カクテルキッス2ー愛のひとつも囁けないー

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今日だけは勘弁してほしかったなと、千景は息を吐く。
せっかく至の方からの誘いだったのに、流さざるを得なくなってしまった。
「ターゲットは?」
「C棟の地下一階、第二研究室の奥。見取り図は把握してる。監視カメラの映像細工してからだな」
「了解」
合流したエージェント・メイとともに、今回の獲物とルートについて確認する。
ある製薬会社が、危険な薬を開発してしまったらしく、組織はそれが欲しいらしい。まともなところで幻覚作用の強いドラッグか、最悪なものを想定すれば細菌兵器。しかし防護服着用の指示が出ていないあたりを見るに、ウィルスやなんかの類いではないようだ。
いくらエージェントが捨て駒だと言っても、ミッションを成功させるまでは、生かしておくはずである。何しろ、そのために孤児を拾い育ててきたのだから。
「中身は、知っているのか?」
「俺たちが知る必要はない、ってさ。いつものことだろ、エイプリル」
「……そうだな」
しかし製薬会社の研究施設ともなれば、警備は厳重だ。どれだけの訓練を積んでいるかは知れないが、雑魚でも数がいるとなると多少面倒になる。
「俺が盗んでいる間、警備どうにかしてて。かかってるセキュリティこじ開けるのと、戦闘同時は難しい」
「殺さない程度でいいだろ? 警備員とはいえ、この国じゃ子供だましも同然だ」
「いいんじゃない。上からは生死の如何は指示されてない」
分かった、と千景は黒のグローブをはめる。指紋を残すわけにはいかない。
本来なら今夜、この手は至に触れるはずだった。その手で今、罪を犯さなければならない。ミッションが成功しても、その名残を残したまま触れることなど、許されるはずもない。
指紋を残さないこと、そして罪の香りをあの男に悟らせないこと――それが千景の任務だった。
そうして、仕事用の眼鏡をかける。フレーム傍のスイッチに軽く触れれば、グラスの色が変わった。エイプリルの視界に通常は見られない世界(モニター)が広がる。
サーモグラフィ。現代ならほぼすべての人間が持っているであろう、通信媒体のポイントマーク。余計な電流が通っていないか。エトセトラ。
気づかれずに侵入するには、あらゆる情報がリアルタイムに必要となってくる。
「待て、メイ。少しおかしい」
その小さな画面上での動きを追いかけて、エイプリルは訝しげな声を上げた。
「どうした?」
「人の動きが多すぎる。研究員はほぼ帰宅している時間だろ。そうでなくても、研究室にこもっているはずなのに」
せわしなく動く、赤いマークがうっとうしい。中で何か問題が起こっているのだろうか。
「北口に集中しているみたいだ」
タブレット端末に指を滑らせて、見取り図と照合してみる。日付が変わった直後の時間帯にしては、やはり人が多すぎだ。
「予定ルートの南口には来てないんだろう? 好都合じゃないか。侵入(はい)りやすくなる」
「見つかる可能性の方が高い。少し時間を――」
エイプリルの制止を振り切って、メイは塀に飛び乗ってしまう。感知システムがないからいいものの、接触による作動システムだったらどうするのだと、相方の無謀に舌を打った。
「エイプリル、上がってこい」
周辺に異常がないことを確認したらしいメイが、腕を伸ばしてくる。仕方なくその腕を取り、タイミングを見計らってエイプリルも塀の上に飛び乗った。
ストンと地面に降りて辺りの様子を窺うも、やはりこの時間帯にしては、異様なざわめきが感じられた。今回のミッションは、日を改めた方がいいのではないかと、本能が警鐘を鳴らす。
「予定ルートの変更はないな」
「おい、本当にやるのか」
「エイプリル。今回のミッションは俺が担当、お前はサポート。文句を言うなら帰っていいぞ。本部に報告しておくから」
メイの語気が強くなる。手柄を争うつもりはないし、上からの指示に盾突くつもりもない。
ただ、ミッションの放棄を報告されるのは、ありがたくない。オーガストやディセンバーのことで目をつけられているかもしれないのに、この上幹部連の心証を悪くするのは避けたい。
