そして103回目の恋をする

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(まずい。まずいまずいまずい。これはいくらなんでもおかしい)
とてもまずいことになった。
駐車場から、なんでもないように隣を歩いていたけれど、至の頭の中は混乱を極めていた。なんだってこんなことになったのか。
千景とキスをしてしまった。しかも二回も。いや、一度してしまったら二度も三度も変わらないけれど、そのうち一度は深いもの。
キスも初めてなら、ディープキスなんてもっと初めてだ。
(気持ちよかったとか、どうしたらいいんだよこんなの……っ、いくら恋人同士のフリしてるからって、そこまでやる必要あった!?)
「あ、おかえりなさい至さん、千景さん。ご飯どうしますか?」
「ああ、いただくよ」
いつもより少し遅い時間に寮へ帰れば、いつものように団員たちが迎えてくれる。それにさえ後ろめたさを感じて、至は顔を引きつらせて答えた。
「あ、俺はいいや……ちょっと食欲なくて」
ひとつ瞬いた千景の視線が向かってくるのが分かる。さっきまで食べたいと言っていたはずなのにと。
(だっっっって無理だろ、この状況だと先輩と二人で食べるんじゃん! 顔合わせづらいわ!)
「えっ、大丈夫ですか? 何か食べやすいものでも。あ、ゼリーとか」
「至さん具合悪いんすか。……俺のプリン、えっと……よければ……」
「至、マシュマロ……あげる……」
「密くん、マシュマロでは栄養は取れないのだよ……」
談話室にいた面々が、次々に心配して声をかけてくれる。
しまった、仕事で疲れているとでも言えば良かったのにと、小さなミスに心の中で気落ちした。
十座は今日いくつ目かのデザートを名残惜しそうに差し出そうとしてくるし、密も主食を袋ごと差し出してくる。
「あ、や、大丈夫、ありがと……」
食欲はないけれど、何かを食べられないわけではない。気持ちの問題だ。
至はへとへとな心で、疲れ切った体を引きずるように部屋へと向かう。千景が何も言わなかったのはありがたかった。
部屋に向かう途中すれ違ったのは、紬と万里だった。二人でそろっているということは、何か進展があったのだろうかと思うも、訊ねるだけの気力がない。ともすればこちらが墓穴を掘ってしまうだろう。
「至さん今帰りかよ。おつ~」
「お疲れ様至くん。遅くまで大変だね」
「あ~……うん、疲れた……寝るわ」
顔を背ける寸前、万里が目を細めたのに気がついた。
「至さん、何かあったろ。千景さん絡みか?」
「うげ……」
なにゆえこの男はこんなに鋭いのだろう。今は正直放っておいてほしいのに。
「至くんがそういうふうに顔を背ける時って、仕事の疲れとかじゃないんだよね。一緒に帰ってきたんでしょ? さっき千景さんの声も聞こえたし」
紬も紬で、人の心を見透かすように攻め込んでくる。逃げ場がない。
至は二人から顔を背けたまま、くしゃくしゃと髪をかき混ぜた。
「至くん、よければ俺の部屋に来る? 今日丞が実家戻ってていないんだ。万里くんも……おいでよ」
「俺もっすか」
「至くんのこと心配そうに見てるから……何か用事あった?」
「いや、ねぇけど」
万里が気まずそうに舌を打つ。それに突っ込む気力さえ起こらない。二人に手を引かれるような形で、至は階段を上った。
「俺お茶でも入れてくるよ。あ、万里くん無理に訊いちゃ駄目だからね」
「わあってますって」
紬がそう言って万里と至を部屋に押し込めてくる。着替えもしないままだった至は、ジャケットだけ脱いで軽くたたんだ。
このジャケットに密着した千景の匂いが残っていやしないか、気が気ではない。そして、思い出してしまう。あの、おかしかった時間のことを。
「まあ、無理に聞くつもりはねーけど。すっげぇ顔してんぜあんた。他のヤツらの前でもそうだったわけじゃねーよな」
「わ、かんねえけど、どんな、顔、してんの、俺」
「や、戸惑ってるっていうか、悔しそうっていうか、何か怒ってんの?」
万里にそう言われ、膝を抱えて項垂れた。たぶんどれもが正解だからだ。どんな顔なのか想像もつかないけれど、どんな顔をしていればいいのか分からない。
あんなことになるなんて。
「た、ぶん、お前軽蔑するけど」
「しねぇよ。どうしたんだいったい。ケンカでもしたんすか」
