そして103回目の恋をする

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定時を迎えれば、ぴったりとくっついて社を後にする卯木千景と茅ヶ崎至の姿。まだひそひそ話は聞こえるけれど、軽蔑するような視線は減ったような気がする。作戦発動から半月も経てば、驚くこともなくなったのだろう。恋人つなぎをしていても、視線が気にならなくなった。
気になるのは、ある男からの視線だけだ。
「あの、今もどっかで見てんですかね。ちょっと怖いっていうか、割とマジな感じに」
「いたって民間人だろ? 問題ないよ。そんな視線より、俺からの視線を気にしててほしい」
「ひえ、突然のラブ。何か分かりました?」
にこやかな顔をして周りにアピールをしながらも、会話の内容はとても穏やかなものではない。それを千景が包み隠す。至はほんのり頬を染めて口を覆う。民間人であれば問題ないという千景の言葉は心強いが、やはり怖いものは怖い。今日の今日では進展もないだろうが、犯人像の欠片でも分かれば、自身でも気をつけることができる。
「車行ってからね」
ぎゅ、と手を握りしめてくる千景に合わせて、腕によりかかる。たった数時間で、何かしら掴んでしまった千景のスキルは、やはり舌を巻く物があった。
「人事部の係長」
車に乗り込むなり、千景がそう言ってタブレット端末を渡してくる。そこには、一人の男の名前と顔写真、経歴と家族構成などがずらりと書かれていた。
「は?」
「あの写真置いたヤツだよ。ついでに言えば、昨日の差し入れも。プリンのカップについてた指紋も一致したし、間違いない」
「は? え? ちょっと待って? あの、いろんなことに驚きが」
千景は数時間で、かけらどころか犯人そのものまで見つけてしまったらしい。見せられたデータを見ても、名前くらいは覚えがあっても顔がどうしても思い出せない。そもそも指紋が一致とはいったいどういう調べ方をしたのか。
「コイツと接触した覚えは?」
「え、待って……別にないと思いますけど……部署違うし、人事でしょ。何か頼むにしたって課長クラスに直ではしないですよ。上同士でやってもらうのが筋だし」
配属の時にちらっと顔を見たかな、という程度しか思い当たらない。そのあとの新入社員歓迎会で接触でもあっただろうか。だとしても覚えていないし、この男が勘違いするような態度を取った記憶はない。
「えええしかもコイツ既婚じゃねーか。奥さんいてなんで俺なの、意味分かんないんですけど」
「不倫だね」
「いや俺クズですけどゲスではないんで。ううう……気持ち悪い……これはちょっと無理……」
男、というだけならまだ許容もできただろうが、既婚者の上に一方的な妄執にはついていけない。至は助手席で盛大に項垂れて、自分の何が悪くてこんな事態になったのかと思考をぐるぐる巡らせた。
「俺は悪くない、俺は悪くない、こんな男知るかってんだ……どうしてくれよう」
恐怖に怯えた時間を返してほしいと、腹立たしささえ湧き上がってくる。今でも充分に恐ろしいが、正体が分かってしまえば怒りの方が上回る。自分が勘違いさせるような態度を取ったのならば謝りたいところだが、顔と名前も一致しなかったのに、恐怖だけ植え付けられた。
「どうしてやりたい? 社会的に抹殺しようか」
低く、静かな声が耳に届く。至は顔を上げて、千景を振り仰いだ。窓の外の月に美しく照らし出された横顔に、目を瞠った。
いっそ至自身より怒っていそうな千景の怜悧な顔。それに恐怖は感じなかった。怒ってくれることへの嬉しさが胸を叩いただけで。そこからじわっと熱が広がっていくような感覚を味わわされただけで。
「既婚者でありながら人の恋人に手を出そうっていうんだから、それなりの覚悟はあるだろうし」
「えっあっ、ちょ、待ってそこまでしなくても」
「どこまでならしていいんだ? 昨日お前の寝顔見た男だぞ」
言われてみれば医務室での件はそういうことになるのだろうが、その事実よりも卯木千景がこんなにヤキモチ妬きで独占欲の塊だった事実の方が衝撃的だ。
「お、俺の寝顔なんてなんの価値もないでしょ。せ、せんぱ……千景さんだって俺の寝顔くらい知ってるじゃないですか」
「見せたくなかったって言ってるんだよ。お前はどうなの? 俺の無防備なところ、誰か他のヤツに見られたら」
「そ、それは……やですけど、俺だって独り占めしたい」
今は薄暗い車内で二人っきりだ。演技をする必要なんてどこにもないのに、止まらない。言葉が、胸の鼓動が、泳いでいた視線が、すべて千景に向かっていく。
「だったら……分かるはずだろう、俺の気持ち」
ドン、ドン、と内側から胸を叩かれる。そんなに大きな音なのに、千景の声だけするりと入り込んでくる。耳に留まり続ける。
ちかげさん。
小さくそう呟いたはずだけど、それは音になっていたのかどうか。
二つの唇の中に吸い込まれて、もしかしたら誰にも聞こえなかったかもしれない。

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