「なあ、紬さん」
万里は携帯端末の画面をテーブルに伏せて置き、恋人の名を呼んだ。その声を受けて、紬が振り返ってくれた。
「どうしたの、万里くん」
「キスしてもいっすか」
立てた膝に腕を置き、折り曲げて襟足をかき混ぜる。
恋人とは言うが、ほんの少し自信がない。何しろ恋人らしいことを何もしていないのだ。
好きだと告白してからしたことといえば、どこが好きか、どれだけ好きか、これからどうしようか、今時中学生でももう少し進んでいそうなのに、そんなことしか話し合っていない。
カフェに行って話し込むのは、恋を告げる前からしていたことだし、いまいち新鮮みに欠ける。
男同士じゃ堂々と手も繋げないし、ちょっと距離の近い友人同士を演じてみたり、時には兄弟を演じてみたり、それはそれで楽しいのだけれど、物足りないと思ってしまうのはこっちだけだろうか、と万里は指に自分の髪を絡ませる。
叶うと思っていなかった恋だから、大事にしたい。壊れないように、そっとゆっくり進んでいきたい。そう思っているのは本当だけれど、紬にもっと近づきたいと思っているのも本当だ。
――――こんなこと言ったら、怒られっかな……。
もっと近くに行きたい。口唇に触れたい。もっと言えば、抱いてもみたい。
紬はどこまで許容してくれるだろう? こうして部屋の中で過ごす二人の時間を、もっと増やしたいと言ったら、叶うのだろうか。
「あ、うん、いいよ。しようか」
拒絶されると身構えていた分、紬の何でもないような明るい声に、反応の仕方を忘れた。
「えっ、……いーのかよ」
まるでカフェのはしごでもしようかというほどの軽い調子には、万里の方が驚いてしまう。性的なことにあけすけなタイプにも見えないが、それはもしや万里の勝手な思い込みだったのだろうか。
いくら恋人同士とはいえ、男相手に簡単に「キスしようか」なんて返せてしまうほど。
「え、するんじゃないの? 違った?」
「いや違わねーけど……」
なんだか思っていたシチュエーションと違う、と万里は困ったように片方の眉を上げる。
もちろん「しようか」という合意は嫌だ、駄目だ、というわけではない。
想像の中の紬は、キスしてもいいかなんて言ったら、びっくりして大きな目を瞬いて、恥ずかしそうに、目一杯ためらって、「うん」と頷くような――そんな夢を見ていたわけでもない。
ファーストキスもまだしたことのない小学生じゃあるまいし、と思ってはいるが、あまりにもイメージと違う。
男相手だということに、嫌悪も緊張もないののだろうか。
「うん、じゃあ、はい」
紬は読んでいたシナリオをパタンと閉じて横に置き、腰を上げて万里の正面に座り直してくれる。万里は、さらに驚いた。
正座。
紬は万里の前で、ちょこんと正座をしたのだ。綺麗にそろえた膝の上に握った拳をそっと置いて、さあ来いとでも言うようにまっすぐに見つめてくる。
しかしよくよく見てみれば、膝に置かれた拳はだんだんと力が入ってきているようで、紬の緊張を伝えてきた。
ふはっ。
万里は思わず笑い声で空気を揺らす。
おかしさと一緒にどうしようもない愛しさがこみ上げてきて、紬への想いがまた一回り大きくなった。
「……なに、万里くん」
「わ、悪い……俺、キスする時に正座する人って初めてだわ、っくく……」
「正座するのなんて、俺だって初めてだよ……」
「なんだよ、しよっかなんて軽いこと言ってたから、俺とのキスなんてそんな重要な事じゃねーのかと思ったら、……ドキドキしてくれたんだ?」
そうだ、思っていたのと違ったというのは、そこだ。
こちらはしぬほど緊張しているのに、年上の余裕とでも言いたげな紬の態度が、腑に落ちなかったのだ。
だけどそうではなかったのだと知って、ホッとする。
「万里くん、笑った罰」
「えっ」
紬が珍しく軽く睨みつけてくる。万里はしまったと思った。せっかくのチャンスが、これでふいになってしまうのかと。いや、そんなことより、きっと精一杯勇気を出した紬を傷つけてしまったのだろう。
「紬さん、ごめ――」
だけど弁解しようと伸ばした手を、紬が絡め取ってくる。万里は目を瞠った。
紬の左手と、万里の右手が、絡んでいく。指を交わらせてくる紬に驚いて、視線をそちらへ向けてみれば。
「あとの隙間は、万里くんが埋めてね」
照れくさそうに目を細め、はにかんで口にする紬の「キスをしよう」おさそい。
ドキドキしてくれたんだ? と訊ねた万里の方こそが、返り討ちに遭ってドキドキのオンパレードだ。
だけど、万里がしかけて紬が深くしてくれた絶好の機会を逃してなるものかと、空いた左手を上げる。隙間を埋めてねと言った紬の願いを聞き届けて、首の後ろに運んでゆっくりと引き寄せた。
口唇が触れる、二センチ手前。ぴたりと止まって万里は笑った。
「ファーストキスだな」
「えぇ? うそつき」
「うそじゃねーって。俺と紬さんの、な」
「こういう時にも使うの……?」
「使うの」
しらねーけど、とは口にしないで、二センチ分、首を伸ばして隙間を埋めた。
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