カクテルキッス3ーたった一度のI love youー

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自分のデスクから、千景のデスクをちらりと見やる。相変わらず仕事をそつなくこなす〝エリート〟を、ほんの少し恨みがましく睨みつけてやった。
まだ怪我が治っていないはずなのに、涼しい顔をしている。
いや、良くはなっているのだろう。そうでなければ、昨夜あんなに情熱的な行為をしかけてくるはずがない。
昨夜の情事を思い出しかけ、ハッとして唇の手前でぎゅっと拳を握った。
(駄目だ、思い出すな。気づかれる)
また千景を目で追ってしまう。
(隠せ、押し込めろ、できるだろ)
劇団の連中ならまだしも、職場にこの関係を知られるわけにはいかないのだ。
至はふるふると首を振って、千景のことを考えたがる意識を、無理やり散らす。
そうやって、なんとか一日の仕事を終えた。
さすがに今日は千景からランチの誘いはなくて、忙しかったのもあって、コンビニで買ってきた弁当をデスクで食べた。
千景のことを考えないですむのは好都合だったけれど、仕事が終わってしまえばまた、あの男は至の意識を支配する。
本当に憎たらしい男だ、とエレベーターに向かった。
「茅ヶ崎、今日はもう終わり?」
声をかけられて、ドキ、と胸が鳴った。相手が千景なのだから、そうなっても不思議はない。至は精一杯に平静を装って、千景を振り向いた。
「午後に結構スムーズに進んだので。先輩も、今帰りですか」
「まぁね」
数人の同僚たちとエレベーターに乗れば、みんなそれぞれに仕事の話をしている。こういう時、自社ビルだというのはありがたい。他の社も入っていれば、共有部分での仕事の話は御法度だ。
至はエレベーターの奥の壁にもたれ、表示階数が減っていくのを、千景の隣でぼんやり眺めていた。
「お前がデスク立つの見たから、追ってきた」
だから、ぼそりと小さく呟かれた千景の言葉に、すぐには反応できなかった。
ぎ、と音がしそうなほど硬い動作で千景を少し振り向けば、眼鏡越しに冷たい視線が振ってくる。
「今日は俺が運転してやるよ、茅ヶ崎」
たぶん至にしか聞こえないだろう囁きに、指先が冷えていく。普通の恋愛であれば、好きな人と一緒に車で帰れると喜ぶところだろうが、千景が相手ではそうもいかなかった。
「……はい」
エレベーターが一階に着く。他の人たちに続いて降り、駐車場へと向かう。
重い足取りは、改めて終わりを告げられる可能性から逃げたいからだろうか。
「茅ヶ崎、鍵」
言われてひょいと投げると、千景は慣れた仕種で受け取る。
聞き慣れた電子音とともにロックが外れるが、至は自分の車の助手席のドアを開けるという行為に、違和感を覚えた。
「ドア、開けてやればよかったか?」
「……結構ですよ。俺は先輩のオンナじゃないんで」
諫め合うような言葉を交わし、至はドアを開けて助手席に乗り込む。別にそんなエスコートを望んだわけではなくて、これからされるであろう話の内容に、今から落ち込む自分が情けなくて仕方がないだけだ。
(別れ話、か……いや、つきあってもないのに、それはおかしいけど)
昨日飲まされたXYZの味が、まだ口の中に残っているような気さえしてくる。至は無意識のうちに指先で唇を撫で、あのグラスの冷たさと、千景の唇の温度を思い起こした。
そっと静かに、車が走り出す。
何度か千景と一緒に通勤したことはあるが、そのどれもが至の運転だった。さすがに先輩の運転で通勤するのは忍びないということもあったし、千景が運転免許を持っているかも知らなかった。
「免許、持ってたんですね」
「海外での仕事が多かったから、日本での右ハンドルにはまだ慣れないけどな。ちなみに俺の免許は偽造だよ」
流れにそって、千景はアクセルを踏む。
ハンドルと席の位置に慣れないというのは、理解ができる。
だけど、免許が偽造だという言葉には、なんと返せばいいのか分からなかった。年齢の問題ではないだろう。恐らく持病の関係もないはずだ。