警告音が鳴り響く頭の中を、無理やりシャットアウトして、エイプリルは仕方なく息を吐いて同行を決めた。
「ターゲットはC棟地下一階の四ブロック。現物とデータの確保が目的。逃走ルートは戻るより三階まで上がって、連絡通路から別棟渡った方がいい」
「それで問題ない。行くぞエイプリル」
メイが、気安く肩を叩いてくる。別に嫌悪するわけではないが、気分のいいものではない。
以前までならそれは、オーガストだったりディセンバーだったりしていた。
今さらあの頃に戻れるわけはないし、密を組織へ渡すつもりもない。
背負うのは、自分一人で充分だ。
従業員用の出入り口へ素早く駆け寄り、非接触型のカードリーダーに、無理やりアクセスを仕掛ける。
「二十秒で開ける。それ以上はセキュリティ会社に自動通報が……待て、向こうが騒がしい」
だが彼は作業を進める前に、その向こう側がひどくざわついているのに気がついて、手を止める。エイプリルも辺りを警戒した。
侵入に気づかれたのかと思うが、そんなヘマはしていないはずだ。赤外線の感知システムもなかったし、監視カメラの類いは避けてきたはず。
「誰か向かってくる。一人じゃない」
「隠れるぞ」
ドアの向こうから、数名分の足音が聞こえる。ひどく慌てた様子に思え、恐らくこのドアを開けて、外に出ようとしているのだろう。
そう推察した二人は、ロックの解除を諦めて壁の陰に身を潜めた。
「侵入者感知のセンサーにでも触れたか」
「馬鹿な。こっちのサーチシステムの方が上だ。こんな民間企業に後れを取るような技術じゃない!」
「……まあ、そうだろうけど」
メイは本当に、組織でしか生きられない人間だなと、エイプリルは哀れみさえ感じる。少し前までは、自分こそがそうだったにも関わらずだ。
しかし彼の言うとおり、ここは民間経営の施設だ。スポンサーは多数いるだろうが、国家機密にさえ関わる仕事をこなす組織に比べたら、セキュリティはザルのようなものに違いないのに。
ともかく見つからないようにしなければと、息を潜めて気配を殺す。事と次第によっては、戦闘もやむなしか、と懐の武器を確認した。
できれば使いたくない。麻酔針つきの指輪、ワイヤー、ナイフ。エイプリルはぎゅっと拳を握る。
「急げ、急いで避難するんだ!」
「警察には誰かっ……それより、救急車と消防車は!」
「さっき主任が連絡してました! いいから早く出て!」
ドアから数人、ここの研究者らしき者たちが走り出てくる。どう見ても警備員ではなく、侵入に気づかれた気配は欠片もない。それどころか、我先にと逃げ出していく様子は、いったいどういうことだろうか。
(中で、何か……?)
警察、救急車、消防車――とくれば、中で火事があったのだと推察される。それも、慌てて逃げ出さなければいけないほどの。人の動きが多かったのは、このせいだったのかと納得した。
しかし、納得してばかりもいられない。エイプリルは、ちらりと振り向いてきたメイと視線を合わせる。
この混乱に乗じない手はないと、二人で頷いた。
二人は、研究員たちが出てきたドアが閉まりきる寸前、手を差し入れてロックを防ぎ、向こう側に人の気配がないことを確認して、するりと身を滑り込ませた。
火元はどこだろうかと確認する。人の熱源はほぼ確認できず、無事に逃げ出しているのだと、エイプリルはホッとする。
法に触れる薬を作り出してしまった企業だとしても、多くは何も知らずに研究にいそしんでいた一般人だ。犠牲を出すのは本意ではない。
「メイ、火元は隣の棟だ。ただ、ここも連絡通路で繫がっている以上、危険はある」
「防火扉動いてないのかよ。ずさんだな」
「早く終わらせるぞ」
「分かってるさ」
熱源はこの棟ではなく、隣接する研究棟のようだった。今すぐ煙に飲まれるということはなさそうだが、じきに通報を受けた警察や消防隊が到着するだろう。その前に、ミッションを完了させなければいけない。
二人は地下階へと続く階段へと走った。そこにも、ロックのかかったドアがある。大事な企業秘密がある場所だからか、セキュリティは厳重そうだった。

 

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