ケンカの方が何百倍もマシだった。お互い素直じゃないのは知っているから、何かのきっかけで衝突する可能性は秘めていて、それでも致命的な決別にはならないだろうことも。どちらかが――恐らく呆れた千景が折れて仲直りをすることだってできただろう。
だけど、こんなことになるなんて。
至は口を開いては噤み、また開いて、戸惑って引き結ぶ。それを何度か繰り返し、おいと促す万里に観念して、音を唇の外へと出した。
「……先輩と、キスした」
抱えた両膝に顔を埋め、小さく、小さく呟く。
それでもその声は、万里に届いてしまっただろう。
「………………は?」
万里にしては珍しく、返答までに間が開いた。思いもしなかったことなのだろう。至自身でさえがそうなのだ、仕方のないことである。
「は、ちょっと、待てよ……アンタ」
「違う、違うから。俺、そんなつもりじゃ」
ふるふると首を振る。演技の延長でなんて、軽蔑され、否定されそうな行為。誰よりいちばん、自分自身が否定したい。
言葉を失ったのか、万里からは何も返ってこない。それが余計に怖くて恥ずかしくて情けなくて、心臓の痛みを増大させた。
「お待たせ、至くん大丈夫?」
その時、緊張した場を壊すように紬が戻ってくる。ハッとして顔を上げ、優しいオーラを纏った紬に安堵した。
「コーヒーにしようと思ったけど、空腹時にはあんまり優しくないからね。至くんにはココアにしてみたんだ」
「悪い紬さん、サンキュ」
「ありがと……」
二人分のコーヒーと、一人分のココア。立つ湯気が、あの時の湿った吐息と重なって見えた。
「万里、驚かせてごめん……」
「いや、まあ、驚いたっつーか……」
「何があったか聞けたの?」
一人だけ事情が飲み込めない紬にも、ココアのお礼に口を開いた。
「さっき先輩とキスしてたって話だよ」
「えっ……」
紬も、万里と同じように絶句する。そうだよな、と苦笑し、温かなココアを口に含んだ。柔らかな甘さは疲れ果てた心と体を癒やしてくれて、ほんの少しだけ落ち着いた。
「……一度目は触れるだけ。でもそのあと……お互い気持ちが盛り上がるっていうか、昂ぶっちゃったっていうか……なんか、恋人みたいに触れ合ってた」
「至さん、アンタさ……」
「違うってんだろ。雰囲気に流されただけだし、お互い。絶対そう」
万里がさっきから何を言いたいのか分かって、先手を打って否定する。否定しなければいけないことだ。
これは、演技で、二人で始めた舞台で、現実の世界ではない。
「うーん……でも俺は、いくら芝居にのめり込んでも、なんとも想ってない人とキスなんかできないかな。至くん、千景さんを好きになったの?」
とんでもない伏兵がいたものだ。万里には否定を返せたのに、なんの前触れもない紬の追撃に、すぐには切り返せなかった。
「例えば俺が今、万里くん相手に迫る演技をして、万里くんも返してくれたとしたって、……そういうことにはなれないよ」
「ぐっ……げっほ、げほっ」
紬が紡ぐもしもの世界に、万里がコーヒーを噴き出しそうになって、こらえたせいでむせる。今の万里にそのもしもはキツいだろうと思うと、彼に同情さえした。
「ん、あ、ああ、まあ、そーだわな。え、演技なら、ちょっと無理だわ」
万里は、わざとなのか無意識なのか、演技なら無理だと返す。演技でなくて本気ならいくらでも乗るのにという小さな願望が見え隠れしているようだった。
「だ、だいたいなんでそんな雰囲気になったんすか。冷静になれないくらいだったんだろ。会社で何かあったのかよ」
「あー……まだ俺たちのこと恋人同士として認識してない人たちがいてさ。もう少し親密になった方がいいのかって、そういう話をしてて……先輩の恋人っぷりはすごいとか、いろいろいやみ言われてしんどくないかとか、いろいろ……」
「……世間の目は、まだ厳しいもんね」
「ん……先輩はガチでオンナ駄目な人だし、つらくないかなって心配で、……あ」
うっかり千景の性的指向を漏らしてしまったけれど、そこはさすがに二人も流してくれた。至は気まずい気持ちで続ける。
「で、でも先輩、俺は大丈夫って言って、自分の中の真実は揺るがないとか、お前がいてくれたら大丈夫って……すごい優しい顔すんだよね。声なんかも、普段からは想像もつかないくらい柔らかいんだよ……そんなん、グラッとくるじゃん……」
至は、手のひらで目元を覆う。浮かんでくるのは、あの時の千景の顔。心配する至を諭すためもあったのだろうが、心配してもらえて嬉しいという気持ちがあふれていた。今までそんなふうに気も揉んでもらったことなんてないとでもいうように、少し幼く見えたその表情。
