で解決方法を探す。そんな場所。
(密が本当のことを思い出したら、どうなるのかな……)
ゲームをやると理由をつけて抜けてきたが、実際ゲームをやる気分ではない。そんな気力は残っていなかった。
さっき知ってしまった事実を、どう受け止めたらいいのか。
密に近づくための駒にすぎなかったのだろうという、真実に近い仮定を、どうやって受け止めたらいいのか。
至はソファの背に頭を乗せて、天井を見上げた。
あの二人……いや、三人のことに、踏み込むべきではない。
彼らのことを何も知らないままで踏み込むのは、あまりにも無責任だ。かといって、真実を知る勇気も、探る権利もない。
小さな頃から一緒だった、大切な人オーガスト。千景の口から直接聞けたのは、それだけだ。
(セフレどころか、ただの駒に、先輩があれ以上のことを話すわけないし。……忘れなきゃ……)
ただのセフレとただの駒、どちらがよりマシかななどと思って苦笑していると、ドアがノックされた。至は背もたれから頭を上げ、応答してみる。
「あのっ、オレです」
聞き覚えのある声だ。至はソファから腰を上げ、ドアへと向かった。一瞬千景かとも思ったが、これは。
「咲也? どしたの」
「あっ、あの、ごめんなさい、ゲームの邪魔しちゃいました?」
春組リーダーである、佐久間咲也だ。チェリー色の明るい髪は、それでも目に優しい。きっと咲也のものだからだろう。
「ううん、平気だけど……何かあった?」
「あ、いえ、その……さっき至さんの元気がなかったなって思って、オレちょっと心配で」
申し訳なさそうに呟く咲也に、至は目を瞠る。
咲也にまで気づかれてしまうほど、落ち込み様は重症だったのだろうか。間近で見られた万里はともかく、談話室に戻ったあとは普通にしていたつもりだったのに。
「……それで、心配してきてくれたんだ?」
「せっかくの料理も、あんまり食べてないみたいだったので……あっ、臣さんの料理ほとんどなくなっちゃってたので、これ作ってきたんですけど」
咲也の手の中に、皿に盛られたおにぎりふたつ。
ぱちぱちと目を瞬く。
確かに料理にもあまり手をつけられなかったが、そんなところまで見られていたなんて。
「あっ、あの……本当はもうひとつあったんですけど、さんかくなので三角さんが持ってっちゃって。すみません至さん。良かったら食べてください、明日の朝まで保ちませんよ」
太鼓型かまんまるにすれば良かったかな、なんて首を傾げる咲也に、作ってくれていた時の光景が目に浮かぶようで、至はふっと噴き出した。
「ありがと、咲也。大丈夫、元気出たよ」
「ホントですか、良かった」
咲也の顔がパアッと明るくなる。この年齢でここまで素直に感情表現できるのは、いっそ貴重な能力だろうなと感じた。歳を取るにつれて、そういうものを表に出しづらくなっていく人も多いというのに。
(いや、出しづらいっていうか、隠すのが上手くなる感じかな)
かくいう至も、会社ではかなり猫を被っている。咲也の素直なところは、このまま在り続けてほしいと、おにぎりの皿を受け取った。
「あれ、千景さんはいないんですか?」
「え?」
「談話室、いなかったので」
「あ、……ああ、さっき出かけてったよ、コンビニかどっかかな。そのうち帰ってくるんじゃない? 先輩に用事だった?」
「あ、いえ。今日の歓迎会、楽しんでもらえてたらいいなって思って。これから一緒にたくさんの舞台踏めたらいいですね!」
咲也の笑顔につられて、至も笑う。
本当は千景がどこに行ったのかなど知らない。寮内にいないことも今知ったのだ。
(またか、あの人……)
恐らく、また今日も入寮前の部屋で過ごすに違いない。
入寮して数日、千景がこの部屋で過ごしたことなどない事実を、咲也たちには知らせない方がいい。
少しも彼らに心を許していないなどことを言えば、咲也たちは悲しむだろう。綴の脚本にも影響が出てくるかもしれない。
さらに、千景のことを無理にこちらへ引き込もうとすれば、いつ誰が真実に気づくか分からないのだ。危険に巻き込むわけにはいかない。
「じゃあ、おやすみなさい至さん」
「うん、おやすみ咲也。おにぎりありがと」
咲也は満足そうに帰っていく。リーダーとはいえ、年下に気を遣わせてしまったなと、手に残るおにぎりの皿を見下ろした。
(咲也なら、もしかしたら……)
あの際限ないひたむきさと、それゆえの強さを持ってすれば、千景の心も溶かせるかもしれない。
そうは思うが、咲也を巻き込むことなどできやしないと唇を引き結ぶ。
(先輩には、復讐なんか忘れて幸せになってほしい……けど、オーガストさんや、……密が、あの人にとってどれだけ大事な存在だったか分からないのに、無責任なこと言えないし)
至はソファに戻って、かけられたラップをゆっくりと外す。ほんの少しいびつな形が、逆に胸をじんわりと温めてくれた。
(かといってあの人のやりたいことを肯定すれば、それは密の身を危険にさらすってことで。……そんなこと、していいわけないのに)
千景の望む復讐が、具体的にどんなものか分からない。しかし密が苦しむことは明白で、とてもはいそうですかと許容できるものではないはずだ。
だけど、でも、やっぱり、いやいや、……と、至は心が少しも決められない。
復讐なんて止めさせた方がいいに決まっているのに、そうしたら、千景の抱えてきた孤独と闇は、誰がどう静めてくれるのか。
「ハハッ、この期に及んで、俺ってヤツは……本当にどうしようもないな」
揺れ動く迷いの中で、温かなおにぎりと、泣き出したくて痛む喉だけが、そこに在る真実だった。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました