カクテルキッス2ー愛のひとつも囁けないー

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「なに、先輩。もしかして密にバレちゃったんですか」
困惑ぎみに、諦めぎみに、至は肩を竦めて、千景越しに密を見やる。
ただれた関係を持ったことは確実にバレていて、否定のしようがない。至は沈黙をそのまま答えとしたようで、項垂れて額を押さえた。
「あー……、すみません先輩。そりゃ修羅場にもなりますよねー。密と仲良いんでしょ、密が怒るの無理もないですよ」
「どういう誤解だ」
「ああ、そうじゃなくて。俺だって万里が誰かとおかしな関係になってたら、張り倒すってことですよ。マジな恋愛ならまだしも」
至の口から出てくる、万里の名にさえ嫉妬する。恋を絡めているのはこちらの方だけだ。
確かに大事な友人が、褒められた関係でないものに足を突っ込んでいれば、怒りもする。至はそう解釈してくれたようだ。
「……至、体、平気……?」
密がゆっくりと歩み寄ってきて、至を覗き込む。相変わらず足音がしないのは、心臓に悪かった。
「そう聞かれるとなんかちょっと生々しいな……罪悪感」
無茶なことされたんでしょと、言外に含む密の口調。反論できないのが歯がゆくて、千景は眼鏡を押し上げて視線を背けた。
「平気だよ、密。もともと、仕掛けてきたのは先輩だけど、誘ったのは俺の方だし。煽った自覚はしてる」
「……至が、傷ついてないなら、いい。けど、エイ、……千景と一緒にいるつもりなら、覚悟、いるかも」
「は?」
「密」
覚悟? と至は首を傾げる。千景は牽制して、密を呼んだ。もう終わることに、覚悟も何も必要ないだろうと。
「部屋へ戻れ。廊下で寝こけても、俺はもう運ばないぞ」
「……うん。おやすみ、千景、至」
言いたいことの半分も言い合えていないと、その音の中に隠した二人。すれ違う寸前、密の手首を至が取った。
「密、あのさ」
「……至、大丈夫。誰にも言わない」
「そう……頼むわ」
至の声音に、安堵が混じる。そこを気遣ってやれなかったことに、舌打ちしたい気分だった。
部屋へ戻っていく密の背中を二人で見送って、同時にため息。
「バレたのが密で良かったですね、先輩」
「……謝らないぞ。お前が悪い」
「別に、終わったこと謝られてもムカつくだけなんで」
煽られて、我慢しきれなかった責任は千景にあるが、そもそも、寮内であんな無自覚の挑発をしてきたのは至だ。乱暴だったことは謝るべきかと思い直すが、〝終わったこと〟という言葉に、一瞬体を硬直させた。
「どいてください、先輩。腹減って仕方ない……」
何かあるかな、とキッチンの方へ向かっていく至と肩が触れ合って、千景は我に返る。
「……臣が、消化のいいもの作ってくれてる。朝になったら礼言っておけよ」
「マジか、さすがおかん」
上機嫌でキッチンへ向かっていく至の背中を、複雑な気分で眺めた。あんなことは何でもないらしいのが、気にくわない。
(信じられない男だな。自分をひどく犯した男と密着しても、震えのひとつもないなんて)
至は、どういうつもりでいるのだろう。謝罪も受け付ける様子のないあの男は、腹の中で怒りを煮えたぎらせているのだろうか。
いや、今の様子ではそんなこともないのだろう。
本当に、終わったことだと認識しているだけなのか。
(……最後になるなら、もっと堪能しておけばよかったかな)
この気持ちは告げられない。また隠し事が増えた。
千景はふっと短く息を吐いて、一〇三号室へと足を向けた。
テーブルの上で愛機を広げ、状況を確認する。
組織がこの劇団を認識している様子はない。隠れ蓑にしてるだけだと面倒そうに説明したが、どこまで真実と受け取っているか。潜入時の演技力を鍛えるためにもね、と付け加えたのはよかったかもしれないが、いつディセンバーの生存を知られるか、分かったものではない。
オーガストは守れなかった。ディセンバーも傷つけた。
もう誰ひとりとして、犠牲にはさせない。
この毒に、触れさせてはいけないのだ。
ぎゅ、と拳を握る。触れた三度の過ちを、いつまでも引きずっているわけにはいかない。
千景はすうーと息を吸い込んで、ふうーと吐き出した。
「まだ、起きてたんですか。先輩」
夜食を終えたのか、至が部屋に戻ってくる。普段と変わりない彼の態度に安堵した。
「ああ。少し調べ物があって」
「そうですか。あ、そういえば、エイプリルって、先輩のあだ名?」
目を瞠った。舌先が凍り付いて、一瞬何を言われたのか把握できない。
「な、……にを」
「密がそう呼んでたでしょ」
ぐるり。胃が回る。