「偽造、って……」
「身元が簡単に分かるものを、俺が持っているわけないだろう。それに卯木千景という名前も、俺の本当の名前じゃない」
ぎゅう、と心臓が締めつけられるようだった。
千景が裏の仕事をしていることを、ちゃんと実感したのはつい昨日のことで、そこまで頭が回っていなかった。ガンガンと頭を殴られているような衝撃に襲われて、至は膝の上でぎゅっと拳を握る。
(名前も……本当のものじゃ、ないんだ……密は、知ってるんだろうか……)
千景のことで知っている事実など、自分にはないような気がしてきた。
名前も、生活も、もしかしたら年齢だって、すべてが作られたものかもしれない。
「なんで……俺に、そこまで話すんですか。知りすぎたからって、昨日あんなもの飲ませたくせに」
「スリルのある非日常は、好きじゃない? 中二病患者だろ、茅ヶ崎は」
「お気遣いをどうも」
くくっと楽しそうに笑う千景の横顔さえも、偽りのものに思える。至は千景から視線を逸らし、窓の外を流れる景色に意識を向けた。
「卯木千景っていう名前は、誰がつけたんですか? これは、NG?」
「はは、お前本当に怖いもの知らずだな。普通は空気を読んで、何も訊かないところだろ」
「空気読めない後輩ですみませんね」
「……その名前は、俺の大事な家族がつけてくれた。血も?がってない、俺の――俺たちの、大事な家族だった男がな」
と千景の指先が、ゆっくりとしたリズムでステアリングを叩く。速度は違うものの、あの家のノックのリズムと同じだった。
その人とは、あの家で一緒に過ごしていたのだろうかと考えるが、恐らくここは踏み込むべきところではない。また千景の傷をえぐるようなことになる。
至はそっと目蓋を伏せ、ゆっくりと持ち上げた。
「じゃあ……、偽名にしても、先輩にとっては大切なものなんですね」
彼の、本当の名前はなんだろう。そうは思うものの、それほど気にはならなかった。至が出逢ったのは、他の誰でもない、〝卯木千景〟という男だからか。千景が言いたければ聞くだろうが、至がその音で呼ぶことはないだろう。
ふと視線を感じて振り向けば、探るような目をした千景がいた。
「なんです?」
「……いや……つくづく思うが、おかしな男だな」
「先輩のことですか。確かに」
「お前だよ」
車の量が少なくなって、流れはスムーズなもの変わる。それなのに、千景は車線を変更してスピードを緩めた。
「先輩?」
「普通は、偽名である理由とか、本当の名前とか訊くものじゃないのか」
「先輩が言いたければ、どうぞ。聞きますよ、大人しく」
ほんの少し、沈黙が流れる。
言いたいことではないのだろうなと、至は短く息を吐いた。
「俺と先輩の関係に、それはどうしても必要ですか?」
本当の名前など知らなくても、生きていける。たとえ偽名でも、呼んで返事をしてくれればそれでいい。
無理に話すことはないと、それで示したつもりだった。
千景は車をゆっくりと路肩に停め、エンジンを切った。ついに切り出されるのかと、至は顔を背ける。
「茅ヶ崎」
千景の声が、いつもより大分低い。太腿の上で握った拳に、じんわりと汗がにじんだ。
「万里に、どこまで話したんだ」
「え?」
「昨日、あの後。何も訊かれないってことはないだろう」
「素直に言いましたよ。……先輩とはセフレなだけってこと」
素直に言った、と口にした瞬間、千景を取り巻く空気がピリッと張り詰めたような気がした。彼が気にしていたのはその部分だったのかと、ようやく気がついた。
「だって俺の妄想なんか話しても仕方ないでしょ。アイツはそういう遊び、付き合っちゃくれませんからね。どっちかって言うと、紬の方が中二エチュードしてくれますよ」
至が、千景の真実を話すと思ったのだろうか。まだ欠片ほどしか知らないだろう、千景の真実を。
(そんなもったいないことできるかっての……)
