カクテルキッス2ー愛のひとつも囁けないー

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すう、すう、と規則正しい寝息が聞こえる。
千景はベッドの縁に腰をかけ、額に張り付いた至の髪をそっと払いのけた。
ひどく疲れた表情をした至を見下ろし、眉間にしわを寄せてぐっと唇を噛んだ。
そうして自身に痛みを与えても、心臓の痛みはすべてを上回る。
「茅ヶ崎……どうして」
どうしてこんなところまで来たのかと、彼を責めたい。
なぜこの場所を教えてしまったのかと、密を責めたい。
なんでこらえきれずに抱いたのかと、自分を責めたい。
至はもう、気づいているに違いない。自分が、どんな世界に身を置いているのか。元々至に対しては、他の人間より話してしまっていたが、ジョークで留めておいてくれたはずだ。
だけどもう、ごまかしは利かない。いわく彼の妄想は、あらかた当たっている。
〝あの夜組織の命令で動いて〟〝あの製薬会社調べるために〟〝治るまで戻るつもりはなかった〟……すべてが事実だ。
知られてしまったと焦る思いより、心臓をかきむしりたいほど、幸福に感じることがあった。
至は、あの事件に千景が関わっていると分かっていながらも、火事を起こしたのは千景ではないと、断定しているような節が見られる。ただのひと欠片も、疑っていなかった。
それだけで、体が歓喜に震えたなんて、至は絶対に知らないだろう。
本来なら、組織のことを知られた時点で抹殺対象だ。以前であれば、目撃者も邪魔者も、すべて消してきた。以前のままの自分なら、至の喉に手をかけるくらいはしていたかもしれない。
それなのに、この手は至を抱くためにしか動いてくれなかった。
はあーとゆっくり息を吐く。
口許を手で覆えば、震えているようにさえ感じられた。
知ってしまった恋情は、どこまで育つのだろう。この感情で身を滅ぼすかもしれない。
いや、自分だけならまだいい。恋に溺れるあまりどこかでミスをして、劇団さえ危うい立場にしてしまったら――そう考えると、恐ろしくてたまらない。
抑えなければいけないのに、知られてはいけないのに、茅ヶ崎至という男は、簡単に決壊させてしまう。
「お前が怖いよ、茅ヶ崎……」
そっと髪を撫で、千景はベッドから腰を上げた。
至はきっと、気づいた千景の真実を、見て見ぬふりをするのだろう。千景が望むようにだ。
千景はキッチンへと向かい、ミネラルウォーターで喉を潤す。
「……ふ、っは……」
ごくりと水を飲み干して、ぐいと口許を拭う。
命をかけて守るものが、もうひとつ増えた。
千景はその対象を指折り数え、苦笑する。
「……重いな」
組織に彼らの存在を知られてはいけない。
彼に、これ以上踏み込ませてはいけない。
彼に……この想いを悟らせてはいけない。
潮時だと思いながらも、茅ヶ崎至へと向かっていく想いを実感するたびに、足下からざわざわとせり上がってくる幸福さに、愚かしいと拳を握った。
(駄目なんだよ、茅ヶ崎……)
これ以上は、本当に危険だ。
「何飲んでるんですか」
そう思って短く吐いた息は、背後からかけられた声に驚いて、ひゅっとまた口の中へ戻ってきた。
「……起きたのか」
「体が思うように動きませんけどね……」
振り向いた先に、シャツを羽織っただけの至の姿。さすがに下着は着けていたが、シャツの隙間から見えるキスマークが、情事の名残を匂わせていた。
千景は、眼鏡のブリッジを押し上げるふりをして、視線を背け、冷蔵庫を開ける。
「何か食べるか? お前、昼も食ってないんだろう」
「ああ、そうですね……シャワー、借りても?」
怠そうな声と仕種で、至はきょろりと室内を見回す。千景は顎をしゃくってバスルームを指し、至を誘導した。どうも、と小さく呟いて、至はそちらへ向かっていく。
千景はこっそり横目でそれを見送って、食材と酒類を台の上に並べていった。

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