そして103回目の恋をする

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そうして会話もなく、寮へとたどり着く。臣が作ってくれた美味しいご飯にありついて、だらりとした格好で自室に戻ろうと中庭を突っ切れば、千景は出掛けるところのようだった。食休みもしないうちにだ。
「あれ、先輩出掛けるんですか? こんな時間に」
「ああ。お前には踏み込めない世界へね」
目を細めて笑う様は、茶化していながらも真剣な表情だ。踏み込んできてくれるなよと牽制しているようで、至は眉を寄せる。
「明日のデートまでには戻ってくるから。徹夜するなよ。おやすみ茅ヶ崎」
トンと指先で額を小突かれ、視界が揺れる。
行動を見透かされていて悔しい気持ちと、明日の件を覚えていてくれて嬉しい気持ちがごちゃ混ぜになって、上手く表情を作れなかった。
「おやすみなさい……あの、気をつけて。い、行ってらっしゃい」
せめてちゃんと送り出そうと口にしたそれに、千景は目を瞠ったようだ。おかしなことを言っただろうかと小首を傾げたら、千景が口の端を上げた。
「うん、行ってくる」
そう言って、千景は玄関の方へと向かっていく。なぜあんなに嬉しそうな顔をされたのか分からず、どうして今こんなにも顔が熱いのかも理解できない。
「新婚さんかよ」
クエスチョンマークが頭に押し寄せる中、背後からかけられる声。振り向けば、そこには呆れたような顔をした万里がいた。
「は? 何がよ」
「無自覚とかウケんだけど。なに、千景さん出掛けたんすか」
「ああ、ちょっとな。共闘バトる?」
「おー、いっすよ。手え空いてるんで」
ゲーム仲間である万里を自室に引き入れて、至は着替えて息を吐く。久しぶりに恋する男の仮面を取り去った気分だった。
「恋する演技がこんなに難しいとは思わなかったわ」
「つーか部屋の前でイチャつくのどーにかなんないんすか。演技だって分かっててもビビるっての」
「イチャついてねーわ。最近やっとこんな感じかなって思い始めたんだけどさ。分かんなくなった」
共闘をすると言って連れ込んだにもかかわらず、二人の手にゲーム機は握られていない。至はいつものちょんまげさえせず、戦闘態勢ではない。万里も万里で、至の言葉を逃すまいと聞き入っているようだった。
「先輩の、普段とのギャップがヤバい。優しいっていうか、甘ったるいっていうか。目がもう駄目」
「会社での噂、どーなんすか。目的はそれなんだろ?」
「一応、俺に付き合ってるヤツがいるってのは広まったっぽい。隣のデスクのヤツに、デートはいつもどこ行くのかって訊いてさ。彼女と行くのかって言われたから、わざと濁して、そこにいた女の子からの好意無碍にして」
さらに、念には念を入れて明日千景と一緒に出掛けることになっている。
そう付け加えたら、デートだなと言われて、恥ずかしさに至は両膝を抱えた。
「で、デートっていうか、一緒に出掛けるだけで」
「デートじゃん。どこ行くんすか」
「……映画。先月公開されたヤツ、アクションの」
「あ~アレな」
「お前も行ってくれば? 紬誘ってみたらいいじゃん」
「つっ……! む……!」
慌てて言葉に詰まる万里に、「ぎ?」と続けてやる。万里はがっくりと項垂れて、気づかれたことが最大の不覚と唸った。
「つーか、無理に決まってんだろ。自覚はしてっけど、全然、言うつもりねえんだよ」
「……やっぱり、難しいか」
「アンタは演技でも千景さんと付き合うって芝居始めちまったから、簡単なように思うんすよ。普通に考えたら、気色悪いっしょ。ヤローに告られたりしたら」
「……ごめん」
至の場合は芝居の恋だが、本気の恋をしている万里には難しい問題だ。素直に謝れば、いいけど、と万里が息を吐く。
「紬の、どんなとこが好き? カフェ巡りっていう共通の趣味あったから?」