千景の秘密をほんの少しでも知っているという事実は、至に優越感に似たものを味わわせてくれる。
ひどく個人的な秘密を暴かれることの胸くその悪さと、その後に起こる空虚さを知っているから、誰かに千景のことを話そうとは思わなかった。
「お前が頭のいい人間で助かったよ、茅ヶ崎。そうじゃなきゃ、お前を消さなきゃいけないところだった」
ステアリングから外れた千景の手が、至の喉元に伸びてくる。〝消す〟というのは、社会的にという意味でなく、物理的にということだろう。冷えた指先が、襟をやり過ごして素肌に触れてきた。
だけど至は、身をよじることもせず、目を逸らすこともなく、じっと千景を見つめた。
千景がそんなことをするはずがないという思いでなく、まっすぐに見つめてくる千景から、視線を逸らすのがもったいなかっただけだ。
千景の意識すべてが、今この瞬間、自分だけに向かっている。それだけが幸福だった。
「……冗談だ。少しくらい怖がれ」
「先輩の思い通りになるとか、癪なんで」
「だろうな。安心しろ、お前に何かしたら、密が黙っていない。面倒なことになるのはごめんだ」
千景はそう言って、運転席に深く腰をかけ直す。
密が至を気にかけてくれているのは知っているが、千景の口から密の名が出るたびに、胃が重くなり心臓がざわつくのは、馬鹿げた嫉妬だ。
「密が黙っていないから、……ですか。じゃあ先輩個人としては、俺を消したい?」
「そうなっても仕方ないことがあればな」
千景の目がすっと細められる。
密をねじ伏せてでも、必要ならば千景は平気で喉を絞めてくるのだろう。まだそのラインには踏み込んでいないということか。
至は「言いませんよ」と口を開きかけたけれど、
「口止め料、何がいい?」
そうする前に千景の声に遮られた。
至は目を瞠る。
取り引きをする際に、対価が必要なのは分かっている。仕事でもゲームでもそうだ。何かと交換、というのは、理解ができる。
だけど、分かってはいても、ショックだった。対価を払わねばならない相手だと思われていることが。
千景へ向かっていく恋心を知らないのだから、当たり前だ、仕方ない。
そう思う気持ちと、そんな人間に見られていたのかという沈んでいく気持ちが、至の中でごちゃ混ぜになる。
「欲しい……もの」
「何でもいいぞ? 発売前のゲームデータとか、テストプレイの権利とか。そういうの好きだろ」
至はドアに肘をかけ、目元を覆った。ぎり、と歯を食いしばりたくなる。
千景の中で、茅ヶ崎至という人間は、そういうものを欲しがるように見えるらしい。いや、あれだけ廃人レベルのゲーマー姿を見せていれば、それも仕方ない気がする。
「いりませんよ、そんなもの……」
それでも、もう少しくらい分かってほしいと思う。腹の底から絞り出すような声を上げて、千景を責めた。
(ふざけんな、殺すぞ鈍感。なんでこんな人なの。なんでこの人なんだよ……!)
こんなに想っているのに、少しも気づいてくれない。
気づかれてしまっても困るのに、わがままな思いだけが体を巡った。
「俺たち、お互いのこと本当に何も知らないんですね、先輩。あんなにセックスしてるのに、先輩は俺の欲しいものなんか分からないし、俺も、先輩が何を望んでいるのか分かりません」
「俺が望んでいるもの? これ以上踏み込んでくるなってだけだ。分かりやすいだろう。だから、対価を言えと言ってるんだよ」
「未発売のゲームもテストプレイの権利もいりません。正規に手に入れたものならまだしも、絶対違うでしょう」
例えば未発売のゲームをできたとしても、誰にも話せない。ネット上でも盛り上がって楽しめない。そんなもの、欠片も欲しくない。
(ほらな万里。両想いだなんて、お前の勘違いだよ。好きな相手が、そんなもの欲しがってるとか思わないだろう、普通……)
分かっていたことだけれども、こうして実感させられると、胸が痛い。
少しでも想う心があるのなら、そんな不正を提示してくるはずがないのだから。
(なんで、こんなに近くにいるのに……!)
