カクテルキッス2ー愛のひとつも囁けないー

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予想外にというか、予想通りにというか、プライドの高い男だなと思った。
上向く視界で揺れる髪は、汗での重みも感じさせず好き勝手に跳ね遊ぶ。揺する体と同じ軌道をたどって。
「あ、あぅ、あ……ん」
「……っ」
とても、いわく〝初心者〟だとは思えない色香に誘われて、千景の息も上がってくる。至の腰を摑む手に、ぐっと力がこもった。
「あ、先輩っ……だめ、動かさないって……言っ……」
「じれったい」
「うそ、待って、待っていやだ、いやっ、あ」
「いやだって声じゃないな……っ」
至の制止を聞かずに、体の位置を変えて抱き込む。好きに動いていいよとは言ったものの、視界の暴力にこれ以上耐えていられなかったのだ。
(こんなところ見せつけられて、動くなってね、無理があると思わないか、茅ヶ崎)
胸の下に抱き込んだ至の肌に、浮かび上がる汗。ぴんと立った乳首はいやらしく熟れた色をして、ところどころにつけたキスマークが、生々しく情欲を煽った。
「ああっ、あ……ん、くぅっ」
「茅ヶ崎、すごく気持ちよさそうだな」
「……せ、先輩、は、よく、ないん、ですかっ」
はあ、と大きく息を吐いて、至が不満そうに、不安そうに口にする。千景は目を瞬いて、髪をかき分けた彼の額に口づけた。
「いいよ。こんなにいやらしい音立てて俺を引き留めるから、我を忘れそうになるね」
「んあっ……」
腰を引けば、中の肉がついてくる。押し戻せば、絡みついて誘い込んでくれる。
慣れた体でないのは本当だ。至の体が、あの日初めて男を受け入れたことに間違いはない。
仕掛けたのは千景の方で、誘ってきたのは至の方。
ノンケに手を出すなんて、自分のポリシーに反するのだけれどと思いつつも、大事な家族に恥をかかせるのも忍びない、とホテルに連れ込んだのは、今から思えば言い訳にすぎなかったのだろう。
茅ヶ崎至という人間に、ある種の興味を抱いていた。
裏表のある人間は好きだ。自身が裏と表を使い分ける人種だからかもしれない。親近感とでもいうのか、対抗心でもあるのか、興味という意味では、至に対するものがいちばん大きかった気がする。
「じゃあいっそ……我を忘れるくらい、夢中になってみます?」
頬を上気させて、濡れた瞳で、荒い息をまといつつ、至はそんなふうに煽ってきた。千景の背筋を、歓喜に似た快感が走り抜けていく。
同性に組み敷かれながらも、投げやりになるでもなく、快楽に負けて媚びるだけでもなく、挑発さえしてくる気の強さ。
「いいのかな? そんなことを言って。俺が本気で抱いたら、ちょっとすごいよ」
つ……と脇腹を撫でる。あえかな声を漏らしながら、至は両腕を肩に回してきた。
「噓つき。誰も本気で抱いたことなんかないくせに」
目を瞠った。ドクンと心臓が大きな音を立てる。
確かに、我を忘れるくらいに誰かに夢中になったことなんてない。だから、すごいよというのは、あくまで想像だった。この腹の中に飼う闇色の獣を解放するなんて、恐ろしくてとてもじゃないができやしない。意図的にそういう感情はセーブしてきたのだ。
「いつか、先輩が本気で抱ける相手が見つかるといいですね」
ぎゅう、と胸が締めつけられる。
至に言われたくはない。
唯一本気になれそうな男に、こんな状況で言われたくなかった。
「……そうだね。祈っておいて、茅ヶ崎」
喉に石が詰まったかのように痛い。背けられる視線が悔しくて、顎を摑んで振り向かせ、有無を言わさず唇を塞いだ。
これは、紛れもない、八つ当たりだ。
茅ヶ崎至という男が手に入るはずはない。手に入れていいはずがない。
彼は職場の大事な後輩で、劇団の先輩で、かけがえのない家族だ。
