そして103回目の恋をする

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(まずい)
ランチに行くたびに、うさぎの貯金箱にお釣りが増えていく。チャリ、と鳴る音が嬉しくて、胸が痛い。
うさぎの耳をなで、頭をなで、物足りなさに短く息を吐く。
(まずいって分かってるんだけど、なんで)
携帯端末に、ポコンとLIMEの受信。今日は出先から直帰になったという千景からのメッセージ。至は組んだ手の上に額を乗せてゆっくりと息を吸い込み、またゆっくりと吐き出した。
(先輩に触りたい……)
指先も、視線も、千景を探してしまう。
勢いと雰囲気に流されて、触れ合ってしまったあの日から、明らかにおかしな感情が渦巻いていた。
千景に触れたがるのは演技で、千景の姿を目で追ってしまうのも演技で、千景さんと呼びたがるのも演技のはずだ。
恋人ごっこはまだ続いていて、明日のバレンタインを無事にやり過ごすのが目的だ。
お付き合いしている人がいるとちゃんと告げれば、女性たちからのアプローチは激減するだろう。事実今も、以前よりは視線が減っている。
ホワイトデーのお返しにあまりお金を使いたくないという至の望みも、甘い物もそもそも女性が苦手だから接近はあまりしたくないという千景の願いも叶えられつつある。
至に妙なストーカー行為を働いていた男は、あの翌日に他の社員へのセクハラとパワハラも発覚したようで、減給及び過酷な現場だと噂される下請け会社への出向が決まっていた。セクハラやらパワハラやらがどこまで本当なのか分からないが、即処分が下るだけの素地はあったのだろうと胸をなで下ろした。
飛び交う噂もやがて飽きて収束を迎えるだろうし、あとはいつも通り一緒に出勤してたまにランチを一緒にして、時間が合えば一緒に帰るくらいでいい。
そして至は浮いた金額を課金に費やして、千景は好きなだけ激辛の物を食べればいいのだ。
それなのに、なぜこんなに寂しいのだろう。
もうすぐこの騒ぎが落ち着いて、後は匂わせ程度で良くなると思うと、気分が沈んでいく。
(まずい。これはまずいと思う。いや、そんなわけない。勘違いしてんだって。よくあるだろ、共演者とくっつく芸能人。あれだ、まさにそれだ)
何度否定しても、どれだけ考え直しても、可能性がひとつしか浮かんでこない。たたき割って粉々にして埋めてみるのに、その可能性は何度でもよみがえる。
(よみがえるのは天空の城くらいでいいです……ホント勘弁して。こんなの雷に打たれて焼かれてしまえ)
ふとまぶたを持ち上げれば、傍らの携帯端末にぽこぽことLIMEの受信。しまった既読スルーをしてしまったと視線をちゃんと移したら、首を傾げるうさぎのスタンプ。拗ねてる? と訊ねるメッセージ、お土産買って帰るね、というメッセージとプレゼントを差し出すうさぎのスタンプ。
それが、この五分足らずの間のトーク。
思わず噴き出しそうになって、慌てて口を押さえた。至からの返信を待っていたのだと思うと、愛しくてたまらない。
(………………――愛しい?)
雷に打たれて、焼かれてしまったような衝撃が走る。
既読スルーされたからと心配して間を開けてメッセージを送ってくる千景に、笑ってしまいそうだったのは、間違いなく素のままの茅ヶ崎至だ。そもそも演技が念頭にあったのならば、作り物の茅ヶ崎至はすぐに返信していたはず。
それなのに、今、おかしなことを思ってしまった。
至は端末に指を走らせて、何度も何度も打ち直す。何を返せばいいのか分からなくなってしまった。
こんな時恋人なら、なんて返すのだろう。気をつけて? お土産楽しみ? 即レスできなくてごめんなさい? 一緒に帰れなくてさみしい?
悩んで、ためらって、何度も指が止まる。この瞬間にも千景は返信を待っていてくれるのだろうかと思うと、余計に焦りが生まれる。
こんなメッセージを送って、引かれたらどうしよう。先日までは何を送ろうと気にしていなかったのに、千景の反応が気になってしまう。
こんなメッセージを送って、惹かれたらどうしよう。これで歯止めが利かなくなってしまったら怖いなんて考えて、想う言葉が何も出てこない。
(怖い、なにこれ泣きそう……先輩どう思う? どう返してくる? ヤバいホント何も送れん)
だけど早く返してあげたい。焦りで冷や汗まで出てくる。
悩みに悩んで、送信の飛行機マークを推した。
『気をつけて、千景さん。お土産はピザがいいです』
当たり障りのないメッセージ。ルームメイトとしても捉えられるものだ。至はゆっくりと息を吐き出すが、それは震えて自身の耳に届いた。
どれだけ緊張していたのだ、と苦笑して、すぐに返ってきた『マルゲリータかな?』というメッセージと呆れ顔のうさぎのスタンプに、ホッとする。
明日の決戦前に壮行会ですねと送ろうとして、やめておいた。これは恋人としてのメッセージにはならない。
今、素の茅ヶ崎至ではいたくない。演技をしていれば、何を思ってもおかしくないはずだと気がついて、意識的に千景の恋人を演じる。
『あと、無事な姿と優しいキスをお願いしますね』
『了解、良い子で待っててハニー』
そんなやりとりに口の端を上げて、仕事を片付けてしまおうとパソコンモニターに向き直る。

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