そして103回目の恋をする

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至はソファの背に頭を乗せて、天井を見上げる。顔を見ながらでは絶対に言えなかっただろうと思うと、トラブルを起こしてくれた関係先に感謝をしたい。
その時、部屋のドアがノックされる。思わず身を強張らせたが、顔を覗かせたのは万里だった。
「ったるさァん、ちょっと話が……て、どしたんすか」
「あー、いや、お前か。先輩かと思ったわ。んなわけねーっての」
まさかさっきの今で帰宅することはないだろう。猫型ロボットが出してくれる便利アイテムでもなければ、無理だ。
「千景さん、今日は泊まりなのか」
「あー、品質トラブルっぽかった。大阪だから、明日帰ってくるよ。何か用だった?」
「いや、あの、なんつーか、話っていうか、報告? しといた方がいいのかなって思って」
万里にしては珍しく歯切れが悪い様子に、至は首を傾げる。体をずらして、ソファを半分空けると、小さく礼を言って万里が腰を落とした。
「つ、」
「つ?」
「……紬さんと付き合うことになった」
「…………――はァ!?」
まさかの急展開である。彼らが想い合っているのは分かっていたが、お互いに告げ合っていないのも知っていて、もどかしかったのだ。至はぱちぱちと目を瞬いて、その報告を受け止めた。
膝の上で頬杖をついた万里の横顔は、照れくさそうで、幸福そうで、事実なのだと窺わせる。
「え、ま、待てお前、いつから、え、今日? 今日なの? 告ったのかよ」
「ん、今日……カフェ行ったらなんかその……至さんたちの話になって、そっから俺に好きな人いるっつー話に発展してってまぁ……俺が好きなの紬さんなんすよねって言ったらすっげえ驚かれた」
「あー……紬気づいてなかったんだな……。まあそれはお前も一緒か。紬の気持ち知らなかったんだろ?」
「こっちこそ死ぬほどびっくりしたわ。午後から講義あったのに、全然身が入らなかった」
文字通り頭を抱える青年が、微笑ましい。叶ってほしいと思っていた恋が、ちゃんと叶ったことが嬉しい。
今なら、恋をする気持ちも痛いほどに良く分かる。
「良かったな、万里」
「……あざっす。まーあんたらみたいに寮内でイチャつくとかはないし、一応秘密にしとこうって話にはなったから。報告だけな」
「俺らみたいにってなんだよ。俺らだってもうイチャつくとかねーし」
「……は?」
わずかに間を置いて、万里が怪訝そうな顔をして振り向いてくる。こちらとしてはそれほど驚かれることを言ったつもりはない。恋人のフリだということは最初から段の全員がしっていたはずだし、作戦は明日で終わる。
「待て待て、何言ってんだアンタ。付き合ってんだろーが」
「フリだって言ってただろ、ちゃんと。……お前の恋は叶ったけど、俺の方は告る前に幕引いたよ」
万里の目が見開かれる。困惑したその瞳から目を逸らした時、トトンとドアをノックする音。返事をすれば、ドアを開けたのは密だった。
「密? どうしたの、珍しい」
険しい顔をした眠り王は、至の顔を確認したと思ったら、耳に手を当てて低い声で呟いた。
「部屋にいる。どこも変わった様子はない。万里と楽しそうに話してる……」
「は?」
「外も見てきたけど、変なヤツはいなかった。見張り、いる? ……そう、じゃあオレは寝る。エイ……千景、マシュマロ忘れないで」
密はそれだけ言って、耳に当てていた物を外す。親指ほどのサイズの、インカムに見える。どうもあれで通話をしていたようなのだ。相手は――千景。
「至、よく分からないけど千景が心配してた。何かあった?」
「え、あ、あー……うん、あの、大丈夫。ごめんね密、巻き込んで。明日お詫びにマシュマロ買ってくるわ」
「……嬉しい。おやすみ」
密は、険しかった顔つきをいつもの眠そうなものに変えて部屋を出ていく。至は頭を抱えた。まさか千景が密に連絡を取って安否を確認させるほど、心配させたとは。
「至さん、あのさ……」
「あ、あの人心配性なんだよ。ちょっと職場で変なのに狙われたこともあって、それで」
「そこじゃなくて、なんで別れたんすか」
「別れたっていうか、もともと付き合ってないし。ラブラブな恋人のフリしてたから周りはちゃんと誤解してくれたし、だからあの人も」
「俺にはとてもフリには思えなかったんすよ。だってあんなにその……簡単に、演技ってだけで、お互い大事そうに触れられるもんじゃねーだろ。本気なんだって思ったんだぜ」
はたり、と布が落ちるような感覚にとらわれる。数秒の沈黙を、万里はどう捉えただろうか。至は抱えた膝に顔を埋めて、小さく首を振った。
「そんなわけない。だってあの人は最初からああだった。好きな人がちゃんといたんだ。その人に向けて、その人としたかったことしてただけだと思う」
この気持ちに気づくまでは、それで平気だったのに、気づいてしまった瞬間から苦しくてさみしくて仕方がない。千景の恋が叶ってほしいと思う反面、自分に重ねないでほしい気持ちと、欠片だけでもその想いをこちらに向けてほしいわがままが、体の中でごちゃ混ぜになる。
「……キスとかも? したっつってたよな」
「そうだろ。俺は先輩とキスしたけど、あの人がキスをしたのは俺じゃない」
「わけ分かんね」
