カクテルキッス2ー愛のひとつも囁けないー

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千景はドアにもたれ、拳を叩きつけた。中の人間に聞こえていようが、構っていられなかった。
(なんで、こんなことをした……!)
自分のした行為が信じられない。嫌悪感さえ覚えて、千景は頭を抱える。
レッスン室で、自分を追いかけてくる至の視線には気づいていた。
新入りの域を脱していない千景の演技を、どうこき下ろしてやろうかという視線なら、受けてやっていただろう。
だが、あの視線は駄目だ。
情欲を混じらせた瞳は、嫌いではない。
問題は、場所と、相手。
よりにもよって大事な〝家族〟たちの前で、〝茅ヶ崎至〟に、あんな目をさせてしまったことが腹立たしい。
至をそんなふうにしてしまったのが、自分なのかと思うと、はらわたが煮えくりかえる。
同時に、どうしようもないほど欲情した。
欲情されることが嬉しいなんて、あり得ないと思っていた。面倒だとさえ思っていた。
それなのに、相手が至だというだけで、全身を覆うほどの歓喜を覚えたのだ。
気づかれてはいけない。守るべき大切な家族を、性の対象にしているなんて。
元々がノンケの男に、あんな目をさせているのが自分だなんて。それを喜ばしいと思っていることなんて。
(自分がこんなにも矮小な人間だったとはな……)
あろうことか欲を抑えきれずに、無理に繫がったことなんて。
歯を食いしばる。
これ以上踏み込めば、これ以上踏み込ませれば、後戻りができなくなる。そう思った。
(茅ヶ崎は駄目だ、普通の世界で生きていられる人間なんだ。俺とは違う……!)
これ以上手を出すなと、自分自身に言い聞かせる。
だけどそう思う傍から、触れたい思いがあふれ出してくる。
せめて傍から離れようと、千景はレッスン室へと戻るためにつま先の向きを変えた。
「あっ、千景さん。至さん大丈夫ですか?」
レッスン室に戻れば、そわそわした様子の咲也が、駆け寄ってくる。
そりゃあ心配だっただろう。体調の悪そうだった至を部屋へ送り届けた千景までもが、しばらく戻ってこなかったのだから。
しまったな、と思ってほんの少し視線を背けるも、すぐににっこりと笑ってみせた。
「ああ、大丈夫だよ。寝不足と栄養の偏りかな。ジャンクなもの食べてゲームばかりしているから」
仕方のないヤツだねと肩を竦めてみせれば、やっぱり、と綴が呆れたように息を吐く。心配だなあと、咲也が眉を下げる。アイツみたいな大人にはなりたくない、と呟く真澄と、お見合い行くヨ~と、相変わらず言い間違えるシトロン。
誰ひとりとして、至と千景の間に起こったことには気づいていないらしい。
彼にも言ったが、春組メンバーだけで良かったと心底思う。
(ディセンバー、……密、が、いたら……きっと気づかれていた)
オーガストが生きて傍にいたら、恐らく彼にも気づかれただろう。
茅ヶ崎至へ向かっていく、馬鹿げた欲と恋心。
(オーガストは、楽しそうに笑って応援してくれるかもしれない)
ねえ、君のハートを射止めたハニーを紹介してくれよ、などと言いながら、背中を押しそうだ。
(……ディセンバーなら、口うるさいヤツに好かれて大変とでも言うだろうか)
自分が世話を焼かれる対象から外れるなら別にいいと、絶対にそこら辺で寝てしまうはず。
(そして俺(エイプリル)なら、絶対に止めるはずだ)
自分自身の首を絞め、誰よりも責め立ててくるだろう。
よりにもよって、仕事に関わるターゲットでもない民間人をとは、と蔑んでさえくる。
その感情は正しい。
血に汚れたこの手で、なぜ普通の暮らしができると思うのか。
犯した罪は深く、償える物ではないというのに。
(巻き込むな。誰も巻き込んだりするな、エイプリル)
この劇団を守るためなら、ディセンバーを、大事な家族たちを、……茅ヶ崎至を守るためなら、どんなことだってしてみせる。
(まあ……さっきのアレで、茅ヶ崎には嫌われてるだろうけどね)
あんな乱暴をするつもりはなかったが、結果としては良かったのかもしれない。これ以上踏み込ませないで済む。あとはこの痛む心臓を握りつぶして、なくしてしまうだけだ。
(簡単なことだ。自覚したのだってつい先日だぞ。完了したミッションなんだと思えば、忘れられる)
もともと許されるわけがない恋だ。いつかは消してしまわなければいけないもので、遅いか早いかの違いだけ。至に気づかれるわけにもいかないし、感情を押し殺すことには慣れている。
そう思って、ハッとした。
(押し殺す?)
もともと感情を表に出すのは得意ではなかったはずだ。
オーガストたちと一緒にいるときはまだしも、それ以外の人間がいるときは、感情なんて出てこなかったのに。
押し殺さなければいけないほど、今この体の中に感情があふれているというのか。
劇団の芝居で、暖かな家族に触れて、感情の渦巻かせ方を、表し方を覚えたのだとしたら、皮肉なことだ。
彼らによって引き出されたそれは、彼らのために押し殺しておかなければならない。
(……長い任務だな)
千景は苦笑して、稽古の熱に身を投じていった。

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