カクテルキッス2ー愛のひとつも囁けないー

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駄目だ、と至は文書の保存だけして息を吐いた。
集中力が切れている。そう自覚し始めたのは、三十分ほど前。入力ミスが多くなって、打っては消し、打っては消しを繰り返していたが、まあ結果どれほども進んでいないのが現状だ。
(プレゼンも面倒だけど、報告書も面倒くさい。早く帰ってゲームしたい)
廃人レベルのゲーマーは、こんなときでもゲームを中心に考える。
少し前まではそうだった。しかし今の至にとって、〝ゲームがしたいと思いたい〟という言い訳用の道具になりかけていた。
はあーと大きくため息をつく。
(駄目だ、頭から離れねーわ。休憩してこよ)
至はデスクを離れ、リフレッシュスペースの自販機へと向かう。ふらつく足下は、寝不足なのだと解釈した。
(ああ、クソッ)
歯を食いしばって、眉にしわを寄せ、ふるふると首を振る。
そうしても、先ほど見かけた男の横顔が、頭から離れていってくれない。
なんのことはない。彼は別のチームで展開している企画を、部長の下へ中途報告にきただけだった。ハイブランドのスリーピースを着こなすイケメンエリートは、社内でも人気がある。傍にいた事務員の女の子が、きゃあと色めき立ったのも気づいていた。
(なんで俺まで!)
エリート然とした立ち振る舞いに、胸が鳴ってしまったことを、誰にも知られたくない。いっそ自分の記憶からも消し去りたい。女の子たちにつられてしまっただけだと、言い訳をしたい。
言い訳をしなければいけない相手だ。
その男――卯木千景は、恋をしていい相手ではない。
会社の先輩であり劇団の仲間であり、家族である。
そもそも彼は男性で、同性を好きになる指向がない至にとっては、まるっきり対象外だった。
それなのに、どうしたことか先週彼と寝てしまった。分かりやすく言えば、セックスをしてしまった。
それだけならまだ、酒の勢いだとか好奇心だとかで済ませられる。先輩後輩で、家族でルームメイトである以上、気まずさは残るだろうが、〝事故〟で終わらせることもできたはずだ。
何をどう間違って、自覚してしまったのか。
千景に恋をしているなんて。
勘違いだと思いたい。
まだあれから一週間しか経っていないし、思っていたより気持ちがよかったから、まだ体ごと心が勘違いをしているのだ。そう思いたかった。
千景も、寮ではいつも通りに接してくるし、夢だったのではないかと思うほど、日常的である。
だけど至の体には、あのあとしばらく余韻が残っていたし、それこそ何度も抱かれたあの日のことが、夢だったとは思えない。
夢だったとは思えないからこそ、気が重い。
〝惚れるなよ〟
そう牽制されていることまで、思い出してしまう。
千景は至と違って、男性をそういう対象にする指向があるようで、これまでも一夜限りの関係を築いてきたらしい。そんな中で、相手に惚れられては面倒くさいのだろうというのは、よく分かる。
性別は違っても、気のない相手に好意を持たれることの面倒さは、至だって分かっている。一回寝たくらいで、恋人面するなよということなのだろう。
(あんなことしなきゃよかった)
自販機の前にたどり着いても、重い気分は浮上してこない。早いところ気分を切り替えて、さっさと仕事を終わらせたいのに、ため息しか出てこない。
それでもどうにか財布から小銭を取り出して、投入口に突っ込んだ。
「えーっと……」
入れたはいいものの、何を飲むか決めていなかったことに、そうしてから気づく。
ミネラルウォーターでは味けないし、大好きなコーラという気分でもない。水分補給というよりは、少し喉を潤したいだけだし、と悩む至の背後から、すっと指先が伸びてきた。
ピッ、と機械的な音がして、声を上げる暇もなくガコンと商品が落ちてくる。
「……はァッ!?」
人の金で何をしてくれやがる、と振り向いた至の視界いっぱいに、見慣れた色の髪が踊った。
「ハハッ、完璧なエリートさんが崩れてるぞ、茅ヶ崎」
商品のボタンを勝手に押した卑怯な指先が、トン、と至の眉間をつついてくる。至は目を見開いた。
「先、輩」
千景の、面白そうに笑う顔が視界に入る。
途端に顔の熱が上がった気がして、ふいとそっぽを向いた。
気づかれてしまってはいけないと、職場用の顔を作り直した。
「何してんですか先輩、俺の金で」
「悪い悪い、買うもの悩んでたみたいだから、ついからかいたくなってね」
