そして103回目の恋をする

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一〇三号室の前まで来て、何度も何度も深呼吸を繰り返す。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫。なかったことにするつもりはないけど、向こうの出方次第。お互い謝るようなことでもないし、いつも通りにしてればいい)
意を決してドアをノックし、返事を待つことなく開けた。
「おかえり。俺の悪口大会は終わったの?」
ソファの上で、千景は端末を開いていた。いつも忙しく動いている指先は止まっていて、違和感を覚える。
「わあ怖、悪口言ってたって、なんで分かるんですかー」
「言ってたのか」
「誘導尋問おつ。……言ってませんよ、別に。先輩が色っぽかったって話も、あんな顔するんだってことも、なーんにも話してませんから」
至はなんでもないように隣に腰をかけ、ちらりと千景の愛機のモニターを盗み見た。検索画面、入力は何もされていなくて、開いているだけ無駄な物になっていた。
「お前があの状態で俺の顔見ていられたとは思わないけどね」
「ぐ……仕方ないでしょ、初めてだったんですから」
「ところでこのプリンもらっていいか?」
「へ? 先輩がプリン?」
まさか千景が自ら甘い物を、と鳩が豆鉄砲をくらったように目を丸くしたけれど、ハッとした。それは至が冷蔵庫から失敬してきたものではない。お昼ご飯にと差し入れられていたものだ。今の今も体には何の変化もないし、食欲がないのは精神的なものだ。あのコンビニサンドイッチに何か入れられていたとは思えない。
それでも千景は、調べないと気が済まないようだ。
「構いませんよ。俺は十座にもらった方食べるんで。……ふふっ、可愛いですよね。これ大事なデザートだったんだろうに」
「そうだな。あんまりみんなに心配かけるなよ」
ふ、と笑って、千景は袋にプリンを入れて至のスペースから遠ざけた。たぶんいちばん心配してくれているのは千景に違いなくて、胸がトントン高鳴った。
「あの、先輩」
「うん?」
「なんでキスしたんですか」
「そっくりそのまま返すよ」
どれだけか予想していたのか、即返事をされて至は視線を逸らした。千景が一方的にキスをしたのは二度目だ。拒まなかった責任は至にもあるし、そもそも最初のキスはお互いが引かれあった結果。千景が「なぜキスしたのか」と問いたい気持ちも、よく分かった。
「……恋人に、なれてないなって。それだけですよ」
「ああ、確かに俺たちは、恋人としてはまだ合格点に至ってないんだろうな。差し入れなんかしてくるヤツがいるくらいだしね」
「でも、先輩をかっこいいなって言ったのは本当ですよ」
「俺も、お前に可愛いって言ったよね? どうしてなんて、訊かれるのは心外だ」
至は思わず目を見開いて振り向いた。あの時のあれは、千景としての本音だったのかと。境界線が、余計に曖昧になっていく。
役だったのか、自分たち自身だったのか。
「で、でも俺は先輩を好きになったわけじゃなくて」
「……こっちだってそうだ。ただ、もう少し距離を縮めたいと思っただけで」
顔の熱が上がる。それは恋と呼ぶべきものではないのだろうか。いや、たとえそうでも応えられないのだから、恋でない方がありがたいのかと、ぐるぐる思考がかき混ぜられる。
「もう少し、恋人みたいに」
「ああ」
「……映画、また行きたいです」
「そうだな、行こうか」
戸惑って、ためらいつつも千景の腕に寄りかかってみる。押し戻されることはなくて、ドキンドキンと高鳴る心音だけが耳に届いた。
「今……肩を抱きたいって自然に思えた。これも、キスの効果なのかな」
「そうかもしれませんね。抱いたっていいんですよ?」
「茅ヶ崎お前、大胆なこと言うよね……」
ちらりと見上げてやったら、千景はわずかに目を見開いて眉を寄せた。至は今の言葉を深読みされたことに気がついてボッと顔を赤らめた。
「ちっ、ちがっ……そういう意味じゃ!」
「さすがに、抱くわけにはいかないだろ。今ちょっとドキッとしたのは本当だけど」
ぽんぽんとなだめるように髪をなでられて、悔しい気持ちがわき上がる。千景にしてみたら、未経験の男なんて面倒くさいことこの上ないのだろう。
「ねえ、だけど……キスをしてもいい?」
「駄目です」
だから、髪をなでてそのまま頬のラインをなぞってきた千景に、即答してやった。千景は面白くなさそうに顔を歪めて、眉を寄せる。それが見たかったのだと満足げに笑った。
「一度しちゃったら二度も三度も変わらないだろ……演技の仕方も変わるかもしれないのに……」
不機嫌になりつつあった千景の両頬をそっと包んで固定し、至の方から唇を重ねる。押しつけるだけのキスだけれども、上手くできただろうか。うるさい心音を訊かれないうちに、至はぱっと体を離した。
「俺からは一度もしてないので、駄目です」
これで、お互いの責任と、しかけた回数が半分ずつになる。
一度目はお互いの責任、二度目は千景からしかけられ、至は拒めなかった。三度目のキスは至からしかけ、千景には拒ませる隙も与えなかった。
ふ、と千景が笑ったのをきっかけに、近づいていくお互いの唇。触れて、離れて、なでては触れて、どちらからともなく深いものに変えていった。
まるで恋人同士の触れ合いのように、指を絡めて。

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