危険だと感じた。至がその名を知るということは、秘密の漏洩に繫がる。至がその名に興味を持って調べようとすれば、エイプリルと、ディセンバーの真実にたどり着いてしまう。
「ちが、さき」
知られたくない。この手が血で汚れていることなど。その手で至に触れたことなど。
いや、百歩譲って自分のことは諦めるにしても、密のことまで気づかせるわけにはいかない。
危険だ、と頭の中で警鐘が鳴る。至自身の危険にも繫がるだろう。
どうごまかそうか――いろいろな考えが頭の中を巡る中、
「先輩たちって、なんかあれでしょ、ネットのコミュとかで知り合った感じ? ハンドルネーム?」
至はソファに腰をかけ、まるでなんでもないように続けた。
「……コミュ?」
「それとも大学のサークルかな」
ああ、と心の中で安堵した。そうだ、普段平和に暮らしている人間は、別の名イコール危険な組織とは結びつけない。特にネット社会の今、偽名を使ってコミュニケーションを取る者は多いのだ。
「まあ、そんなもんかな」
千景はためらいのない動作でキーを叩き、作業に戻る。
「映研とか? 絶対インドア系でしょ。あ、お酒繫がりとか。密はザルですもんね」
「犯罪研究会」
ふ、と笑ってみせた。もっともらしい噓は時として真実に成り代わり、真の事実は覆い隠される。
「うわーありそー。ガチのやつキタコレ」
「世界各国で起こった事件を調べてたな。殺人・宗教・テロ、エトセトラ。ああ、そういえば詐欺事件を追っていたときは、すごく楽しかった」
「それが今に活かされてるわけですね」
「そうなるな。危ない組織にスカウトされて、法に触れるようなこともして、いろんな人を手にかけた」
織り交ぜられる、真実。非日常を匂わせた方が、作り話らしくなる。至には度々話して遊んでいたし、おかしなことはないはずだ。
「――って言ったら、驚く?」
「今さら驚きませんよ。そういう中二設定、むしろアガるんで」
「だろうな」
千景はふふっと笑う。茅ヶ崎至という男相手にだからこそ、話を作ってみせたのだ。そうでなくては困る。
「じゃあ、銃とかナイフとか、クラックにも詳しい感じですか」
「昔の知識しかないよ。銃は合法下で撃ったことがあるけどね」
「マジか。さすが海外慣れしてるわ」
「日本は、民間人の拳銃所持が禁止されていていいね」
ゲームセンターに置いてあるものは、本当にゲーム画面用だし、シューティングバーやサバイバルゲームのも、言い方は悪いがおもちゃである。
本物を撃つときの、衝撃と胸くその悪さに比べたら、子供だまし以外の何物でもない。
「茅ヶ崎、エイプリルという名は、外では絶対に呼ぶなよ。ディセンバーもだ。アイツは途中で組織を抜けたから、追われる理由がある」
「なーる、そういう設定ね。おkおk」
「そういうわけだから、俺に近づくと危ないっての、分かるよな?」
多数の意味を含めて、静かに口にする。茅ヶ崎至という男は、つくづく変わった男だと思った。自分が犯された場所で、自分を犯した男の傍で平然と座っているのだから。
「……肝に銘じますよ」
視線がこちらを向かない。ソファの上で、軽く拳が握られる。どこまで本気で取っているか分からないが、少なくとも性的な方面での身の危険は、理解しているはずだ。
「んじゃ俺、寝るんで。先輩は、まだ?」
「……ああ、もう少しね」
そーですか、と至はソファから腰を上げる。
「あ、そうだ先輩」
ベッドに上がった至が、ひょいと身を乗り出して見下ろしてくる。見下ろされるのは好きではないが、この状況なら仕方がない。千景は至を見上げた。
「次は、ちゃんとホテルでしましょうね」
「……――は?」
「ははっ、レア顔げとー。おやすみなさい、先輩」
カシャ、と携帯端末のシャッター音が耳に届く。我に返る隙も与えず、至はベッドに寝転んでいた。
千景は上げかけた腰をとすんと落として、眼鏡のブリッジを押さえる。
(次? 次ってなんだ……次があるのか?)
次はホテルで――それはつまり、終わらないということだ。もう触れることは叶わないと思っていた。合意も得ずに無理に繫がった事実は消えないのに、なぜ次をほのめかすのだろう。しかも、近づき過ぎたら危険だぞと忠告したあとで。
「馬……鹿な、ヤツ……」
思わず口を突いて出たのは、稽古で、公演で、何度も音にしてきた台詞。〝エイプリル〟でなく〝卯木千景〟としての日常だ。
千景はパソコンを閉じて、頭を抱える。
続けるべきではないと分かっているのに、歓喜する気持ちを隠しきれない。至がベッドに上がってくれていて良かったと、口許を押さえた。

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