カクテルキッス2ー愛のひとつも囁けないー

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春組グループLIMEに、千景から連絡が入ったのは、翌朝のことだった。
朝起きたときに、千景のベッドに何の変化もなかったことを不思議に思って、連絡しようとした矢先のこと。
『出張入っちゃってて、二~三日留守にする。もしかしたら、日曜くらいまでかかるかもしれない。稽古に出られなくてごめん』
アプリの画面を確認して、至はくしゃくしゃと髪をかき混ぜた。昨日終電逃したのかなと思うと、恨めしい気持ちにさえなった。千景の出張が終わるまで、逢えないということだ。
『千景さんお疲れ様です、お仕事頑張ってくださいね!』
『お土産期待してるヨ~』
『社会人は大変っすよねえ。お疲れ様です』
『至を見てるとそうは思えないけど』
(オイコラ真澄)
次々と画面に流れ込んでくる、春組メンバーのメッセージ。真澄には一言もの申したいが、寮の自分しか知らないのだから、そう言われるのも無理はないかと、ぐっとこらえた。
至はどう返信しようかと考えて、結局『ラジャ』としか返せなかった。
まだ、千景への想いを覆い隠すには修行が足りない。何を返信しても、端々にあふれてしまいそうで仕方がないのだ。素っ気ないと後で怒られても、そうするしかできなかった。
「しっかし、ほんと出張多いよなあ先輩……おつ」
こんなことなら、昨日無理にでも逢瀬をもっておくべきだった。取引先との会合が終わってからでも、朝までの時間はあったはずだ。
(先週の金曜は稽古入ってて駄目だったし、だから昨日……逢いたかったのに)
もう何日、触れ合っていないのだろう。恋人同士でもないのに、いや、だからこそなのか、至の体は貪欲に千景を求めてしまう。そうさせたのは千景だ。
キスもしてない、とベッドの上で唇をなで、朝っぱらから甘ったれた気分に浸りそうになり、至はふるふると首を振った。
「俺も社会人だからね、仕事仕事~」
本当ならゲームだけしていたいとは思うものの、大事な課金資材を稼いでこねばと、ベッドを降りた。
身支度を調えリビングへ向かうと、食欲をそそる匂いが出迎えてくれる。
「おはようございます、至さん」
「おはよ、臣。いい匂い」
「卵、スクランブルエッグで大丈夫ですか?」
「うん、おk。いつもありがと」
これが至の何でもない日常だ。いつも通りに起きて会社に行って、社畜おつと思いながら仕事を片付け、帰ればそれなりに熱くなれる稽古が待っている。
「うわ~マジかよあれ」
「あそこ結構大きなとこじゃないの。こわ
聞き慣れた、万里や幸の声にふっと顔を上げると、朝のニュースで火災が報じられていた。
誰もが一度は聞いたことがあるであろう、製薬会社の研究施設が、火事になったらしい。現在消防署や警察署が原因を調べているようだが、かなり大きな規模の火災にもかかわらず、研究員たちは全員避難できていたらしい。人的被害がなかったのは、せめてもの救いだろう。
朝っぱらから嫌なニュースだなと、至はトーストされたパンをかじった。
(あれ、そういやあの製薬会社って、どっかの部署で取り引きなかったっけ……気のせい?)
被害に遭った会社は確かによく聞く名だ。それを会社で聞いたのか、日常生活の中で聞いたのか、判然としない。もし二次的、三次的にでも取り引きのあるところなら、仕事に影響してくるだろうかと考える。んー、としばし考え込み、ないなと小さく首を振った。影響があるとしても、至が所属している課ではない。該当の部署があればご愁傷様と、コーヒーを流し込む。
今日の出勤は車ですけど、と千景に声をかけようとして、はたと息を飲む。そういえばいないのだったと。
(マジか)
正直、こんなにも日常に影響してくるなんて。自分の仕事には関係ないどこかの会社の悲報より、千景の存在の方が、至には大問題だった。
(……めんどくさい)
何しろ、いても困るし、いなくても困る。
出張から帰ってきたら、八つ当たりでもしてやろうかと思うくらいだ。至は小さく息を吐き、千景の毒を無理やり散らした。
ふと、じっとニュースの映像を眺めている男がいるのに気がつく。
(……密……?)
この時間帯に、密がここにいることがもう珍しい。普段なら、社会人の自分たちや学生組が、寮を出てから起き出してくるようなのにだ。おかげで朝はあまり逢ったことがない。早朝のバイトでも入っているのだろうか。
(それにしても、いつの間に。密って本当に気配がないよな。ネコみたいだ)
足音がしない。どこでもすぐに寝る。気まぐれ。わがまま。ネコそのもののようだ。
(ハハッ、あれもスカウトされた組織とやらの訓練のたまものかね)
いつだか千景が話していたことを思い出す。お得意の小さな噓だ。
千景と密が仲が良いらしいのは事実だが、本当に犯罪研究会なんてもので出逢ったのかどうか。九割が噓に違いない。
千景の言うことを頭から信じていたら、本当に身が持たないのだ。
咲也あたりはよく騙されているようだが、あれは本当に純粋培養すぎる。千景がからかいたくなるのも分かる気がした。
(からかって遊ぶには、俺は役者不足ですよね~)
遊ばれたいわけではないし、別の意味では遊ばれているようなものだが、千景はいったい、茅ヶ崎至という男を何だと思っているのだろう。一度真面目に聞いてみたい。そんなふうに思いながら、朝食を済ませた。
ふと視線を感じて、顔を上げる。テレビから興味を外したらしい、密のものだった。
「密? どうかした?」
「……ううん、別に。至、仕事いつも通り?」
「そだねー。あ、バイトなら乗っけてこうか?」
訊ねてみたが、密はふるふると首を横に振った。マシュマロの補充に来ただけなのだと。ああなるほどと納得してしまうあたりが、密だった。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
眠そうな声にふっと笑みが漏れてしまう。きっと数秒後には、ソファで眠ってしまうのだろう。いや、ソファならまだましな方だ。床でだって密は平気で寝てしまう。
至は変わらない日常を実感しながら、MANKAI寮を出た。
今日と明日を乗り切れば、土日、嬉しい連休が待っている。千景がいないのは寂しいが、それはどうしようもないと車へと乗り込んでいく。
先週は千景を横に乗せて出勤したなあと、シートベルトを締めるときでさえ思い出してしまう、馬鹿げた恋心に、何度目かの苦笑を浮かべた。

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