「そういうのは、綴とかにやってくださいよ」
千景は、取り出し口に落ちてきたショート缶を取り出して、至に手渡してくれる。それは、至の髪の色に似たカフェオレだった。
「ああ、綴は反応が面白いかもね。太一とか。やったら怖いのは、幸と左京さんあたりかな」
「……つか今カフェオレって気分じゃない」
「じゃあそれ俺がもらおうか。何が飲みたい?」
千景はそう言って、チャリンとカフェオレ分の小銭を、手に乗せてきた。本当に揶揄するだけのつもりだったらしく、後輩にたかろうということではないようだ。
千景はもう一本分、小銭を投入して、至を振り向いてくる。深く考えずに、目の前のボタンを押してやった。
「……カフェオレじゃないか」
「嫌がらせです。先輩、甘いの苦手でしょ」
デロデロに甘いというわけでもないが、無糖や微糖に比べたら甘い。すっと細められた目がおかしくて、至は腰をかがめてカフェオレを取り出した。これでお互いカフェオレだ。
「はい先輩」
「どうも。……茅ヶ崎もなかなかいい性格してるよな」
「褒めても何も出ませんよ」
「それは残念。コーラでも押すのかと思ってたけど」
寮でゲームをしているときは、大抵コーラがお供だ。
案外よく見ているのだなと思って、じんわりと胸が温かくなるのを自覚して、頭を抱えた。見てもらっている――そんな些細なことに浮かれてしまったなんて、どうにも情けない。
「あれは寮だけですよ。それに、ちょっと疲れてるみたいなんで、糖分取っておかないと」
「ああ……昨日また夜更かししてたみたいだな。寝たの三時だったか。少しは控えたらいいのに」
「余計な世話、……ってあれ、先輩起きてたんですか?」
デスクで飲もうと思っていたカフェオレの蓋をカシュリと開ける。千景も付き合ってくれるだろうか、という打算があったのは自覚していた。
「仕事柄、物音には敏感でね」
缶に口をつければ、千景も同じように蓋を開けて付き合ってくれる。至は目を眇めて呆れ返った。
(その設定まだ生きてんのか)
「エージェントは大変ですね、ハハハ」
千景はことあるごとに、こうして作り上げた〝設定〟を表に出してくる。
どうも、彼は危ない組織のエージェントで、裏の仕事をしているから営業成績がいいのだとかどうとか。至がそういう設定に食いつくことを知っていてやるのだから、タチが悪い。
「茅ヶ崎、ところで今夜空いてるか?」
「は?」
「今夜」
一瞬何を言われたのか分からず、そっぽを向いていた顔を思わず振り向かせてしまう。
缶コーヒーが当たる千景の唇に目が行ってしまって、後ずさりたい気分だ。さらに「今夜」と繰り返されて、ドクンと胸が高鳴った。
「気が乗らなければ、構わないけど」
千景は静かにそう続け、カフェオレを飲む。動く喉仏にさえ色気を感じてしまって、至は体を硬直させた。
(――え、待って待って、何それ、マジで?)
あの夜、というか朝、〝お互いの気が向けば〟というようなことを言っていた気がする。
いや、気のせいではない。そのあと散々に啼かされたのだから、冗談でなかったのは理解できる。
それでも、こんなに早く次のお誘いがくるとは思っていなかった。
ドキンドキンと胸が鳴る。
惚れた相手からベッドへのお誘いなんてされたら、浮かれてしまうのは仕方がない。仕方がないが、これは気づかれたらいけないものだ。
至は震えそうな声をどうにか抑え、ゆっくりと口の端を上げた。
「いいですよ、付き合ってあげても」
本意ではなさそうに、視線を流す。その視線はあからさまな色を放って千景を誘った。
「そういう顔は、後でしてくれ」
千景の方もそれを受けて口角を上げ、笑みを押さえるように、缶を持った人差し指の背に口づける。そのまま至の頬を撫で、間接的にキスを降らせてきた。
「これ、あげるよ。やっぱり甘いのは苦手だな」
そう言って、半分ほども残っているカフェオレを、至に差し出してくる。思わず受け取ってしまったのは、指を通してのキスに気を取られたせいだろう。
「じゃあ茅ヶ崎、後で」
千景はそれだけ言い、仮面をかぶって、リフレッシュスペースを出ていってしまった。至は蓋の開いたカフェオレ二つを手に、しゃがみ込む。
「…………っあぁ〰〰マジか〰〰」
心の準備ができていない。
夜のこともそうだが、あんなキスをしていくなんてずるいと、至は心の中で悪態をついた。

 

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