そして103回目の恋をする

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詫びの気持ちも込めてぎゅっと千景を抱きしめてみれば、ふっと笑う空気が頭の上に降ってきた。
「お前を抱いた時、気づいてくれたのかと思ったんだけどね。どうやら伝え方が足りなかったようだ」
「ひえっ……あ、の、待っ……」
千景とは一度、肌を合わせている。あれだって雰囲気に流されただけだと思っていたのに、千景の方は違ったようだ。あんなことをできてしまったのだから、至も相当千景を好いていたはずなのに、気づこうとしなかったのは至の落ち度かもしれない。
だが、
「待って、ちょっと、手! 腰っ……」
「ん、なに」
「なに、じゃなくて、手……退けてください、駄目ですってば」
つつつと腰をなでる千景の手。片方の手のひらは尻を包み始めたりしていて、慌てる。ジャケットの裾から忍び込みかける手を押さえて、千景に訴えた。
「嫌なの……?」
「や、嫌とかじゃなくて、嫌ですけど、こ、ここじゃ絶対に嫌です。声とか音とか、聞こえるでしょ、周りに……っ」
千景と想いが通じ合った今、もっと深く確かめ合うのに異存はない。だが、しかし、ここでは絶対にしたくない。千景の手を押さえたまま俯くと、ああ、と納得したような声が降ってきた。
「音立てないようにはどうにかできるけど、声はね……」
「そうでしょ。だからこの手を退けてください。……退けてくださいっつってんでしょ、ちょっと待っ、中入れないで!」
楽しそうな顔をして、ジャケットをめくり上げてきた千景を強く押しやって、物理的な距離を取った。千景が本気ならば離してくれることもなかっただろうに、遊んでいるのかと睨みつけてやる。
「嫌いになりますからね、ここでしたら」
「それは嫌だな。せっかく両想いになったばかりなのに」
千景は両方の手のひらを向けてみせ、降参のポーズを取ってきた。
こちらだって嫌いになんかなりたくない。なれやしない。
至はその距離を保ったまま、自身の腹をなで上げるのと同時にスウェットを指先で引き上げて素肌をさらしてみせる。
「今日の、作戦でなくなった作戦が無事に終われば、好きにしていいですよ。それまで、頑張って我慢してくださいね」
ぺろりと唇を舐めて、千景をわざと煽って、こっちだって我慢するのだからという秘密を覆い隠した。
「じゃあ俺寝るんで」
「茅ヶ崎、待って。まだ聞いてないよ」
はしごを登ろうとかけた手を取られ、いつの間にか距離が詰められていたことに目を見開く。
「え、何を」
「……ただいま、茅ヶ崎」
「あ……、……おかえりなさい、先輩」
「うん。仕事終わったら、楽しみにしてろよ」
顔に陰がかかる。止める暇も拒む暇もなく、唇が触れて、離れて、また触れた。
触れるだけのキスを三度繰り返して、名残惜しそうに千景の体が離れていく。
「お前も、頑張って我慢してろ」
ぺろりと唇を舐める千景には、覆い隠した秘密などお見通しだったようだ。至はボッと顔を赤らめて、力が抜けていきそうな腰を必死で踏ん張って、はしごにしがみついた。
「俺も早めに寝ようかな。シャワーしてからだな……」
雨に濡れた髪を掻き上げて、ため息交じりに呟く千景に、うっかり胸がときめく。それがどうにも後ろめたいと思ったら、踵を返しかけた千景が、笑顔で振り向いてきた。
「何か期待した? 可愛いな」
「なっ、し、してません! ちょっとときめいただけです! あっ……」
からかう腹づもりの千景に言い返したけれど、見事に墓穴を掘った感。だが千景もそれに面食らったようで、照れくさそうに顔を背けて、体を翻し直した。
「手に負えない……」
そう小さく呟きながら、部屋を出ていく。パタンとドアが閉まってから、それがスイッチだったかのように至はずるずるとはしごを支えに伝い、床にへたり込んだ。
「マジか……」
終わると思っていたものが、ここから続く。
恋心に気づいたばかりで、片想いを数時間経ただけでこんなにハッピーなリスタートが待っていたなんて、とても信じられない。
だけど触れた千景の感触は本物で、暖かくて、ここが寮でなければあのまま抱きしめていたかった。
「ううう、先輩可愛い、かっこいい、ずるい……しんじゃう……」
大切そうに触れてくれる仕草が、愛しそうに見つめてくる瞳が、茅ヶ崎と呼んでくる優しい声が、至の胸を何度も叩く。記憶をしまい込んだハコなどもうとうに壊れてしまっていて、何をどうをも収められない。
だけど、これからは堂々とときめいてしまっても問題ないのだと顔を覆って床に突っ伏しながら思う。
(こ、恋人になったんだ……本当の、本気の好きを言える関係に……!)
そうしてハッとした。まだ、ちゃんと好きだと告げていないことに。恋人ごっこをしていた時はあんなに何度も好きだと言ってきたのに、困惑と混乱を抑え込むのに必死で、大事なことを忘れてしまっていた。
至はゆっくりと体を起こし、視線を泳がせる。言いたい時にいない相手を理不尽に憎たらしく思い、その分いくらか冷静になれた。
ちゃんと言わなければという使命感よりも、言いたいという気持ちが勝る。体の中からトントン胸を叩いてくる恋心。気づいてしまえばこんなにも単純で、植え付けられた想いは急速に育っていく。
(ちゃんと、言お。今まで言った嘘の分、その倍以上、あの人に言いたい)
息を吸い込んで、吐いて、吸い込んで、吐く。今日はいろんな意味で決戦になるのだからと、ゲームもせずに眠ることにした。
思いがけない恋の成就に興奮して、ゆっくり寝られそうにはなかったけれど。

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