そして103回目の恋をする

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「茅ヶ崎、お疲れ様。もう体調大丈夫か?」
定時を過ぎ、千景が迎えに来てくれる。色めき立つ女性や軽蔑の眼差しを向けてくる男性、好奇心だけで視線を向けてくる者たち。それは様々だったけれど、今の至には千景しか見えていない。そういうことになっている。
「千景さん。はい、もう平気です。心配かけてすみません」
「本当だよね。さあ帰ろう。今日はビーフストロガノフだって。でもお前はお粥な」
「は? ちょっと待って酷い」
「酷くない。心配させた罰」
「無理せずにちゃんと医務室行ったじゃないですか」
「それでも心配なの。ほら荷物。これだけ? マフラーしろよ、今日寒いから」
そんなやりとりをしながら、同僚たちにお疲れ様と言い残してエレベーターへと向かう。相変わらず千景は、優しい恋人を演じてくれた。
「ビーフストロガノフ……」
「胃がやられてるんだから、消化のいい物にしろ。臣なら美味しいの作ってくれるだろ」
しょんぼりと俯きながら歩く至の頭をぽんぽんとなで、治ったら美味しいとこ連れてってやるからと言ってくれた。
「やった。千景さん大好き」
それがどこまで本当か分からないのだから、こちらも本当ではない言葉で返してやったら、彼はどうしてか苦笑した。
「そういうのは、ふたりだけの時にするように」
「あ、そ、そうですね。すみません……」
周りに他の人もいるのだからという意味だったようで、やりすぎたかと心で反省。では当たり障りのない会話をと探して、ふと思い当たる。
「そうだ、そういえばお昼ご飯ありがとうございました。タマゴサンドとか久々でしたよ」
まだ昼ご飯調達の件に礼を言ってなかったと思い出し、本音として言ってみた。……のだが。
「え?」
千景が、不思議そうな顔をして振り返る。どうしたというのだろう、この話題ならば人目を気にするようなものでもないと思ったのだが、内緒にしておいた方が良かったというのか。
「お昼って……なに?」
「え? なにって……あれ先輩でしょ? 医務室にコンビニご飯持ってきてくれたの」
千景は目を見開いて、次いで視線を左右に走らせ、細めて戻す。至の心臓が、嫌な音を立てた。ちょうどその時、階下へ向かうエレベーターが到着して、至は千景に強い力で引かれて乗り込んだ。
押さえつけられるように壁を背にしたが、千景は周りを警戒するように至の前に佇む。
「――俺じゃない」
小さく囁かれた言葉に、目の前が暗くなっていくような感覚を味わった。
「なに、それ……」
あの時医務室で休んでいる社員は至しかいなかったし、スタッフの私物でもないようだった。ベッドの傍に置いてあったということで、至への差し入れなのだろうと判断はできたが、迂闊だった。てっきり千景だと思っていたのに、彼は違うという。
ものすごく超解釈で考えれば、あそこで食べようとしていた人の物を分捕ってしまった可能性もあるが、あれはカーテンの内側にあった。スタッフの目を盗んで入り込み、至宛てに置いていった人物がいるはずだ。
いったい誰が。心当たりがありすぎて、絞れない。
エレベーターが一階について、千景がいちばん後に降りるのに続いた。
「せ、先輩じゃ、なかったんですか」
「茅ヶ崎、それ、食べた? 何を渡されたんだ」
「え、あ、サンドイッチとチョコ味のブロック……あのあれ、カロリー補助的な。あと、プリンと小さい紙パックの飲み物……」
足早に駐車場へと向かいながら、いろいろな可能性を考えた。
純粋な好意からくる行動ならばいい。
だがもし、……もし千景の仕事の邪魔になってしまうようだったら、どうしたらいいのか。
「体なんともないか?」
「あ、はい。封が開いてるとかもなかったんで、普通に食べましたけど、なんとも……。でも、プリンは十座にあげようかと思って持ってきました」
「あとで見せて」
車までたどり着き、助手席に向かおうとした至を、千景は一緒に運転席へと回らせる。
「こっちから入れ。そこまたいで。気をつけろよ」
