そして103回目の恋をする

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「……ねえ先輩、しんどくないですか? 女性をそういう対象にできないってことで、やっぱいろいろ言われるでしょ」
「俺を心配してくれてるの? 優しいな、茅ヶ崎は」
「ちょっと、茶化さないでください。俺は本気で」
本気で千景の心の疲弊を心配しているのに。本来女性が恋愛対象である自分でさえ、誹りを受けてつらいのに、千景はそれを嘘にしてしまえない。
「大丈夫だよ。他人にどう言われようと、俺の中の真実は揺るがない」
ドキ、と胸が鳴る。至が思っているより千景は強い人間で、至が感じているよりずっと深い情を持っている人間らしい。
「お前が傍にいてくれたら大丈夫だから」
優しい顔が振り向いてくる。温もりを感じる表情なのにぞくりと背筋が震えたのは、相手のためならいつでも消えてしまいそうな儚さを秘めていたからだ。
傍にいてくれたら――そう望むのならば、傍にいてほしい。
黄信号で前の車がスピードを上げる。だけど千景はゆっくりと停止させる。それと同時に信号は赤へと変わり、至の体が揺らいだ。
伸ばした指先は、触れることを止めるためではない。触れるために伸びて、そっと握りしめられた。
運転席と助手席のコンソール上、互いの指が絡み合う。
この程度の触れ合いでは足りないと訴えかける視線が、同じ距離を走ってぶつかり合った。そうしてお互いが身を傾けた分だけシートベルトが伸びる。しゅ、と立てられた小さな音がふたつ、耳に届いた。
お互いの真ん中で重なる唇は、お互いの責任で、恋人同士の触れ合いにカウントされた。
押しつけ合うだけの、ともすれば幼く感じる口づけは信号の変化によって終わりを告げて、千景は何も言わずに運転席に体を戻してアクセルを踏み込む。至も何も言わずに助手席に身を沈め、窓の外を流れる景色を眺めた。
そこからは一切の会話もなく、車は静かに寮へと向かっていく。
「ねえ」
だが、寮の手前で千景が唐突に口を開く。
あれから千景の方を一切見ようとしなかった至に向けて、何か文句でもあるのかと思ったが、
「そういえば茅ヶ崎、キスも初めてだったんだよね」
「うっるさいですよ! 忘れかけてたのに蒸し返さないでください!」
指摘された事実が恥ずかしくて情けなくて、思わず振り向いてしまう。千景の顔を見たくなかったのに、視界に映してしまった。
至は女性にモテるものの、交際はしたことがない。そんなことよりゲームがしたかった青春時代。それは今も続いているのだ。
それがここにきて、まさか初めてのキスをするなんて。しかも男と、さらに言えば演技の延長で。情けなくて恥ずかしくて、悔しくて、悲しい。
「やめればよかった。悪い、俺が初めてで」
「だから忘れてくださいって言ってんでしょ、あれは茅ヶ崎至であって茅ヶ崎至じゃないんです!」
声を荒らげる至に、危ないなと判断したのか、千景は路肩に車を停める。哀れまれるのがいちばん情けない、と至は膝の上でぎゅっと拳を握りしめて、きつく目を閉じた。
(あれは演技、演技、演技。俺としたわけじゃない……先輩は、俺とは)
「うーん……でも白状すると、俺はあんまり演技してなかったけど」
「……はっ? なんて?」
至がファーストキスだったことなどまるでなんでもないような口調で、千景が返してくる。至はバッと顔を上げ、千景を振り向いた。
「さっき茅ヶ崎を可愛いって言ったのは嘘じゃないし、毎日のランチが楽しいのも本当だよ。あのうさぎにどんどん貯まっていくお釣り、いつ使えるのかそわそわしてる」
「えっ、いや、だっ……て、そ、そんなわけ、な、い、でしょ……かわいい、とか」
「なんで。本当だよ。キスしたのは、恋人としての距離を測るものだったかもしれないけど、思ったより柔らかいなあとか、温かいなあって、そんなこと思ってた」
すっと、千景の指先が頬に伸びてくる。びく、と体が強張ったけれど、まっすぐに見つめてくる千景の視線から、逃れることができない。
「恋をしたら、こんなふうに感じるのかって……今、思ってるよ、茅ヶ崎」
境界線が分からない。演技と、素のままの自分たち。どこまでが演技で、どこまでが素なのか。
ゆっくりと千景の体が近づいてくるのを止められない。それどころか、待ってしまった。押し戻そうと手を伸ばしたと思ったのに、その手は胸を通り過ぎて襟をなぞり、千景の首を引き寄せる。
やがて、お互いの境界線が分からなくなった。
さっきより長く触れる唇。なでるように押しつけられて、ちゅっと音を立てて吸われる。その音が恥ずかしくて、それと同じくらい嬉しくて、至は同じように千景の上唇をなでて吸う。
シートと背中の間に入り込んだ千景の腕に抱かれ、ドキンドキンと高鳴り続ける心音は恐らく伝わってしまっているはずだ。だけど離れてしまえない――千景に触れていたい。もっと触れてもらいたい。
「開けて……くち」
小さな囁きもハッキリ聞こえる距離で、至は吐息と同じタイミングで口を開ける。するりと入り込んできた舌にぞくぞくと背筋を震わせた。それが伝わったのか、千景の手はなだめるようにも、逆に煽るようにも至の頬や顎のラインをなでてくる。
「はあっ……先輩、っん、う……」
舌を絡められ、ちゅ、ちゅっ……と繰り返し吸われ、喉をなでられて、その心地よさにうっとりしかけた頃、すぐ傍を車が走り去っていく。ヘッドライトの光が眩しくて、お互いがハッと体を強張らせた。
至は今度こそ千景の体を押しやって、千景もそれに合わせるように体を離した。
「悪い、止まらなくなるところだった」
「は、はは……先輩のキスやばい……これは落ちる」
「ふ、俺と落ちるなら地獄行きだな」
「いや無理。俺は天国行くのでよろしくお願いします」
濡れた唇を拭って、あと少しで寮だというこんな場所で何をしでかしているのだと、後ろめたさMAXになり、振り切って、いっそ冷静になった。
「キスまでしちゃったら、ホントもう恋人みたいですね。これで周りも騙せますかね」
「そう願いたいね。ああ、ほら東さんも言ってただろう。体の関係がどこまでいってるかによって触れ方も違うって。明日からもう少し……恋人らしく触れられるかな」
「あ、なーる。確かに役に入ろうと思った瞬間先輩に触れたくなりました、今」
触れたい。触れていたい。
触れてしまったことで、後ろめたさもためらいも減ってしまったような気がする。
経験として知った今、演技に生かせるかなと思うあたり、自分もずいぶん芝居馬鹿になったものだと苦笑した。
「さて、帰ろうか。お腹空いたね」
「ねえ俺もビーフストロガノフ……」
「胃がどうなっても知らないぞ」
「臣の料理は何にも勝る特効薬なんで」
「物は言い様。分かる気はするけどね」
ハハハッと千景が笑う。至はいつもの千景だとどこかで安堵して、自分に向かってくる好意には少し気をつけていようと新たなミッションを自分に課した。

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