そして103回目の恋をする

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何度も変換ミスをしたりメールの宛先を間違えそうになったりした午前が終わる。その頃にはすっかり疲れ果てて、ぐったりとデスクに突っ伏した。
それでもやっとランチだと体を起こせば、ちょうど迎えに来てくれた千景と数メートルを隔てて視線が重なる。至は瞬時にこの後のことをシミュレートして、千景にこの近くは×とハンドサインで示してみせる。あまり知られたくないゆえの対策だったが、彼に伝わるかどうか。
千景は一つだけ瞬いてポケットから車のキーを取り出してくれた。さすが、と思いつつデスクの引き出しを開け、鞄に封筒を突っ込んで席を立った。
「お疲れ。もしかして、午後外回りなのか」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……ちょっとまずいことになってて」
相談したいんですけどいいですかと小声で告げれば、千景は目を細めた。昨日の今日だからか、明確に伝わったらしい。
「なるほど、それで車ね。テイクアウトできるところ行こう」
「はい」
千景の足が速くなって、至も合わせる。千景と合流できて安堵はしたが、抱えたブツが爆弾すぎる。至は鞄を抱え込む腕の力を強くした。
二人で車に乗り込んで、テイクアウトできる店をチョイスし、あまり人目につきそうにない駐車場でランチを楽しんだ。もっとも、至には楽しむという余裕はなかったけれど。
「で、どうした。その鞄の中、何が入ってるんだ?」
「さすが先輩、めざとい」
「そんなに大事そうに抱えてたら、誰でも分かる」
苦笑して、至は鞄を開けた。ステープラーで封をした封筒はちゃんと入っていて、やはり安堵した。人に見られたいものではない。
「朝出勤したら、デスクにこれが置いてあって」
至から封筒を受け取った千景が、ドリンクホルダーにカップを置きながら封を開け、凶悪に目を細めた。
「……昨日のだな。こっちは三日前。これは一昨日……」
「まずいですよねこれ。っていうか、目的が全然分からなくて」
「十中八九、茅ヶ崎目当ての女……いや……違うな、男か」
「は?」
封筒の中をすべてあらためた千景が、低い声でそう呟く。至は唐突な犯人像に顔を引きつらせた。
「いや男って。なんでそんなの分かるんですか」
「筆跡が男だろ。まあ女性でもおかしくないけど。それにこれ……あんまり見せたくないけど」
封筒の中から、千景が一枚の紙切れを見せてくる。そこに書かれていたのは、乱暴な字。
『淫売。僕以外に色目を使うな』
ぞわ、と悪寒が走り抜ける。それは行き過ぎた好意で、もはや悪意にしかなっていない。千景が犯人を男だという理由は分かったが、分かりたくなかった気もする。
「な、にこれ……」
「心当たり、ある?」
「は? な、ないですよ! 先輩に色目とかっ……」
「そっちじゃなくて、犯人。茅ヶ崎のことを自分のものだと思ってるような男」
勘違いにカッと頬が熱くなる。だけど、そんな男なんて心当たりもない。女性からの視線には慣れていたし、分かるけれど、男からのものなんてなかった気がする。そもそも、最初から除外していた。
「平気? ……じゃないよな」
男からの妄執的な視線など、気づきたくもなかったと、カタカタ体が震える。そんな至の髪をなでてくるのは、千景の優しい手。
「俺には色目、使っていいんだぞ。何しろ恋人だしね」
「……ふは、ですよね」
千景はそのまま抱き寄せてくれる。優しい恋人のフリをしてくれる彼に、至も何も考えずに身を預ける。そうだ、今至が色目を使っていいのは恋人である千景にだけだ。名前も顔も分からないストーカーなんかにではない。
「なんか、俺……そういう誤解、されやすいんですかね……女の子ならまだしも、男はないわ……」
「男の俺に抱かれながら言う台詞じゃないな」
「先輩は別……すっごい安心します。先輩が味方だと、本当に心強いですよね……」
「それは光栄だね。まあお前に心当たりがないなら、俺が探っておくから。あんまり頭のいい男じゃないみたいだしね。封筒も手紙も自筆なんて」
まさか社内の男を筆跡から調べるつもりだろうか。いったい何人いると思っているのだろう。そう考えかけて、千景ならきっと得意分野でもあるのだろうと腕の中で目を閉じる。伝わってくる温もりに安堵するのは、本音だった。
「デスク戻ったら、周りに訊いてみて。この封筒いつからあったか覚えてないか。俺たちの出勤前にあったってことは、置いた時間は絞られる」
「分かりました……」
「震え、止まったな」
「え、あ」
気がつけば、体の震えが止まっていた。千景の声と、体温と、匂いに、頭より先に体が安心してしまったらしい。背中をぽんぽんとなでられて、肩に頬をすり寄せてから顔を上げる。
お礼をかねての口づけだったけれど、多分に触れたい思いが混ざっていたのを、こっそり頭の隅に追いやった。
「……ふ、チーズ味」
「あ、チキンのフレーバー……」
くすくすと笑いながら、千景からもちょんと小さなキスをもらう。意識してみれば、ほんのりピリ辛の唇だった。
「午後、仕事できそう?」
「……大丈夫です。外回りないし、頑張りますよ」
「そう」
「なんで残念そうなんですか。俺が落ち込んでる方がいいんですか、このドS」
「もし無理だって言ったら、このまま連れ去ろうと思ってた。……なんていうのはどう?」
「駆け落ちみたいなこと言わないでください……ッ」
「ハハッ、その勢いがあれば大丈夫そうだな。戻ろうか。この写真、封筒ごと預かるけどいいか?」
千景がどこまで本気で言っているのか分からない。連れ去るのならばそれはもう巧妙な手口でやってのけるのだろうと、少し体験してみたい気もしたけれど。至は日々を平和にゲームに没頭したい男でエリートサラリーマンで舞台役者で、帰る場所がある。千景も一緒に帰る大切な場所がある。
どこの誰とも分からない男の妄執から逃げて過ごす暇などない。
「はい、お願いします」
千景に任せておけば、その日常が戻ってくるだろう。それは確信でしかない信頼で、ランチ前とは比べものにならない落ち着いた心で、会社へと戻った。

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