カクテルキッス3ーたった一度のI love youー

この記事は約5分で読めます。

 至はベッドを降り、バスルームへと向かう。
 シャワーヘッドから流れてくる温かな湯で汗を流し、千景で一杯になってしまった思考をとろかす。それでもやっぱり、頭の中は千景でいっぱいだった。
(稼ぎがいいってだけで、いるわけじゃないんだろうしな……先輩ってその気になったら、それこそ不労所得で生活できそう。それでも組織を抜けないのは……たぶん)
 たぶん、密のためだ。
 漠然とした、だけど、確信に近いものがある。
 いつだか冗談めかして言っていた、〝アイツは組織を抜けたから、追われてる〟という言葉が、ひどく現実的なものに思える。
 組織にいる千景と、昔からの知り合いだったということは、密もそこにいたのだろう。そう推察できる。
 別に密のことをとやかく言うつもりはないし、深く探ろうとも思わない。至が、軽率に踏み込んでいい部分ではないのだ。必要なら、それこそ密自身の口から語られるだろう。
(密を守るため――密が見つけた安息の地を守るために、先輩はいろんな情報を操作してるんだろうな……そうするためには、内部にいないと無理だ)
 情報を得るには、組織の内部にいるのがいちばん確実で手っ取り早い。
 密が見つからないように、劇団が壊れてしまわないように、千景はひとりでその手を罪の色に染める。
(馬鹿……)
 きゅ、と蛇口をひねって湯を止める。
 こんな時、千景にとってどんな存在だったら、殴ってやれるのか。どんな距離にいたら、撫でてやれるのか。
(少なくとも、セフレじゃ無理だわなー)
 ひとりで背負い込まないでほしい。至が千景にそう言ったところで、笑って一蹴されるのが落ちだ。
 千景のために何かできるわけではない。密のために、すべてを投げ出せるわけでもない。
 ただ、他のメンバーよりは、卯木千景という人間を知っている――ただそれだけの存在が、口を出せるわけがないのだ。
(一夜限りの相手ばっかだったのも、弱みを作らないためなんだろうな。理解はできるけど、寂しくないのかな……や、引きこもりの俺が言えることでもないけどさ)
 バスルームを出て、どうしようかなと思ったが、至は寮へ戻ることにする。
 いつものホテルではあるが、少しでも千景の存在を感じられる寮の方が、落ち着いていられるだろうと。
 ゲームもしたいし、ここにいたらまた変な気分になってしまう。
 至の鞄と、千景の鞄を持って、停めていた車へと向かった。
 いまだに千景とのこういの余韻に浸っていたからか、気づかなかった。背後から向かってくる、光る刃の存在に。
「うわあああっ!」
「……はっ?」
 奇声とともに、バタバタと忙しない足音が聞こえた。腕をかすめる、何か。
 最初は、酔っ払いかと思った。ふらふらと揺れる体、ふらつく足下、かろうじて、相手が男だと言うことは理解できた。
「は、な、なに!?」
 至は慌てた。いったい、何が起こっているのか分からない。ぶつかられただけだと思ったら、相手は振り向いてまた至の方へ向かってくる。その右手には、光るナイフのようなもの。
「ちょ、待てなにこれ、なんなんだよッ!」
「わああぁあ、死ねっ、死ね、殺してやる!」
 ぞ、と青ざめる余裕もなかった気がする。足が震えて、逃げ出すこともできない。
 どうにか動いた足が、車のボンネットに当たる。尻で乗り上げて、滑るようにして向こう側に移動し、男との間に障害物を作った。
(え、なに、なにこれ、俺? 俺が狙われてんの? つか誰アイツ、通り魔? 的な? いや無理無理、どうやって回避すんのこんなもん!)
 ゲームだったら良かった。何かしら武器が与えられているし、そもそも自分の体ではないし、体力が消耗していても、アイテムで回復ができる。
 だけど、これは、現実らしい。武器もなければ、千景との行為で疲労した体は回復していない。
 金曜日、夜、ホテル街。悲鳴が響いた。女の悲鳴、男の悲鳴、誰か通報しろ、という震えた声、傷つけられる車のボディ。
 ナイフを持った男は、他に人がいるにも関わらず、至だけを狙っているようだった。
 何か恨みを買うようなことでもしただろうかと、どこか他人事のように考えた。
(ひとまず、動け、動け! あ、動くわ、おkおk、走れる)
 気の狂ったような声を上げながら、男は追ってくる。きっと誰かが通報してくれるはずだと祈りながら、至は夜の街を走った。しかし走ったと言っても、どれだけも距離は稼げていない。
(エート、なんだろあれホント。なんで俺?)
 少し振り向いて、鬼のような形相をした男を確認してみるも、見覚えはない。もっとも、普段の顔と今の顔がまったく別だったら分からないが。
(……先輩のお相手だった、とか。いや、でも入るとこ見られてないはずだし、今だって別々に出たし!)
 男同士という関係上、ホテルに入る時は細心の注意を払っているはずだ。そもそも千景がそんなドジを踏むわけもなくて、男の目的がさっぱり分からない。
 ひとまず逃げなければ、とビルの間、車の隙間、追いつかれないように走るのが精一杯だった。
 二人分の鞄、というのがこんなにも邪魔になるなんて。だけど、放り出していくわけにはいかない。千景に?がってしまう。自分のだけでも放り出せば良かったと後で思うのだが、今の至にはそこまで思考が回らない。
 何事か叫びながら追いかけてくる男。なんてホラーゲームだ、と息が上がる。
 どんな恨みを買ってしまったのだろうと、考えながら走っていると、パトカーのサイレンが聞こえてくる。ああ誰か通報してくれたのだと、ホッとした。
「逃げるな、卑怯者! お前さえっ……」
(知るか、逃げるわ普通に)
「お前さえいなければ、彼女は戻ってきてくれる!!」
「は?」
 思わず声がうわずった。ようやく聞き取れた、男の動機らしきもの。
(アホらし。何それ)
 その言葉から察するに、交際相手だか片想いの相手だかが、至にご執心なのだろう。彼女の心を取り戻すために実力行使に出たようだが、なんて馬鹿馬鹿しい。
 本人にとっては馬鹿馬鹿しくもなく、とても重要なのだろうが、他人を巻き込まないでほしいと息を吐いた。しかも、至が知り得ぬところでだ。
 その彼女とやらに、面識と、奪った心当たりでもあればまだしも――と思ったあたりで、顔が引きつった。
(あ~れ~、もしかして、今日もらっちゃったアレかなあ~)
 そういえば車の中でも話題にしたが、財務課の女性社員から名刺と一緒にプレゼントをもらった。贈られる謂われもないが、無碍に突き返すわけにもいかなくて、ひとまず受け取りはしたものの、もう彼女の顔も思い出せない。
 そのことに関わりがあるのだろうか。いや、そうだとしても、いきなり切りつけられていいはずがない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました