カクテルキッス2ー愛のひとつも囁けないー

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足がもつれた。あ、と思ったときには体が傾いでいて、眼前に硬そうな床が迫る。立て直せない。瞬時にそう思って、至は衝撃に備えてぐっと両目をつむった。
「至さん!」
春組リーダーの叫ぶ声が耳に届いて、きっと自分は死ぬほど無様な姿ですっ転ぶのだろう――そう思った。
(オワタ。俺の遺体は推しのSSRと一緒に焼いてくれ)
そんな冗談を言う用意もしていたのだが、どうしてか痛みを感じない。もしやすでに天国なのかと思ったが。
「Oh~チカゲ、サイズマッチネ~」
「……ナイスキャッチ、かな」
「ソレダヨ!」
「もはや何なのか分からないだろ、それ」
眼前に迫っていた床が遠ざかっていく。どうやら、千景が止めてくれたようなのだ。別の意味で天国で、ある意味では地獄のようだった。
「平気か、茅ヶ崎」
「え、あ、はい……すみません」
体を起こされて、至は何度も瞬く。人ひとりを、しかも成人男子を引き上げておいて、涼しい顔をしている千景。だが身長だってさほど変わらないのだ。至の体を支えるには相当な力が要ったはず。
(……そういや、案外綺麗に腹筋割れて、た、……っけ)
服の上からでは分からないが、千景の体は意外と、バランス良く筋肉がついていることを思い出した。
思い出して、失敗する。熱が上がってくるようだ。
「至さん、大丈夫ですか……?」
「チョーシ悪いネ~?」
「また遅くまでゲームでもしてたんじゃないですか? 千景さん、少し注意してやってくださいよ」
「いや面倒くさいから」
「至、監督が出てくるあのゲームいつやらせてくれるの」
春組の連中は、好き勝手にそうはやし立ててくる。癒やしてくれるのは咲也くらいだ。
千景にいたっては、いったい誰のせいで調子が悪いと思っているのか。
「先輩、離してください。もう大丈夫なんで」
足がもつれるのは、動きが鈍いのは、どう考えたって昨夜の行為のせいに違いないのに。
そう思ってキッと千景を睨みつけてみると、一瞬だけ目を見開いて、千景は口の端を上げてきた。
「へぇ。だけど、その体で立ち回りがスムーズにできるとは思えないね。隅の方で休んでいるといい、茅ヶ崎。邪魔だよ」
「なっ……」
睨みつけた理由に気がついて、互いにだけ分かる含みを口にする。悪びれた様子もないのが苛立たしくて、至は千景の腕を振りほどいた。
「ま、まぁまぁ千景さん。至さん、しばらく春組公演もありませんし、無理することはないですよ。休んでてください。あっ、俺たちの演技とか見ていて、アドバイスとか欲しいです!」
リーダーである咲也が、そんな二人を取りなして、声をかけてくる。結成当初に比べたら、随分とリーダーらしくなったものだ。
それはさておき、年下になだめられるとは情けない。至はほんの少し眉を寄せたが、すぐにほぐした。
「ん、おkおk。悪いけどちょっと休憩させてもらうよ」
そう言って笑い、大鏡とは逆の壁に腰を下ろすと、咲也はホッとしたようだった。
至はその位置から、春組メンバーが稽古にいそしむ様子をじっと眺める。実はホッとしたのは至の方だ。
(気づかれてはないよな。バレたら、先輩殺してから俺も死ぬわ)
千景に恋をしてしまったことはもちろん、体だけ繫げるような、ただれた関係になってしまったことも。
目が、千景を追ってしまう。
千景が触れたところが、まだ熱を持っているよう思う。
(でも……俺が、先輩殺せるとは思えないな。ネトゲとかなら容赦なく消してやるけど。いや、それも無理かも。あの人チート過ぎるし、どんな装備隠してるか分かったもんじゃないわ)
味方にするなら心強いとは思うが、それだっていつ寝返るか分からないという、危うさがある。
(あんなに力があるとは思わなかったし……)
軽々とまではいかずとも、至を支えたあの腕の力。
およそ普通の商社マンとは思えない。着痩せするタイプなのだと知ったのは、実際彼の体に触れてからだ。
(……ガチでヤバい組織の人間なのかね、あの人)
思い当たる節はある。疑えそうな言葉を、千景自身の口から聞いている。いつもの〝お遊び〟だと思っていたが、もしあれが全部本当なのだとしたら。
(…………ないわー。何そのアガる設定。ヤバい世界の男に惚れるとか、俺フラグ立ってんじゃん? ないわー)
考えて、ふるふると首を振った。
危ない男に惹かれる気持ちは、男女問わず多少なりともあるらしい。憧れにしろ恋心にしろ、単なる好奇心にしろだ。だが漫画やゲームでは、そういう相手に関われば、必ず危険な目に遭うのがセオリー。
いやいや、ごめんである。そんな中二病は妄想の中だけに留めておきたい。
(怪しさは満点なんだけどね、先輩。入寮しときながら寝泊まりしなかったときもあるし、何か別の目的で、劇団(うち)に近づいてきたんだろうなとは思ってたけど)
無茶ぶりだっただろう個人間契約も、千景は何も言わずに承諾した。千景は芝居がしたかったのではない――早い段階から至はそれに気づいていたが、自分の城を壊さない相手ができたという個人的事情と、新入団員に喜んでいる咲也たちの気持ちに、水を差したくなくて、なあなあでやり過ごしてきた。
(劇団の崩壊が目的にしては、回りくどかったな。となると、やっぱり……密と何かあるんだろうな)
気分が沈んでくる。まだ劇団のみんなと打ち解け切っていない千景が、密と接するときだけは遠慮がない。
この気持ちに気づくまでは、欠片も気にしていなかったことが、チクチクと胸を刺す。
千景と密の気安い関係が、どうやって築かれたのか分からない。千景の過去が知りたいなんて、女々しいことは言わないが、そこに入り込めない疎外感が、至に歯ぎしりさせた。
(嫉妬とか、マジやめろよ)
至は項垂れてきつく目を閉じる。
千景を目で追っていたい気持ちと、見たくない思いが交錯して、体の中がいっぱいになってしまいそうだ。
(ない。ないない、ないっつってんだろ、クソが!)
よりによって嫉妬の対象が、劇団の仲間だなんて。
膝を抱えた腕を、ぎゅっと強く握る。
湧き上がってくる黒い獣を押さえつけるように、至はぐっと息を飲み込んだ。
(マジ無理、勘弁して。どうせなら、もっとキラッキラした恋したかったんだけど)
可愛い女の子と運命的な出逢いをして――なんて、椋や太一みたいに夢みる年頃ではないけれど、せめてもう少し簡単に想える相手がよかった。
千景が相手では、どうやってもキラキラなどできない。
気づいたばかりの今なら、やめることもできるだろうかと、至は思う。だけど思う傍から、無理だと思い直した。
千景の熱を知ってしまったのに、どうして忘れることができるのか。くしゃくしゃと髪をかき混ぜ、思考を散らそうと試みた。
「茅ヶ崎」
そんな至の腕を引いてくるものがあった。至は思わずびくりと体を強張らせる。
春組メンバーに背中を向けた形で、千景が責めるような瞳で見下ろしてきていた。レンズの向こうのそれはひどく冷たくて、ぞくりと背筋を震わせた。
それはまるで、快感のようだ。
「ひどい顔色だな」
「え……」
「イタル、顔がひどいネ~?」
「顔色、な?」
そこまで体調が悪い自覚はない。物思いにふけりすぎたせいで、自分がどんな体勢だったのかを思い出した。壁際で膝を抱えながら座り込んでいれば、そう誤解されても仕方ないだろう。
「至、寝てた方がいいんじゃないの」
「そうですよ至さん。すみません、俺がアドバイス欲しいなんて言ったから」
「え、あ、違……」
次々に気遣ってくる家族たちに、大丈夫だと言おうとして、遮られる。腕を摑む千景の指に、強い力が込められたせいだ。
「ちょっとこいつを部屋に置いてくるよ。みんなは続けていてくれ」
千景は、先ほどの冷たいまなざしを優しいものに一変させて、メンバーたちを振り向いた。その変わりように、至は不愉快な違和感を覚える。
(何それ……)
メンバーの中で、千景にいちばん近いのは自分だ。遠慮がなくなる理由は分かるけれど、体調が悪い相手に向けるものではない。
「大丈夫ですか? 手伝いますよ、俺」
「いや、いいよ綴。ルームメイトの不調に気づかなかったのは、俺にも責任があるからね」
「いっ……」
そう言って、千景はぐいと至の腕を引く。その力が強すぎて、至は腰を上げるしかなかった。
(まただ。こんな力、この人のどこにあるのかね)
ここは逆らわない方がよさそうだと、至は心配そうな顔をする咲也たちにごめんと呟き謝って、千景に腕を引かれてレッスン室を後にする。
「先輩、ちょっと、速い……」
レッスン室を出た途端、千景のペースが上がった。部屋に戻らされるほど体調が悪いわけでもないが、昨夜の行為を考えると、もう少しゆっくり歩きたい。
そう思って、顔をしかめながら千景に訴えるのだが、彼が速度を緩めることはなかった。
(なんか怒ってる。何したっけ、俺)
隣からピリピリとしたオーラが突き刺さるようだ。この乱暴なペースは、至の体を気遣って抜け出させたわけではないようで、至は心当たりを探してみた。
だけど答えにたどりつくより先に、一〇三号室にたどり着いてしまう。
「ちょっ、何……うわっ」
ようやく千景の腕から解放されるかと思ったら、乱暴にソファの上へと放り投げられた。やっぱり体調不良の相手にすることではない。
至は千景を睨み上げると、それより鋭い瞳に見下ろされた。
「どういうつもりだ、茅ヶ崎。バレたいのか?」
「はぁ?」
「自覚がなかったのか? あんな顔で俺のことを見ていたら、そのうちバレるぞ。連中が鈍いヤツらばかりで良かったな」
片膝をソファに乗せ背もたれに手をつき、至を覗き込んでくる。
ぎ、と千景の重み分ソファが鳴き声を上げて、その音に気を取られて、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「え、な……ん」
「寮(ここ)に、俺とのことを持ち込みたくないのは、お前の方だと思っていたんだけど。見当違いだったか?」
「……ちょっ、ま、待って先輩! 俺、どんな顔っ……」
千景のため息で我に返り、至は顔を真っ赤に染めた。千景の姿を目で追っていたのは自覚していたが、いったいどんな顔だったというのか。
まさかとは思うが、内緒にしておきたいこの想いが、バレかねないものだったのだろうか。
そんなことになったら死にたいと、至は上がってくる頬の熱をどうしようもできずに、どうか気づかないでくれと祈るように千景を見上げた。
「……俺が欲しくてたまらないって顔」
「な、そ、そんな顔してません!」
恋に気づかれるような表情ではなかったようだが、それはそれで、死にたいくらい恥ずかしい。
「ああ、されたくないよ、茅ヶ崎。俺は確かにお前を抱いたけど、安っぽいオンナに成り下がるとはね」
「はぁっ!? だ、誰がオンナっ……」
「嫌なら煽るな、馬鹿が」
忌ま忌ましげに呟いた唇が、至の唇を塞いでくる。目を瞠った。
オンナに成り下がるなと責めておきながら、触れてくる唇は官能的だ。
「先輩っ、ちょっと、アンタ言動がめちゃくちゃっ」
至は必死に千景の体を押しやろうとするが、それより強い力で押さえつけられる。
「んっ、んぅ、ふ、ぅっ……」
呼吸のタイミングを摑めないままのキスは苦しくて、そもそも寮内でなんてとんでもない。いくら自分たちにあてがわれた部屋で二人きりでも、ここの壁は案外薄いのに。
「せんぱ……っう、んむ、ぐ」
はあ、と吐息するもすぐに塞がれて、混ざった唾液が口の端からこぼれていく。
身をよじるのに、千景の腕はそれさえも利用して、至の体をソファへと転がした。
「え、待って、噓でしょ、先輩……っ」
ぐ、と稽古着のスウェットが、下着ごと腰からずり下げられる。その意味が分からないわけではないが、状況が把握できずに、至は目を白黒させた。
「抱いてほしかったんだろ?」
「馬鹿なこと言わな……っ」
ぐっと膝まで引き下ろされたスウェットが、脚を縛る枷になる。千景の手のひらが口を塞いできて、至は大きく目を見開いた。
「ふっ、ぐ、ううっ」
外そうともがくも、上からかかる力にうまく抵抗ができない。千景の手のひらは素肌の太腿を撫で上げ、昨夜何度も繫がったそこに指を這わせてくる。
「ん、ん!」
至は口を押さえられたまま首を振る。それでも千景の手は離れていってくれなくて、初めて千景のことを恐ろしく思った。
「んん、んんっんぅ……!」
それでも千景の指に反応してしまう。千景の思う通りに体を開いてしまう。
「あまり大きな声出すなよ、茅ヶ崎。いつ誰がドアの外通るか分からないだろ、こんなところじゃ」
だったら、こんなところでするなと言ってやりたい。至は瞳の力だけで抗議して、千景の手の奥で歯を食いしばった。
「欲しがったのはお前だぞ」
千景の押し殺したような声が耳に届く。どれだけも慣らされないままに入り込まれて、至は痛みにのけぞった。
「う、うぅっ、ん、ぐ……う」
「……っ」
思わず、千景の手に爪を立ててしまう。
苦しい。痛い。
声に出せない怒りと寂しさが、爪の先に集まり、千景の手を傷つけた。
一瞬だけ腰の動きが止まったかのようだったが、緩やかになっただけにも思える。気のせいか、と至は冷えていく体から力を抜いて、諦めて千景を受け入れた。
ふ、ふ、とくぐもった声が、千景の手のひらでせき止められる。
(昨夜のあれ、本当だったんだ)
〝この上なく優しくしてやってる〟
〝普段こんなに前戯に時間をかけることなんてない〟
昨夜千景が言ったあの言葉が思い起こされた。確かにこの乱暴な行為を思えば、初めての夜も、昨夜も、千景は優しかった。
普段はこんなふうに相手を抱くのかと、肌があわ立つ。いつもの一夜限りの男たちと、同じ扱いをされていることが、どうしようもなく悔しくて、寂しくて、心臓がぎゅうぎゅうと締めつけられる。
体を好き勝手される痛みよりも、心臓の方が痛い。
至は心臓のあたりで稽古着を握りしめ、ゴクリと唾を飲んだ。
「……っ、う、うぐ」
「ちがさき……ッ」
全然気持ちよくなんかなくて、達する前に引き抜かれていく。
引き留めるように体を丸めてみたけれど、無情にも千景は熱を脚にかけるだけで離れていった。
はあ、はあっ、はあ、と互いの荒い呼吸が混ざる。中途半端に高められ、放置された熱のせいで、至の呼吸はなかなか整わない。
「サイ、アク……」
ようやく千景の手から解放された顔を背け、腕で目元を覆う。口の端を上げてみたけれど、乾いた笑いしか出てこなかった。
「……犯されたくないなら、他人がいるところであんな顔するんじゃない」
「ハッ……先輩が俺を抱きたいから、幻覚でも見たんじゃないですか」
「馬鹿なことを言うな。……忠告はしたぞ、茅ヶ崎。少し大人しくしてろ」
千景の静かな声が降ってくる。もう睨み上げる気力もなくて、着衣を整えてドアへ向かっていくのを、気配だけで知った。
バタン――ドアが閉まったそのすぐあとに、ダンッと大きな音が続き、至はびくりと体を強張らせる。きっと千景の拳か何かが、ドアを殴りつけた音なのだろう。
千景があんなふうに感情をあらわにするのは珍しい。
それが、自分に対する怒りだろうことは残念だが、それに触れたのが自分だということが、どうしようもなく嬉しかった。
「マジでか……」
本当に恋というものはどうしようもない、と至は息を吐く。自分に向かっている感情のすべてが幸福だなんて。欲にせよ怒りにせよ、〝千景〟だ。
脚に、彼の残滓。
至はその名残に戸惑い、散々に躊躇しながらも、震える指先でその白濁とした体液を拭う。そうしてそのまま、放置された自分自身に擦り付けた。
「んっ……う」
千景の体液と、至の欲が混ざり合っていく。
ぬちゅ、しゅく、と淫猥な音をまとって、部屋の空気を揺らす。至はどうにかこの熱を収めてしまおうと、手の速度を上げた。
後ろめたさと、物足りなさと、どうにもし難い空しさ。
千景に犯され、千景の体液に濡れて、こんな自慰で終わるしかないなんて、情けないにもほどがある。
「あ、あぅ、あっ、あ……先、輩……ッ」
それでも熱を解放したくて、両手で懸命に高め、至は体をわななかせた。
ようやく達することができて、疲弊感が襲ってくる。
「サイアク……ほんと、ガチで」
何がサイアクかって、こんな仕打ちを受けても、千景への想いが消えていかないことだ。
「ハイハイ気をつければいいんでしょ。俺だってバレるとかごめんだわ。そう言いながら寮内でヤる矛盾おつ」
至は欲の始末をして、ソファの上に再度寝転がった。抱かれた場所だと思うと、少し生々しくて気が引けるが、この疲労はどうしようもない。
一緒にいたのが、春組だけで良かったと、今になって思う。例えばあの場に東や万里がいてみろ、一発で気づかれていたに違いない。
至は改めて、自分を戒めた。
こんなに無防備に気持ちをさらしていたのでは、近いうちに千景本人にまで気づかれてしまう。
誰に知られようと構わないが、千景にだけは隠しておきたい。
深呼吸を何度か繰り返し、痛む心臓を押さえて目を閉じた。

 

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