「あー、でも俺と紬さん微妙に好みが合わないんすよね。向こうは雰囲気重視だし、俺は味重視だし。だから余計に新鮮だったのかも。俺にはない視点を持ってる人っつーか」
「それは劇団の全員に言えることじゃん? それでも万里の目には、紬だけ輝いて見えたってことかな」
「恥ずかしいこと言ってんじゃねー。でも、細かい仕草上手いじゃん、あの人。そういうの盗もうとしてずっと目で追ってたら、なんか一回すっごい照れくさそうな笑顔見せてくれたことあって、たぶん、落ちたのそん時」
言いながら、万里はどんどん優しい顔になっていく。自分の中の想いを、こんなふうに打ち明けたことはなかったのかもしれない。目蓋の裏には件の青年が浮かんでいるはずで、恋する男そのものだ。
「打ち明けるつもりはなくてもさ、映画誘うくらいだったらいいんじゃない? 観劇なら紬だってよく行くだろうけど、スクリーンの方はないかもだし」
「あー……そっか。カフェの前とか後とか、そういうのでもいいのか……」
「あ、でも明日は駄目な。うっかりお前らと鉢合わせでもしてそこ目撃されたら、計画が水の泡だわ」
「大変っすね、言い寄ってくるオンナ減らしたいってだけなら、普通に彼女いるって触れ回るだけでもいい気がすんだけど」
万里の言うことはもっともだ。千景も「既婚者ってことにしておけば」と言っていたように、嘘でも特定の相手がいると認識させるだけでも良かったのではないだろうか。
「それは俺も思ったんだけどさ。でも……ただの彼女だとそのうち別れるかもって思われたら駄目だし。いきなり結婚してるわけにもいかないし。家族手当とかほら、いろいろあるだろ」
「ああ、だからそもそもオンナは趣味じゃないってアピールしたってこと?」
「つーか、世界でたった一人の相手を見つけちゃった、みたいな。性別関係なく惚れた人って感じにしたいんだけど。今イチ、どこまで表現したらいいのか分からなくてさ。みんなも言ってたけど、あんまり急激に接近したら、わざとらしいだろ。毎日一緒にいる相手なんだし、もうちょっと穏やかに、ゆっくり、恋に落ちたい」
映画みたいな恋物語もいいけれど、ゆっくり、じわじわと体を浸食していくような恋でもいい。傍にいることが自然で、いないと落ち着かなくて、さみしい。それを素直に言うことができて、受け止めてくれる相手がいる。そんな環境での穏やかな恋でも構わない。
万里にそう説明すると、驚いたように目をぱちぱちと瞬いた。
「なんだよ」
「いや、あんま想像つかねーっていうか……至さん、もっと相手に求めるタイプかと思った。部屋こんなだし、掃除してくれる人とか。徹夜してもグチグチ言わないとか、ゲームの邪魔しないとか」
「クズかよ。いやクズだわ。実際そんなオンナいねーだろって思ってるから、避けたいわけよ。あと、先輩グチグチ言いながらも掃除手伝ってくれるし。徹夜するなって、あの人にだけは言われたくないし。邪魔されたくない時に何も言わなくてもすっといなくなってんの、すごいと思わない?」
千景は、同性だということを除けば理想的な相手だと思う。意地悪なところも多分にあるけれど、戯れにすぎない。こちらを傷つけようとして、悪意に満ちた嘘はつかれたことがない。
同性相手に恋ができる指向ならば、充分許容範囲だ。
「でもな……」
「あ?」
「……いや、なんでもない。というわけで、お前の恋心ってヤツは参考にさせてもらうわ」
「勝手に人の純情使うなっての」
軽く蹴りを入れられて、入れ返して、だけどそれが互いの喝の入れ方だと知っている。万里は本気の恋を、至は芝居の恋を、それぞれ大切にしていかなければならない。
芝居の恋で誰かを傷つけるかもしれないという後ろめたさが、少しだけ小さくなった。

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