そして103回目の恋をする

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トラブルが起きた、と千景からメッセージが入ったのは夕方のことだった。納品物に問題があったようで、これから製造元の担当者たちと出向かなければいけないらしい。タイミングの悪いことに、海外拠点のお偉方が来日しているということで、千景も駆り出されたそうだ。
『今東京駅なんだ。これから大阪。たぶん泊まりになるだろうなって』
「は?」
デスクを抜け出して千景にコールを入れたら、ため息交じりにそう返されて、至は思わず怒りのこもった声を上げた。
ということは、逢えないのかと。
(なんだ……)
『ごめん、監督さんには連絡入れておくから。あと、明日朝イチので帰るから、ミッションは続行で』
「え、……あっ……」
ミッションという言葉を耳にして、至はハッとして目を見開く。そこでようやく思い至った。明日がバレンタイン、決戦は金曜日だったのだということに。
ひゅ、と体の中を何かが駆け抜けていく。
(待って俺今……バレンタインのこととか、全然、考えてなかった……仕事終わって帰ったら、逢えると思ってたのに、逢えないの……って……それしか、考え、て……なかった)
怒るべきはそこではなかった。せっかくここまで進めてきた作戦をふいにするつもりかと怒るべきだったのに。千景も、至がそう思ったと感じたからこその発言なのだろうに。
(これは……いよいよ、本格的にまずいってことか……)
うさぎの貯金箱に視線をやりつつ髪を掻き上げて、ズキズキと痛む心臓はごまかしようもなくて、押さえることもしなかった。
「……千景さん」
『怒るなよ。お前を一人で戦わせたりしないから』
「今東京駅なんですよね。新幹線、何時ですか? 指定席?」
『いや、自由席だけど……』
「行きます。二十分くらいどうにかしてください」
『は? 行くってお前、おい』
至は一方的に通話を打ち切り、デスクに戻ってコートを羽織り、鞄を持ち上げた。外回りに行ってきますと告げるだけ告げて、社を飛び出す。
トラブルということは一刻でも速く向かわなければいけないだろうに、どうしても、逢いたい。千景の顔を見られたらそれでいい。宣言通り至も取引先に顔だけ出して、それで戻ろう。
最寄り駅まで七分、走って五分。東京駅まで十分。運良く入線した電車に乗って、やきもきした気持ちで流れる景色を眺めた。
(何してんだ俺……仕事しろ。いや、して帰るけど。こんなことするつもりなかった……先輩に逢うためだけにとか、社会人失格。すみませんすみません、仕事で返す)
しかも駅まで走るなどということまでしてしまった。いまだに息が整わなくて、体力不足持久力不足を思い知らされる。
(でも……確認しないといけないんだよね、これ……明日まで待ってられるか)
胸の中に渦巻く、この感情の正体。〝ほぼクロ〟なのは分かっているが、決定的なものが欲しい。
駅のホームに着く。段を飛ばすことこそしなかったが、階段を駆け上るなんてことも普段はしない。つくづく、こんなことをさせるあの男が憎たらしいと、新幹線の乗り換え口まで急いだ。
「先輩、今どこ」
『一階南通路。って、お前どういうつもりで』
「おk」
千景にもらった時間は二十分。あと三分ほどしかない。それでも確認したい。それでも――逢いたい。
至は人の合間を縫って、足早に歩いた。通勤ラッシュに引っかからなくて良かったとは思うものの、主要駅はやはり人が多いと舌打ちをしながら。
(……あ)
しかし南通路にたどり着けば、一瞬で千景を見つけられた。彼が見つけやすいところにいてくれたというのもあるだろうが、千景はとにかく目立つ。すらりとした長身の男が、至を見つけて眼鏡の奥で目を細めたのに気がついた。
「茅ヶ崎、どうしたんだ。何かあった?」
「いやー、あの、俺も外回りで……ついでに先輩の見送りでもと思ったんですが」
「俺に嘘をつくとはいい度胸だね。お前のスケジュールにそんなの入ってなかったけど?」
「なんで把握してるんですか、怖いわ。いや、でも外回りで出てきたのは本当ですよ。先輩の見送りついでに」
はあ、と納得したのかしていないのか分からない千景のため息。ぽん、と頭に手を置かれて、心臓が跳ねた。その優しい顔は、恋人に向けられるものだ。
「何かあったのかと心配した。お前は本当に、時々斜め上の行動をしてくれるから」
「……顔が見たかったってのは、理由になりますかね」
「なるのかな。行く前に顔見られてよかった」
ミッションは続行している。至も寂しがり屋の恋人のフリをして、口をとがらせた。その唇を指先でなぞり、千景は愛しそうに口づけてくれる。
「せっかく来てくれたのに、時間取れなくてごめん。あとで電話するから。行ってくるよ」
「行ってらっしゃい、先輩」
恋人同士のキスを終えて、至は千景を見送った。その背中を見て、確信する。
(これは、たぶん、恋だ)
恋とそうでないものに、明確な線引きがあるわけではないのだろう。だけど、分かる。
茅ヶ崎至は卯木千景に恋をしている。
クロ確定で、至は千景の背中が見えなくなってからようやく踵を返した。宣言通り近くの取引先に挨拶だけして帰ろうと。
手土産を買って「近くまで来たので」と嘘ではない言葉を吐いて、軽くマーケティングだけして自社に向かう。このまま直帰しても良い時間だったが、残してきた仕事を片付けようと息を吐いた。
いったいいつからだったのだろう。
演技で始めたはずなのに、本当の恋に落ちてしまったなんて、笑い話だ。
