カクテルキッス2ー愛のひとつも囁けないー

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そうして該当の住所に来てみれば、一見普通のマンションに見える。デザイナーズタイプなのか、しゃれた雰囲気を醸し出していた。打ちっぱなしのコンクリートの壁。以前は時折見られた、千景の冷たい瞳を思い出させる。
「ここ……?」
傍の電柱で番地が間違っていないことを確認し、近くのパーキングに車を駐車した。
胸が、ドクドクと高鳴ってしまう。
本当にあそこに千景がいるのか。いたとして、顔を見せてくれるのか。怪我をしているのなら、起き上がれないかもしれない。
管理人が常駐しているマンションなら、頼んで鍵を開けてもらうことも可能だが、千景に限って、そんな場所を隠れ家として選びはしないだろう。
密に教えてもらったノックの仕方で、どうにかドアが開くことを祈るしかない。
部屋番号を確認し、ドアの前で深呼吸をした。握りしめる手にじんわりと汗がにじんできて、気持ちが悪い。
(先輩)
どうか開けてくれますようにと祈りを込めて、密と同じタイミングでドアをノックする。
応答はない。もう一度。
まだ反応がない。もう一度。
(先輩、お願い……)
いないのか、起き上がることもできないのか、再度ドアをノックしようとしたそこで、乱暴にロックが外れる音がした。
「うるさいな! なんだひそ……、か、……ッ」
外開きのドアにぶつからないように、反射的に避けた至の視界に、千景が飛び込んできた。彼は至の姿を認め、目を瞠って息を飲んだように見える。
「茅ヶ崎……」
小さく漏れる千景の声は茫然としていて、至はその隙にドアをぐっと握った。閉じてしまわれないように、左足を挟み込んで。
「あ……の馬鹿ッ……!」
千景は苦痛に顔を歪め、腹の底から声を絞り出したようだった。
至が知っているはずのないこの場所を、密が教えてしまったことは誰に聞かずとも明白で、責めたい気持ちでいっぱいだったのだろう。
「……怪我、してるんですね、やっぱり」
千景が着ているシャツの隙間から、胸に巻かれた包帯が見える。至は俯いていた顔を上げ、じっと千景の瞳を見つめた。
「入れてください、先輩」
千景の目が、珍しく泳ぐ。知られたくなかったのは分かるが、この期に及んで諦めが悪い。
少しの沈黙のあと、千景はドアから身を乗り出して、辺りを警戒するように視線を走らせ、ぐっと乱暴に至の腕を引いた。
千景の状況を確認したい一心で、ここまで来てしまったけれど、そういえば警戒など一切しなかったと、至はそこで気がついた。監視でもついていたら、自分の存在を知らしめることにもなる。しまったと思っても、後の祭りだ。
千景のその警戒が、敵に対するものなのか、組織に対するものなのかは分からない。だがここに来たことが、千景にとって不都合だっただろうことは理解できる。
しかしともかく入れてはくれるようで、至は唇を噛みながらも安堵した。
千景のあとについて廊下を通り過ぎれば、リビング。生活感のない部屋に置かれた、ソファとテーブル。
愛機が無防備に開きっぱなしで置かれ、こんなときでも情報収集なのかと、呆れ気味に眺めた。同時に、密だと思ったのだろうなと考えると、胸が苦しい。彼だと思ったから、そんなにも無防備なのかと。
「何しに来たんだ、茅ヶ崎」
千景の低い声が、至を呼ぶ。至の視線の先には、血のついた包帯やガーゼが捨てられたダストボックス。平気そうな顔をしているが、相当ひどい怪我だったのではないだろうか。
「……手当ては」
「……済んでる」
「ご飯、ちゃんと食べられてます? ていうか、ここ調理器具……一応あるんですね」
きょろりと部屋の中を見渡す。ここが、千景の城なのかと思うと、寂しくなった。個人間契約を結んでいたあの頃も、千景はずっとここで独りで過ごしていたのか。
「茅ヶ崎。何をしに来たのかって訊いてるんだ」
