そして103回目の恋をする

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「茅ヶ崎!」
聞き慣れた声で呼ばれて、至は目を瞠って振り向いた。
そこには、雨に濡れた卯木千景の姿。
「え……は!? な、なんっ……今、せんぱ、大阪、泊まっ……なんで!?」
「なんではこっちの台詞だ! なんだあの電話!」
千景は雨の雫を拭うこともせず、至のヘッドホンを取り上げる。ガコ、と床に落ちた音が耳に届く。つまりこの卯木千景は、至が生み出した幻覚でなく、正真正銘、本物、実物だということだ。
「なんで……だって、あの時、まだ向こうに、いたんじゃ……帰ってくるの明日だって言ったじゃないですか」
千景に電話で幕引きを告げたのは十時過ぎ。大阪から東京へ向かう新幹線はもう終電を向かえていたはずで、泊まってくるだろうと思ったのに。なぜその千景が今、ここに、目の前に、いるのだろう。知らないうちに日本が横に縮んだのか、それとも彼の組織では猫型ロボットでも開発されたのか。
「……ホテルにいるとは言ってない。お前のこと、驚かせようと思ったのに」
その言葉に、先ほどしまい込んだハコからあの時の会話を引っ張り出してくる。確かに千景は、今ホテルですかと問いかけた至に回答をくれていない。つまりあの電話の時点で、千景は新幹線の中だったようだ。早く帰って、驚かせようと思ったらしい。
「それなのに、お前があんなこと言うから、また何かあったのかと……焦った……電話にくらい出ろ、馬鹿!」
「ひ、密まで巻き込んで……何かって、そっちの、危ないこととか、ですよね。先輩に近すぎると、そういう心配もしなきゃならないんですよ、だ、だからもう、やめましょって」
「あんなこと言い出した原因がそれなら、認めない。ちゃんと守るって言っただろ!」
「俺を守ってる暇があったら、そういうのはちゃんと本気で好きな人に言ったらどうですか! 俺に重ねてた人いるでしょ!?」
「だから言ってるんだろ! 俺はとっくにお前に恋してる!」
「はァ!? そんなわけな……っ……………………え」
勢いで否定しようとして、息が止まった。
千景の言った言葉が、にわかには信じられない。
とっくに、お前に、恋してる。
ゆっくりと反芻して、目を見開いた。
「う、そ……」
「俺は途中から、演技なんかしてなかった」
よろりと体がよろめく。そんなに都合のいい話は信用できないと小さく首を振るのに、千景は追い打ちをかけてきた。演技をしていなかったということは、ハコの中に詰め込んでしまったうちの何割かは、本当の卯木千景だったというのか。
「伝わってないんだろうなというのは分かってたけどね……持ちかけたのは俺だから、言い出しづらくて」
気まずそうに視線を逸らす彼は珍しくて、逆に現実味を帯びてくる。至は瞬きをするのも惜しく感じて、じっと千景を見つめた。
「だから本気になる前にやめたいというなら手遅れだ。その……そんなことを言い出したってことは、少しは期待をしてもいいのか? 本気になりそうだってことだよね、茅ヶ崎も」
「……違います……」
「……違うのに、手を握ってくれてるのはどうして?」
「なりそう、じゃないので……」
至は千景の濡れた手と自身の手を重ねて絡め、足を踏み出して距離を縮める。ぽす、と千景の肩に頭を乗せて、冷えただろう千景の体に温度を移した。
「俺もとっくに、本気であなたに恋してた」
呟いた声は、届いただろうか。ちゃんと伝わっただろうか。人生で初めての、本当の恋の告白。
ドキドキして、受け入れてもらえると分かっていても怖くて、そわそわとむずむずが止まらない。
「言っとくけど、俺の方が先だからね」
言って、千景が背中に腕を回してくれる。どうやらちゃんと伝わったらしいのだが、その言葉が引っかかる。
「は? どう考えても俺の方が先です。気づいたの今日……違うわ、昨日だけど」
「恋してても気づかなければ意味がないだろ。俺の勝ちで決まりだな」
「弊社は遡及請求できるので問題ありませ~ん」
抱きしめ合いながらマウントを取り合う、負けず嫌いの大人が二人。
少し方向転換するだけで、こんなにも簡単に重なり合う想いがあったなんて、恋はとかく難解だ。
「ごめん、濡れる」
伝わっていなかった想いに替えて強く抱き合う腕を緩め、千景が体を離す。別に構わなかったのに、と寂しく思ったのが瞬時に伝わってしまったのか、千景がぱちぱちと目を瞬いた。
「そんな顔するのは、ずるいな」
そっと手が伸びてくる。頬にたどり着いた手のひらにすり寄って、目を閉じた。千景の濡れた髪先が触れる。吐息の感触と、雨の匂い。冷えた唇が触れてきて、温めたいとついばんだ。
ちゅ、ちゅっと音を立てながら触れては吸って、舌先でつつき合う。思えばこれが初めての、恋人同士としてのキスだ。
恥ずかしくなって、嬉しくなって、至は千景に体を押しつけて首に両腕を回して強く抱き寄せる。食うのか、というほどの貪欲さで千景の唇を味わうけれど、千景からも同じような扱いを受けて笑いがこみ上げてきた。
なぜ、こんなことになるまで気づかなかったのだろう。
千景は全身で想いを示してくれていたのに。自分がこんなにも恋心に鈍感だったなんて驚きだ、と千景の舌を軽く噛む。仕返しみたいに額をぶつけられて、小さく声を上げた。
「ずっと気づかずに俺を煽り続けた罰だな」
「うぐぅ……すみません……」
鈍感、と千景にまで言われてしまって、返す言葉もない。自分の気持ちに気づいてから半日ほどしか経っていない。その間千景は、自覚済みの恋心と戦っていたのだと思うと、申し訳なくていたたまれない。

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