その彼をこんなふうに組み敷いておいて、大切だとは、〝家族〟が聞いて呆れる。
足を開かせ、胸の下で何度も喘がせ、わざと啼かせて、気を失う寸前まで突き貫く非道な自分が、ひどく矮小なものに思えた。
「茅ヶ崎、少し眠るといい」
「そ……ですね……つかれた……」
千景の隣で、至はなんの警戒心もなく目を閉じる。ぎゅ、と胸が締めつけられるようだった。
同じ春組に所属する咲也や綴たちと違って、「大人のずるさ」を知っている茅ヶ崎至なら、千景の「噓」など、疑い方さえ知っているのだろうに、それでもこうして無防備に眠ってみせる男が、憎らしい。
憎らしくて、愛しい。
千景は浅い眠りに落ちた至の隣で、項垂れて髪をかき混ぜた。
正直、二度目があるとは思っていなかったのだ。初めて抱いたあの夜さえ、気まぐれと酒の上の事故だと思っていたのに。
だいたい、あの夜茅ヶ崎至に落ちてしまったと思ったことも、気のせいだと考えていた。
同性を性対象にする指向は自覚していたし、何度か一夜限りの相手とベッドを共にしてきた。
あの日も、そうだと思ったのだ。
明けた土曜の朝に再び体を重ねたのも、ほんの気まぐれ――そう思いたかった。
だけど職場でも寮でも、気がつけば至の姿を探してしまうことに気がついたのは、月半ばの水曜日。木曜日には否定することを諦め始め、そうして今日、調子悪そうにしながらデスクを離れていく至を、つい追いかけた。
どうにもちょっかいをかけたくなる。
そんな後ろ姿をしている方が悪いのだと、至の咎ではなさそうな言い訳を心の中で唱えて、自販機のボタンを押した。
缶の蓋を開ける指先に目が行って、缶につけられる唇に目が行って、少し伏し目がちに俯く彼を見ていたら、かき抱きたい衝動がせり上がってくるのに気がついて、もう、どうしようが、どうにもしようがないのだと諦めた。
〝今夜空いてるか?〟
乗ってくれるかどうかは賭けだったが、至は生意気な口調で承諾してくれた。
その後の仕事をどうにか理性で片付けて、定時で席を立てば、少し戸惑うような至の視線とぶつかった。
期待と不安に揺れるようなその瞳を見た瞬間、本当に戻れないと自覚してしまった。
「まったく、参るね……」
見慣れない天井を見上げ、息を吐く。こんなふうになってしまうなんて。
千景はベッドを降り、全裸のままバスルームへと向かっていく。
シャワーで汗を流しても、頭を冷やしても、情事の余韻は消えてくれない。こうしている間にも降り積もっていく恋心もだ。
どうしたらいいのだろうかと、千景は何度目かのため息をつく。
自分がただの商社マンで、普通に演劇に興味を持ち、そこで茅ヶ崎至という男に恋をしただけであれば、実らせるかどうかはさておき、楽しむことができただろう。
声をかけて、すぐにベッドへ向かう一夜の遊びでなく、想いを告げて育んで触れ合うなどという、初々しい恋もできたかもしれない。
だけど自分は、自分の手は、罪の色にまみれている。
生きるために、何でもやってきた。
いや、何かしないと、生かされなかったのだ。
法に触れることをたくさん、たくさん、たくさん、たくさんしてきた。
だけど何より罪深いのは、大事な家族を信頼しきれなかったこと。
離れた場所にいた千景は、オーガストの死と、ディセンバーの裏切りだけを知らされた。
真実を追究する前に絶望し、憎み、大事な家族に殺意さえ抱き、巻き込まなくてもいい人たちを巻き込んだ。
許されるとは思っていない。そんなに簡単に受け入れないでほしい。
この汚れきった手に、なぜそんなに安易に身を任せられるのか、どうしても分からない。
「茅ヶ崎……」
シャワーヘッドからざあっと落ちてくる水の下で、千景はぎゅっと拳を握った。
この手を開いていられない。