今から思えば、最初から落ちていたのかもしれない。気づかなかっただけで、千景には好意を抱いていた可能性だってある。
(先輩の演技が演技じゃないかもって思ったとき、割とショックだったのかな、あれ。好きな人いたんだーって……)
自社に戻り外回りでの収穫を報告だけし、デスクについてメールの返信などをしている最中も、頭の中は千景でいっぱいだ。
(境遇上叶わない恋なら、夢でも叶ったことにしてあげたいって頑張って演技してた俺、超健気じゃん。俺なら俺に惚れるね、おめでとう両想いだわ)
千景の恋を叶えてあげたかった。その思いは、彼に向かっていく恋心だったのだとこんなことになって初めて自覚して、自分の想いこそ叶わないものなのだと実感する。
(俺は……俺とは、フリだけだし。茅ヶ崎至に戻ったら、あんな顔向けてもらえない。あんな優しい声で呼んでくれない。キスだって、俺としたかったものじゃないんだ)
ズキンズキンと胸が痛む。じわりとこみ上げてくる涙を我慢して、モニターを見過ぎたフリで目をこすった。
(あの時も、茅ヶ崎って呼んでくれたような気はするけど……本当に抱きたかったのは俺じゃないんでしょ、先輩……)
痛みを増すこの胸にも、千景の手が触れた。そこでハッと思い出す。あの時、至の方は演技なんて忘れていたことに。恋人の証しのように呼んでいた「千景さん」でなく、「先輩」といつものような呼称だったはず。
(うわ、マジでか。あんなことできちゃったの信じられんけど、先輩ならいいって思ったあたりで駄目だったんじゃん! 鈍感かよ……っ)
なんとも思っていない、しかも男とベッドを共にするような人間ではなかったことに安堵して、どうにも鈍すぎる己に撃沈する。いや、どこかで分かっていた。ただ、認めたくなかっただけで。
(だって無理だろ、失恋すんの分かってて、告るとか。万里たちみたいに両想いなのとは違う……)
なんだって、このタイミングで気づいてしまったのかと、自分自身が憎たらしい。もっと早く気づいていれば、別の楽しみ方があっただろうに。それでないならば、ずっとずっと気づかないでいたかった。
明日で終わる――そんな時に気づかなくてもいいじゃないか。
明日ですべてが終わって、元通りになる。至の恋心以外は。千景はまたスパイス好きのペテン師になって、休日にふたりっきりで出掛けることもなくなって、至は好きなだけゲームに時間とお金を費やせる。
デスクに置いていたうさぎの貯金箱に視線をやる。この中身も割と貯まっているだろうが、使う機会には恵まれそうにない。恋人みたいに、二人っきりでどこかへ出掛けることは、もうなくなるのだ。
こんな気持ちに気づかなければ、仕事帰りにどこか寄り道していこうなどと誘えたかもしれないが、もう、無理だ。
どこかで期待をしてしまう自分に絶望したくない。
今まで千景を大好きな演技をしてきたけれど、明日が終われば、今度は千景を好きでない演技をしなければならない。この恋が終わるまで、ずっと、ずっとだ。
ショーマストゴーオン……こんな時ばかりは、早く幕が下りてくれと願うばかり。
(終わらせるなら、早い方がいいか……)
至は貯金箱のうさぎをなでようとしてためらい、拳を握って引っ込める。時刻は二十時少し前。千景はもう大阪に着いただろうか。あとで電話するなんて言われたけれど、トラブルがいつ片付くのか分からないしと、至はパソコンの電源を落として帰途についた。
ビルの外に出れば、ぽつぽつと雨が降っているのに気づく。車通勤でよかったなんて思うけれど、運転席に乗り込むのは久しぶりだ。いつも、いつも、千景が運転してくれていた。このシートに千景が座っていたのだと思うと、胸がざわつく。そんなわけはないのに、千景の胸に背を預けるような感覚に陥って、顔が火照った。ぐっとステアリングを握って気を引き締め、車を発進させる。
フロントガラスに雨粒が落ちる。やがてワイパーに邪魔者扱いされて流れていくそれを、ぼんやりと眺めた。
この雨みたいに、この恋心も千景には邪魔者扱いされるだろうか。ただの後輩に、ただの劇団仲間に、ただのルームメイトに、本気の恋なんかされたと知ったら、あの男はどうするのだろう。
(馬鹿なの? って……いつも通りのあの声で言うんでしょ。分かってるよ)
そして、どうか拒んでほしい。哀れみで受け止められてもつらいだけだ。想いは返ってこないと分かっているから、優しい嘘で愛さないでほしい。
この恋心も、払われて流れて、地面に吸われてやがて乾いていけばいいのになんて思ってしまう。
忘れよう。そう思うたびに余計に千景のことを考えてしまう。
嫌いになれば。そう考えるたびに無理だと思ってしまう。
この数日間で、気づかないで何度もしてきた恋が、いくつもいくつも、雨粒のように降って体の中に積もり積もっていく。体中に行き渡るように染みこんでいくのに、雨のように乾いていってはくれない。
払うようにぺぺぺと手を振ってみても、ザッザッと腕から払い落としてみても、千景の感触が離れていってくれない。
この指先は千景に触りたがるし、この腕は千景を抱きしめたがる。
今、目の前にいなくてよかったと至は思う。目の前にいたら、視線ひとつで知られてしまう。
「こうなると、明日のミッション、良かったっていえば良かったのかな……先輩が他の子からチョコ受け取るとこ見なくてすむし……」
その理由に茅ヶ崎至じぶんを使われるのはしんどいけれど、夢は明日で終わる。
終わらせよう。
(先輩が言い出したことだけど、幕引きは――俺の手で)
作られた物語は、ここで。

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