運転席のドアを開けられるから、今回は至に運転しろということかと思いきや、そこから助手席に座れという。そんな面倒なことをなぜ、と思うが、体が助手席に埋まったと同時に千景が運転席に乗り込んでドアを閉めた。なるほど、離れる時間を最小限に抑えたわけだ、と納得した。至を助手席に乗せてから運転席に回り込むのでは、ボンネットがある分時間が開いてしまう。その間に何かあったらと考えたらしい。
「本当になんともないんだな? 変な味もしなかった?」
「はい。え、あ、ちょっ」
千景は両手で至の頬を包み、上を向かせたり左を向かせたり右を向かせたり。口を開けさせて中を確かめたり、目の具合を確認したりしていた。そこで判断できる症状はなかったらしく、ホッとした様子だったが、警戒は薄れない。
「先輩、大丈夫ですよ。普通に考えて俺目当ての子でしょ。何でもかんでもそっちに結びつけないでください」
「分かってる……お前の言うように、好意からくるでしゃばりなんだろう……でも、怖いんだよ。もしお前を失ったらと思うと……」
ふう、と息を吐いて、髪を掻き上げる。それが、恋人に向けたものなのか、仲間へ向けたものなのかは分からないが、千景が不安に思っているのは事実だ。
「そっちの可能性は低いと思いますけど、一応俺も警戒はしておきますね。出所の不明なものに手はつけません。移動はできるだけ先輩と一緒にします。外回りも控えて、おとなしくしておきますね」
「うん、そうして……」
それでようやく安堵してくれたのか、エンジンをかけて車を発進させた。
千景がこんなに敏感に怯えるなんて思わなかった。それを表に出してくれるとは思わなかった。
たとえ組織の魔の手が伸びてこようと、仲間たちには内緒でどうにかしてしまいそうなこの男が、弱みとも取れる部分をさらけ出してくれるなんて。
「なんか、嬉しいですね。そこまで心配してもらえるの」
「のんきなこと言ってるんじゃない。本当に命さえ危ないんだぞ。なあ、本当にここら辺でやめなくていいのか? 今ならまだ」
「いやもう手遅れでしょ。今どんな噂されてるか知ってます? っていうか、俺の同僚まで巻き込んじゃってるんですけど。ああそうだ、アイツになんか菓子折りでもやらんと……迷惑かけてる」
至は、走る車の中で今日の出来事を話す。思わぬところに飛び火してしまったことは、自分たちの落ち度だ。
「今さら全部お芝居でしたなんて言ったらね、炎上しますよ。そういうの、先輩なら分かるでしょ」
「それはそうだが……それでもまだ、茅ヶ崎狙いの子がいるほどには、信憑性がないってことかな」
「俺は恋愛初心者ですからね。どこかわざとらしいのかな。本当に恋をしてる人たちには、バレバレなのかも」
「うーん……もう少し恋人らしく……か」
「俺はともかく、先輩は分かるでしょ。好きな人、いたんじゃないです? 現在進行かもしれないけど」
「……何を言ってるんだ」
そうは言うものの、千景にしては返答に時間がかかった。恋と認識はしなくても、そういう好意を抱いた相手くらいいたのではないだろうかと、確信に近い思いで千景を見やった。
彼の眉間にはしわが寄っていて、認められない事実を如実に物語っていた。
「誰かを重ねててもいいって言いましたよね。その人としたかったデートとか、行きたかったところがあれば付き合いますよ。そしたら俺たちの恋人っぷりも上がるはず?」
「……そんな相手いないけど、確かに茅ヶ崎とはもう少し親密な方がいいのかな。いまだに唯一無二の恋人として認識されてないみたいだしね」
「そうそう。ちゃんと恋人アピールできれば、今回みたいなこともなくなるはず。腕組んでデート? 恋人つなぎの方がいいですかね。正直言って、恋人としてのスペックは申し分ないんですよね。かっこいいし優しいし」
「そう? お褒めにあずかって光栄だな。茅ヶ崎も充分可愛い恋人だよ」
千景の声音が、ずいぶんと普段通りになる。危険を警戒して、硬くなる声を聞きたかったわけではない。他愛のない会話をしたかった。仲間へ向けるものでもいい。共犯者と交わすものでもいい。恋人として接してくれたら、それだけで幸福になれる――。

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