右手に殺意を 左手に祈りを

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右手に吐息を 左手にキスを

 

夢かと思った。
(マジでか……)
千景の寝顔が、すぐ傍にある。ぱち、ぱちぱちと何度瞬いても、消えていかない。本物なのだと、そこで初めて実感した。
先日舞台の上で見た彼の寝顔より、穏やかなように見える。ドキンドキンと胸が鳴って、吐息が震える。吐息で起こしてしまわないように、右手をそっと口許に当てた。
濃密な時間だった。体のあちこちがまだ鈍く痛む。それでもこんなに幸福な痛みはない。恋人として繫がった、はじめての夜。
「千景さん……」
思わず、吐息のように名を呼ぶ。
「ん……? おはよう、茅ヶ崎……」
「あ、戻った」
聞こえてしまったのか、千景が目を覚ます。もう少し見ていたかったという気持ちもあったが、ひとりで起きているのも寂しくて、まあちょうどいいかななんて考えた。
「なに?」
「名前。昨夜っていうかついさっき? まで、至って呼んでたのに」
「え? ああ……」
千景さんと呼んでもいいかと訊ねた至に、呼んでと返してくれて、さらに至と呼んでくれた。
千景の声で呼ばれるその音はくすぐったくて、心臓が落ち着かなかった。と思う。思うというのは、そんなこと気にする余裕がなかったせいだ。
「どっちがいい?」
「どっちでも。俺を呼んでるのには変わりないでしょ」
「なるほど分かる」
「分かるんですか」
茅ヶ崎と呼ばれるのも、至と呼ばれるのも、千景の声でなら、どちらでも構わない。そうする時、千景の意識の中に自分が存在しているのなら、いっそ〝お前〟だって構わない。
「名を呼ぶ時に、俺の存在が茅ヶ崎の中を占めていられるなら、なんだっていい」
あ、と至は息を吐く。二人でおんなじことを考えていたのかと。猫かぶりといい恋の仕方といい、彼とはわりと似たところがあるらしい。
「……千景さん」
「うん」
「先輩?」
「うん。あと、もうひとつ」
「え?」
「……エイプリル」
エイプリルという、四月を表す言葉に、至は瞬時に悟った。
オーガスト、ディセンバー、エイプリル。月の名を持つひとたちの、大事な秘密。
「……それ、俺が知ってちゃ駄目な名前でしょ」
「そうだな」
悪びれもせず、千景は吐息と一緒に呟く。
「知ってて。でも、忘れてほしい」
「先輩、ほんとずるい。そうやって俺のこと巻き込んで、離れられなくするんですよね」
「だってお前は巻き込まれてくれるだろ?」
千景の左手がそっと頬に伸びてくる。触れるか触れないかのその手は、わずかに震えているようだった。無理やり巻き込んでおきながら、受け入れてもらえるかどうか不安なのだろう。
至はむくれたフリをして、千景の手を取り口づけた。
「仕方ないから、巻き込まれてあげますよ」
千景が何を隠していて、何を抱えているのかは分からない。それでも、せっかく手に入れた恋を手放す選択肢はどこにもなかった。
取った手の指が、互いの意志で絡められていく。視線はすでに磁石のように離れてくれなくて、吐息さえ奪える距離。
先に目を閉じたのは千景の方で、触れ合わせたのは至が先で、どちらが先にキスを深くしたのか分からない。
朝日に溶けて触れ合う最中さなか、二人の手と手はずうっと触れていた――。

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