万里は納得がいかないようで、眉間にしわを寄せる。
「お前が悩むことじゃないだろ。明日帰ってきたらちゃんと話し合う予定ではあるけど、恋人ごっこはもう終わり。ハイハイ、解散~」
これ以上のお節介はごめんだと、至はソファから立ち上がる。パソコンチェアの方に移動して、ヘッドホンを持ち上げた。
「千景さんのこと忘れるつもりかよ?」
一方的な遮りに、万里は責めるように追って肩をつかんでくる。だけど、振り向かせようとしたその手は途中で離れていった。
た、とデスクに落ちた雫のせいで。
「……至さん……」
「悪い、万里、一人にしてくれ。まだ俺自身、気持ちの整理ができてない……」
気づいたばかりの恋心。しまい込まなければいけない恋心。たぶんずっと胸に抱いていく恋心。どれからどう処理していけばいいのか分からない。明日には千景の顔を見なければいけないから、時間もそう残されていないのだ。
俯いたままの至の肩を、万里がそっと抱いてくる。
「……一人でしんどくなったら、いつでもくっから。呼んで。肩とか胸とか背中とか、貸すし」
「……ん、サンキュ」
「あのさ、余計なことかもしれねーけど、千景さんは絶対に……いや、ワリ、いいわ。本人とちゃんと話せよ」
至の気持ちを汲んでか、万里はそのまま部屋を出ていってくれる。彼の部屋は隣だ、呼べば本当にすぐに来てくれるだろう。至は呆れるようにも息を吐いた。自分より先に恋というものを体感として知っていたのに、あの男は何を言っているのだと。
万里の肩も胸も背中も、今は紬のものだ。仲間として思ってくれるのはありがたいけれど、余計なヤキモチを生ませてしまうだろう。
だからこれは、一人で処理しなければ。
至はヘッドホンを装着する。何も耳に入れたくない。奥に残るこの声を、逃したくない。
千景の優しい声。千景の吐息。
抱え込むように両手でヘッドホンを握りしめ、何度も何度も反芻した。
『好きだよ、茅ヶ崎』
ぽた、ぽた、と雫が滑り落ちていく。
「……き、です、先輩……好き、……大好き、です……」
そう呟くのが精一杯で、流れてくる雫を拭えない。今日を越えて明日になったら、言えない言葉。千景にしか言えない言葉だったのに、もう言えない言葉だ。
楽しかった。二人で出掛けた映画館、ショッピング、ドライブ。ドキドキした。つないだ手、向けられる視線、向けてみせた笑い顔。寂しかった。重ねられる誰か、呟くウソ、抱きしめ合った腕。
思い起こせば、そこかしこに彼に向かっていく想いがちりばめられている。今から一所懸命拾い集めても、渡せない。
だけど初めての恋を忘れてしまえなくて、せめて記憶を拾い集めて、心の中のハコにしまっておこうと、あの日共犯者になってからのことをひとつひとつ思い出した。
順序も場所もバラバラでいい。全部拾い集めよう。
一か月足らずの出来事なんて、そんなに時間はかからない――そう思っていたのに、考えているよりもずっと千景と過ごした時間がたくさんあって、しまい込むハコの大きさを何度も変えた。
「……多過ぎ……」
ぎゅうぎゅうに詰め込んで、また思い出して、詰め込めなくて一度全部取り出して、最初から思い出しては詰め直す。そんなことの繰り返しだ。
こんな舞台始めなければ良かったとは思うけれど、そうしなければきっと千景への気持ちに気づかないままだっただろう。千景を好きになって良かったとは思えるけれど、千景を好きにならなければ良かったなんて思えない。初めての恋が、初めてのキスが、初めてのセックスが、彼で良かった。
「……せめて、あの人が幸せでいてくれますように」
自分の恋が叶わなくても、彼の恋も叶わなくても、幸せでいてくれたらいい。そしてできれば、視界に映る範囲でそれを眺めていたい。静かに、そっと、見つめるだけの恋があってもおかしくないよねと、自分で自分を慰めて、チェアに踵を乗せて両膝を抱え込んだ。
「すきですよー……せん、ぱいー……」
くるりと向きを変えて窓の方を見やれば、外はまだ雨模様。土砂降りとまではいかずとも、窓を叩く粒が見えた。
もう日付が変わる。無事にバレンタイン・デーだ。決戦は金曜日。これまでの努力の成果が試される日である。早めに出勤した方がいいだろうか、と目を閉じる。しかし終業時刻ギリギリの方が、女性陣からの接触は減るかもしれない。だがそうなると、勝手にデスクに置かれる分をどうにもできない。それくらいはお返し対応するかな……と、くる、くる、と椅子を回しながら考える。
休憩中に渡そうとしてくる女性たちには、丁重にお断りをしよう。好きな人がいるからと。
嘘が真実になってしまったなどと間が抜けた話だが、仕方がない。
そんなふうにいろいろと策を練っていたら、日付を越えてもう三十分。軽く2時間ほどゲームで気分転換でもして寝ようかと、ようやくヘッドホンを本来の目的で使おうとしたその時。
バシャバシャと水の跳ねる音。遮蔽物があっても、音は聞こえる。大音量で音声でも聞いていれば話は別だろうが、至は今この瞬間まで、そういう目的では使っていなかったのだ。
誰か傘を忘れた馬鹿でもいたのだろうかと思いつつ、乾いた笑いを漏らしてパソコンモニターに向き直った。
その、背後で、勢いよくドアが開く。

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