胃の中が焼けただれそうに熱くて、痛い。体の中から引きずり出して、這い回る黒い気持ちを全部、洗い流してしまいたかった。
「昨日のカクテル……」
だけどそんなことは物理的にできない。何度か深呼吸をして、膝の上で手を組み、視線を泳がせる。
その視線の先で、どうしてか、千景の指先がビクリと固まったように見えた。
「あれの意味、〝最後〟ってことなら、取り消してください」
「……え……?」
「取り消して、ください。最後になんかできない」
昨日、千景と?がった。
今まででいちばん優しい行為だった気がするけれど、だからこそ、最後になんかできない。してほしくない。
「俺が、欲しい、のは……」
至はゆっくりと腕を上げて、人差し指で千景の唇に触れる。
(俺が欲しいもの)
ほんの一瞬、千景が目を瞠った。
言えなかった。言うつもりもなかった。
「キス……、と、セックス」
でも――言ってしまえばよかったとも思う。卯木千景が欲しいのだと。
「……先輩、抱いてください」
思えば、明確に口にしたのはこれが初めてだった。
いつも、いつでも、ろくに大事な言葉もかわさず?がってきた。今さら千景に求めるのは、卑怯だ。
心がもらえないのは知っている。だからせめて、千景に教えられた快楽を、まだ終わらせないでほしい。それは至の、本音だった。
「茅ヶ崎」
「先輩のせいで、これハマっちゃったんですから、責任取ってくださいよ」
冗談めかしてそう呟けば、千景の指先が、至のしたように唇に触れてくる。
息を吐く暇もなく重ねられて、至は目を閉じた。触れるだけの唇を煽るように吸えば、仕返しのように吸われて、舐められて、唇の形を確かめるように食はまれる。
「は……ぁ、ふっ」
「んん……う」
もっと深く千景が欲しくて肩に腕を回せば、その手のひらはジャケットの隙間から忍んでくる。シャツ越しに胸を撫でられるだけでも、簡単に熱が上がって、羞恥が這い上がってきた。
「んっ……んぅ」
「は、はぁ、ん……」
それでも唇が離れきる瞬間などなくて、吸い合う濡れた音が、車内に響く。触れ合う衣擦れの音が混ざる。
「んッ……!」
腕を回されて抱き込まれ、至はびくりと肩を揺らす。まるで初めて触れ合うような錯覚に陥り、体が強張った。
まさかこんなところで、という思いと、そんなものかなぐり捨てて触れ合いたい思いが交錯する。ドキンドキンと高鳴る心音を千景に悟られてしまう――と押しやるのに、千景はさらに手のひらを押しつけてくる。
こんなに狭い空間で密着していれば、心音なんてとっくに悟られているだろうし、気づかない男ではないと分かっていて、無駄なあがきをした。
「はあっ、せん、ぱ……待って、ここじゃ」
「……っ分かってる、お前が煽るからだろ、馬鹿」
「俺だけの、せいに、しないで、くださいっ」
吐息と一緒に抗議をすれば、ようやく千景の唇が離れていく。彼の呼吸もひどく荒れていて、それさえ刺激に?がってしまった。
どちらが先に欲情したのか、もう分からない。
正直、もっと車の通りがなくて、人が来ないような場所だったら、このままここで?がってしまっていたかもしれない。
千景は体を離し、エンジンをかけ直す。
至はそんな千景の横顔を見て、はしたなくも欲情した。昨日あんなに濃密に体を?げたのに、まだ足りない。少しも満足できない。
そう思うのは、心がつながっていないからだろうか。
(でも、もし……万が一、先輩と恋人みたいなものになっても、先輩を欲しがるのは変わらないんだろうな)
そんなことは起こり得ないのだろうけど、と思うが、夢を見てしまう。
こんなに近くにいるから、もしかしたらと期待をしてしまう。
ゲームの中のレアカードよりも、遥かに現実的なのに、恋愛イベントに発展する確率は低い。だからこそ、逃したくない。
至はステアリングに乗った千景の左手にそっと触れる。そうしてその手を持ち上げて、コンソールの上で指を絡めた。
「……茅ヶ崎?」
「先輩、こうしとかないとすぐどっか行っちゃうでしょ」
「……なんだそれ」
「片手じゃ運転できないなんて、言わないでくださいね」
「平気だけど、危なくなったら振り払うからな」
「……分かってますよ」
たぶん、運転のことではないのだろうなと思い、痛む心臓をごまかすように外の景色に視線を移す。
コンソールの上で千景の手をきゅっと握ったら、向こうからも同じだけの力で握り返されて、心臓が飛び出そうなほど驚いた。

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