「気づいたら、先輩とキスしてた」
耳にまだ残る、あのときの声。殊更ゆっくりと、至に言い聞かせるように言葉を紡いだ彼の優しい声。深い海のようで、それに包み込まれて沈んでいってみたいなんて考えた。
「ねえ、俺、もしかしてヤバい……?」
言いながら、自分でも危険だと思った。演技と現実の境目が曖昧になっている。
「うん……」
「ガチに見える」
「ですよね……」
分かっていた。至はあの時、演技をしていなかった。
茅ヶ崎至として千景に触れたくて、茅ヶ崎至として千景に触れてもらいたかった。「先輩」と彼を呼んで、抱きしめて、キスをして、何度も触れたことくらい、自覚している。
自覚してはいけないことだと自分を戒めたつもりなのに、それをどう受け止めたらいいのか分からないのだ。まだ恋なんてしていないと否定するくらいしか思いつかない。
「でも駄目です、できれば最初からハッピーなものがいいんで、先輩相手は却下します」
「却下ってアンタな。でもんなことするってことは、千景さんもマジになってんじゃねーの?」
「俺だってマジにはなってねーわ、まだ。っていうか……あっちに好きな人がいるっぽいのは分かってるし。たぶん叶わない恋なんだと思う」
「は~? 千景さん好きな人いたんかよ……あぁ、なるほど、叶わないって、そういう意味でか」
「……相手も、男性なんだね。告げられない想いというのは、確かに苦しいと思うよ」
聡い二人が、叶わない恋の事情を察してくれる。多くを語らなくても伝わるのはありがたかった。
「だから、俺たちのあれは事故だし、この先どうにかなるなんてことねーから」
「納得いかねー」
「お前に納得してもらう必要ないっての。万里はさっさと自分の方どうにかしろよ」
「……ッたるさァん! ここでそうくんのかよっ……」
こっちこそ無理だわと顔を真っ赤にする万里を見て、紬が目を瞠る。
「えっ……万里くん、もしかして、す、好きな人いるの……」
「は!? いや、今はそれより至さんのことだろっ……俺のはその、いいんで!」
「あ、そ、そうだよねごめん至くん」
「至くんさんの暴露大会は終わりましたー。キスとか大したことじゃねーし、マジになんてなってない。なってない。なってない。以上」
気づいてしまった紬の気持ちと、応援すると決めていた万里の気持ち。雰囲気に流されただけの自分の不可解な気持ちより、そちらの方がよほど重大で、重要だ。そのはずだ。
「ちょっと素面で顔合わせんの気まずかったけど、だいぶ落ち着いたわ。大したことない、大したことない」
自分にそう言い聞かせて、初めてのキスをなんでもなかったことに変えていく。千景相手に何度も胸が高鳴ったことなど忘れてしまえる。
「……至くんがそう言うなら仕方ないけど、しんどくなったら支えてあげられるように、俺も頑張るから。万里くんみたいに頼りがいのある男じゃないけど、言ってね」
紬も至の言葉をその通りには受け取ってくれないようだが、彼が部屋に引っ張り込んでくれたおかげで、落ち着く時間ができたのは事実だ。
「ありがと紬。万里は確かに頼りがいありすぎだよね。言わなくても伝わる気がするし」
「あのさー、褒め殺しは本人いねーとこでやってくんねーかな。恥ずかしいんすけど」
他ならぬ紬に、頼りがいがあるなんて言われて、照れくさそうにそっぽを向く万里を放って、至は紬を振り向いた。
「でも、そういう万里にも、ちゃんと言わなきゃ伝わらないことがあるんだよ、紬。頑張って」
「……いっ、至くん……!」
気づいてしまった双方向の想い。つなげてやりたいと心から思う。余計な口出しかなとも思ったけれど、彼らの幸せな始まりが見てみたい。驚きで冷えた紬の手をぎゅっと握りしめて、少し冷めたココアを飲み干して、至は息を吐いて腰を上げた。
「ありがとな二人とも。言ったらすっきりしたわ。おやすみ」
そう言って、紬たちの部屋をあとにする。階段を下りて、ココアのカップを洗いにキッチンへと向かう。千景はもう部屋に戻っているらしくて、ご飯は綺麗に片付けられていた。カップを洗って、何か腹に入れた方がいいかなと冷蔵庫を開ければ、至さんへと付箋が貼られたプリンとゼリー飲料。思わず笑ってしまって、いただきますと手を合わせて持ち出した。

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