そして103回目の恋をする

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三度目の目覚ましと、はたいてきた千景の手のひらで完全に覚醒する。
休日にしては早く起きた方だと褒めてほしいのに、恋人(仮)である千景は呆れたため息しかくれなかった。
「さっさとシャワーしてこい。上映間に合わなくなるぞ」
「ふぁあい……ねむ……。あ、先輩」
促されるままに着替えの準備をして、一〇三号室を出る寸前、思い出して千景を振り向く。何か文句でもあるのかと言いたげな彼に、忘れていた二つを投げた。
「おかえりなさい。おはようございます」
いつ帰ってきたのか分からない。そもそも眠ったのか分からない。だけど昨夜もらった行ってきますとおやすみに、何も返さないのははばかられて、改めての挨拶だ。千景がぱちぱちと目を瞬いて、なぜかその目をふっと逸らした。
「……ただいま、おはよう。あと三十分しか待たないぞ」
「ひえちょっと待って朝飯どうするんですかもーっ」
千景は半分本気で言っている。三十分経ったら平気で置いていくルート、あり寄りのあり。至は慌てて部屋を出て、浴場へと向かった。
この季節、シャワーだけでは寒いけれど、ゆっくり湯に浸かっている暇もない。ざあっと髪と体を洗い、ふわふわのタオルで水分を拭き取り、ドライヤーを使ってセットする。
今日は少しばかりめかし込んでみようかと、クローゼットからあさった私服に身を包み、ほんの少しのトワレで色をつける。あまり強い香りは千景が嫌がるだろうと、最小限に留めた。
(なんか、マジでデート前の男じゃん。いやデートなんだけど。服とか香りとか、ビジネス以外で気にしたことって、あんまなかった気が)
恋する男として気合いを入れてみたつもりだが、千景が普段通りだったらどうしよう、と鏡の前で思う。彼も今頃は出掛ける準備をしているはずだが、気合いのかけ方が違っていたらどうしたらいいのか。
いや、そこは同居していることの利点でもあった。相手との服装のバランスが悪ければ、すぐに替えることができるのだから。
髪を整えて、トップスの裾を引いてたるみをなくし、一度部屋に戻ってコートと荷物を準備する。千景の姿は見えなくて、もしや本当に置いていったのではないだろうなと時計を確認すれば、約束の三十分から二分遅れている。まさかねと思いつつ、そろりそろりと談話室へ向かった。
「茅ヶ崎、用意できた?」
至の気配に気がついて、ソファで雑誌を読んでいた千景が立ち上がる。至は目を丸くした。いつもの、動きやすそうな服とは違う、きっちりとめかし込んだ千景がそこにいて、まぶしさに目を覆うところだ。
「三分の遅れ。そわそわ待ってた俺に何か言うことは?」
「すっ、すみません、遅くなって。あの、か……かっこいい、ですね……」
「そう? ありがとう。お前も可愛いね」
ひえ、と声を上げそうになって、踏みとどまる。本音と芝居を混じらせた呟きにそう返されて、どう受け止めればいいのか分からない。嬉しがればいいのか、やり過ぎだと諫めればいいのか。
「わあっ、お二人ともかっこいいですね! はぁ……何を着ても似合うって、羨ましい」
「ふぅん、悪くないんじゃない」
「お出掛けですか? 行ってらっしゃい!」
談話室にいた面々が、そろって声をかけてくる。それに笑顔で行ってきますと返してみれば千景に肩を抱かれた。
「帰りはたぶん遅くなるから、夕食はいらないよ。……もし、帰ってこなくても、心配しないでね」
にっこり笑顔で続ける千景に、年少組の顔がさっと染まる。わざとだろうなと思うのは、彼の視線が一瞬だけ紬を捉えたからだ。反応を確かめたのだろう。至も至で万里に目をやれば、呆れたような表情で手をひらひらと振ってきた。ほんの三秒、紬を見ていたことには気づいたが、至は何も言わずにひらりと手を振り返した。
「からかうの良くないですよ。万里は本気なんですから」
寮を出て駅へと向かう途中、千景の言動を諫める。俺たちが口を出すべきじゃないと言ったのは、千景の方だったはずだ。
「なんのことかな。恋人同士として出掛けるんだから、雰囲気次第でそういうことになったっておかしくないだろ?」
「そりゃそうですけど……俺たちは飽くまで芝居で付き合ってるだけなんですから。万里たちのこと抜きにしても、下のヤツら可哀想でしょ。顔真っ赤にしちゃって」
「可愛かったね」
「こんのドSが」
「それに、紬のこともお前に責められるいわれはないかな。先にこっちを羨ましそうに見て他のは紬だからね。お前の言うように万里も本気だって言うなら、さっさとくっつけばいいものを」
短いため息に、なぜかとげとげしさを感じる。もどかしさと、小さな怒りが見て取れた。
(……やっぱ、そうなんだろうな、この人)
割と近くで千景を見てきたが、ここ数日で気づいたことがある。卯木千景は、恋を体感として知っているのだと。
(だってそうでもなきゃ、あんな優しい顔できないだろ。役者なんだから、知らない感情でも表現しなきゃいけないんだけど、なんとなくでやってる俺とは違うものを感じる)
千景には、きっと好きな人がいたのだ。今も続く感情なのかもしれない。その相手が紬だというわけではないだろうが、傍で想い合っている彼らがもどかしくも、苛立ちもするのだろう。
少し口を開けば叶う恋なのに、なぜお互い黙ったままでいるのかと。
『好きな人を思い浮かべて、重ねてみればいいんじゃない?』そう言った彼は、こちらに誰を重ねて見ているのだろうと、少しだけ気分が沈む。
千景の優しい笑顔も、優しい手のひらも、優しい声音も、全部その人に向けてのものなのだ。そう思うと、胸が痛い。
(この人は、そういうふうに恋をするのか)
告げられる感情ではないと自覚して、攻略も何もしないのだろうか。組織とやらに狙われる可能性を考えて、特別な相手は作らないと言った千景。
この恋人ごっこは、彼が叶えられない恋に対する、つかの間の夢になっているのか。
その幻想に自分を使われているという怒りは少しもない。この舞台は千景から持ちかけられたとはいえ、お互いが納得の上で初めて、今も続けているものだ。
千景が夢を見たいのならば、演じてやりたい。彼の恋人として、彼に恋をしたい。
「まだ怒ってるの? 別に夜まで連れ回すつもりはないけど」
「え、あ、いえ。怒ってないです。それより早く行きましょ」
「席は予約してるんだろ? 上映時間までに着けば問題ないよ」
「またそういうことを。映画館デートっていったらポップコーンでしょ! 買う時間考慮してください」
「そういうものなの? 分かった分かった」
そうして電車に乗り、普段は行かない駅まで向かう。休日だけあって人出は多く、座れるところは見つからない。幸いにもつり革に掴まるのは困難ではなく、並んで揺られる。
「平気?」
「大丈夫です。さすがにそこまでヤワじゃない」
「休日に出掛ける茅ヶ崎とか、超レアすぎてびっくりだな」
「ぐ、否定できない。でもやっぱ楽しみですよ、映画。字幕にしたけどいいですよね?」
「ああ、問題ないよ。実際の台詞と字幕の違いを観るのも面白いかもね」
「えええそういう楽しみ方があるとは」
くっくっと肩を震わせる。千景とふたりでこうして計画を立てて出掛けるのは、たぶん初めてだ。平日のランチとは違う。春組みんなで出掛けるのとも違う。二人だけでだ。遠慮をすることもなく、変に気を遣うこともなく、普段通りで隣にいられる時間を、それなりに楽しんだ。

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