あの鋭い男は、ペテン師の手だと、死神の手だと知っていてさえ、手を重ねてきそうなのだ。
堕ちると分かって、惚れた相手を引きずり込めない。
自分がこんなに殊勝なことを考える人間だったなんて、初めて知った。
(ああ、そういえば……恋も初めてなのかな)
今まで生きてきた中で、性欲をかき立てられる相手くらいはいたが、一度夜を共にしたらそこで冷めた。アレは恋ではない。
だけど至に対しては、触れたいと思いつつ臆病になる自分がいる。
巻き込みたくない――いっそ堕としてやりたい。
守りたい――この毒で冒し尽くしてやりたい。
触れたい――触れていいはずがない。
そんな相反した思いが、いくつもいくつも胸の中で交錯している。
これきりにしよう。そう思う傍から、また痴態を思い起こして欲情する始末だ。
こんなことを考えながら抱いているなんて知られたら、羞恥と不甲斐なさで死んでしまえるだろう。
(知られたらいけない。それでなくても、茅ヶ崎はノンケなんだから、恋してるなんて知ったら絶対に引くだろう)
同じ性指向の男なら簡単かといえば、そういうものでもないが、ともかく、自分が恋なんてものを体験するとは思っていなかったのだ。正直まだ混乱していて、思考がクリアになってくれない。
このまま至を放置して帰ったら、彼はどんな顔をするだろう。
やることだけやって帰るのは千景の常だし、相手にそうされたこともあるが、この場合どうしたらいいのか。
劇団や職場のことを考えると、誰にも言わないでおいた方が都合がいい。劇団の、優しい連中にバレるのも避けたい。
となると、一緒に朝帰りするわけにもいかない。仕事の都合だなんて言い訳をしても、ごまかせるのは最初のうちだけだろう。
千景は珍しく悩みに悩んで、身支度を調えて一人でその部屋を出た。
このただれた夜を知られるわけにはいかないと、もっともらしい建前を並べてみたが、真実は千景の胸の底。
ただ単に、どういう顔をして朝を迎えればいいのか、分からないだけだった。
ふうーと息を吐いて眼鏡のブリッジを押し上げ、一度だけドアを振り向く。
演じきらなければいけない。この想いは胸の奥底に秘めて、ただ欲を処理するために、気まぐれに関係を持つだけだと言い聞かせたい。
「……おやすみ、茅ヶ崎」
小さくぼそりと呟いて、薄暗い廊下を歩いた。

至が目を覚ましたときには、千景は姿を消していた。
「マジか」
先週の情事で朝までいてくれたのは、最初のサービスなのかなと、理由を探したがる自分にうんざりした。
千景のやることに、いちいち理由を探していたらこちらの身が持たない。
「同じヤツと二度目はないって、そりゃ朝になったらいないんだから、また逢いたくても無理ゲー」
同じ職場で、同じ劇団で、同じ屋根の下、もっと言えば同じ部屋にいる相手で良かったと思う。
体だけ重ねて、挨拶もなく朝には消えている男なんて、恋をするだけ無駄だ。最中に甘い言葉を吐くでもなく、何かプレゼントを用意しているわけでもない、薄情な男だ。
「攻略マニュアルも作れないし」
はあ、とため息をついて、至はベッドを降りる。シャワーを浴びてさっぱりしたら、自分の城に帰ろう。
ソシャゲイベのランキングは、下がってしまっただろうか。ギルドの方は、どう言い訳をしておこうか。配信なしだったことは、来週にでも埋め合わせしよう。
やることがたくさんある。千景への恋心にばかり気を取られてなどいられない。
あの毒を全部絞り取ってやろうとは思うものの、寮や職場でどうこうするわけにはいかないのだから、この部屋を出たら昨夜のことは忘れるべきだ。
シャワーから落ちてくる温かな湯に体を打たれながら、じんわりと広がっていく恋心に項垂れた。

 

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