苛立たしげな千景の声が耳に届く。あまり聞いたことがないなと思うと、新鮮に思えて気分が良かった。至はくるりと体の向きを変え、千景を正面に見据えた。
「何って。――あの夜先輩は、組織からの命令で動いてたんだろうなあとか、そりゃ俺との約束なんか守れないよなあとか、もしかしてあの製薬会社調べるために、ウチに入社したのかなあとか」
「茅ヶ崎」
そう並べ立てると、遮るように千景が名を呼んでくる。だけど至は、言葉を切ることもせずに続けた。
「あの火災は先輩じゃないなとか、治るまで戻ってくる気なかったんだなとか、もしかして敵対組織とやりあうことあるのかなとか、そういう」
「もういい茅ヶ崎! それ以上しゃべ……」
「そういう――俺の妄想を話しに来たとでも?」
それ以上何も言うなと、牽制した千景の目が、見開かれる。実際、至はそういう話をしに来たわけではない。納得のいく説明が欲しいわけでもない。千景には、それが分からないのだろうか。
「だったら……いったい何なんだ。こんなところまで、わざわざ抱かれに来たのか?」
目を細めて探るように見つめてくる千景に、今度は至が目を見開く番だった。
「あー……ハハッ」
至は自嘲ぎみに乾いた笑いを漏らし、コクリと唾を飲んだ。
(駄目だこの人。〝心配してた〟ってだけの発想はないのか、フツーに)
千景の真実を暴くためでも、嗤うためでも、ましてや抱かれに来たわけでもないのに。
(怪我してるかもって思ったら、心配するだろ、馬鹿)
そんな〝普通〟は、千景にはなかったのかもしれない。今までどんなふうに生きてきたのか分からないが、あまりにも切ない。
(そんなごまかし方しか知らないのか)
至は唇を引き結び、ゆっくりと千景に歩み寄った。
「怪我、平気なんですか」
分かってもらえない悔しさと、千景が普通を知らない寂しさが、至に彼を睨ませる。あからさまに挑発して、至はジャケットを脱ぎ捨てた。
ごまかされて、飲み込んで、受け止める。たぶんそれくらいしか、今の千景にしてやれない。
それを盾にして千景を求める自分を、今なら覆い隠すことができる。
「……お前を抱くくらいなら、何でもない」
「食いちぎられても知りませんよ」
自身のずるさを相手になすりつけることさえ、自分たちには正義だった。
至は千景のシャツを引き、千景は至の腕を引く。胸がぶつかって、視線を交わす前に唇を重ねた。
「あ……」
口内で絡む舌は、押し込まれたのか、引き込んだのか。舌の裏を舐められ、仕返しにと至は千景の上顎をなぞる。舌の付け根をつつかれてびくりと跳ねた肩を、なだめるような千景の腕が通り過ぎる。
ちゅ、と吸い上げて、至は千景の背中に腕を回した。
何日ぶりだろう、こうして彼に触れるのは。一週間、十日、もっとあっただろうか。
足りない、と唇を押しつけて、舌を捕まえて、肩に指先を食い込ませる。
(……千景さん)
なぜ、抑えていられるのか分からない。
触れてしまえば、こんなにも貪欲に彼を求めるのに、どうして、この気持ちを抑えていられると思ったのか。
何度も嗅いだはずの千景のにおいに、慣れない消毒液と血のにおいが混じる。
それが怖くて、悔しくて、寂しくて、かき消すように自分を押しつけて、自分のにおいが移れば良いと唇をむさぼった。
「ん、んっ……ぅ」
「は……っ」
千景の指先が髪を梳いてくる。深いキスのせいでか、千景の眼鏡のフレームが至の頬に当たった。気にならないわけではなかったが、外してもらう時間より、もっと強く抱いてキスをする時間が欲しい。
「う、……ん」
「……ふ、っんぅ」
唇を離しても、吐息を奪って重なっていく。千景が奪えば次は至が奪う番。
角度を変えて、強さを変えて、触れていなかった時間が埋まるまで、これまででいちばん深くて長いキスを交わした。

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