カクテルキッス3ーたった一度のI love youー

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至は翌朝、一人きりの部屋で目覚めた。触れて確かめずとも、千景のベッドは冷えているのが分かって、昨夜は帰ってこなかったのだと知れる。
(まあ、そうだろうな。気まずい、だろ……)
顔を合わせなくて済んだことに安堵する。
だけど顔が見たかった。複雑な気分だ。
至はベッドを降り、身支度を調えてダイニングへと向かった。
テーブルでは万里が、トーストされたパンをかじっており、ひらりと手だけ振ってくる。
高校時代には、朝から登校なんかかったりィなどと言っていた男も、大学でやりたいことを見つけたらこれだ。いい傾向である。
(お)
そうしてその向かい側に、紬の姿。それはいつからか見慣れてしまった光景だったが、至を視界に認めた途端、恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いてしまった。
(ははぁー、ナルホドね)
恐らく昨日、関係を打ち明けてしまったことを万里から聞いたのだろう。
別にからかうつもりもなかったが、そんな愉快な様子を見てしまっては、うずうずと悪戯心が這い上がってきてしまう。
至は、あえて紬の隣に腰をかけ、にっこりと笑ってみせた。
「おはよ、紬」
「お、はよう、至くん」
「……ったるさァん」
「はは、ごめんごめん、怒るなって」
万里の鋭い視線と低くなった声音に、両の手のひらを向けてみせ、ホールド・アップ。こんなことで争うつもりはない。
万里が理解してくれたように、至自身も彼らの理解者でありたい。
「紬、万里に泣かされたらいつでも相談きていいよ」
他の団員もいる手前、こっそりと紬に耳打ちすると、彼は驚いたように、目を見開いて振り向いた。そうしてはにかむ顔は、現在の彼の幸福さを物語っている。
「うん、ありがとう。今のところ大丈夫かな」
「……誰が泣かせっかよ」
ぼそりと呟いた万里の声は、本当に小さかったが、至にも、もちろん紬にも聞こえてしまった。恥ずかしさにか、紬は両手で顔を覆ってしまう。
幸せそうだなあと、あんなことのあった翌朝に、至はじわりと胸を温かくした。
そうしていつも通りの朝食を終える。カレーじゃなくてよかったと思うのは、どうしてもカレーから千景を連想してしまうからだ。
(でも、カレーじゃなくてよかったって思う時点でもう、先輩のこと考えちゃってんのワロ。……昨夜は、向こうで寝たのかな……)
それでも千景のことを考えてしまう自分が情けなくて、玄関で苦笑を漏らす。今日は電車でゲームに励む気にもならないし、車で行こうとキーを握りしめたところへ、声をかけられた。
「至くん」
「紬? どっかの客演稽古? 乗っけてこうか。まだ時間あるし」
ゆったりとした朝食を終えてきた紬だった。
彼は家庭教師のアルバイトをしているが、まさか平日この時間から家庭教師もないだろう。そうなると、時おり呼ばれる客演関係だ。そちらの稽古に行くのかと思いそう返したが、紬はふるふると首を振った。
「あの、その……ごめん、至くんのこと、万里くんに聞いちゃって」
気まずそうに視線を背けられ、ああそうかと至は肩を竦めた。
万里との関係を話したことを聞いた際に、至自身の恋も聞いたのだろう。それはごく自然な流れであり、万里を責めるつもりもないし、紬に口止めをするつもりもない。
「別に、紬が気にするようなことじゃないだろ。俺だって紬たちのこと聞いちゃったんだから、おあいこだって」
「うん……でも、ちょっとびっくりしちゃって」
「だろうね。こっちは一方通行だし」
一緒に玄関を出て、車までの短い距離を共に歩く。
知られてしまった恋心は、なぜか至自身、すんなりと受け入れられる。
今まで、千景を好きになるのはいけないことだと思っていた。今でも、少なからずそう思っている。
だけど、この想いを知っている男の誰もが、一切否定をしてこない。否定したがったのは、たぶん至ひとりだ。いけないことなのだと思うことで、意図的に千景から逃げてきたような気さえする。
「でも、誰かを好きになるっていうのは、いいことだと思うよ。叶うにしても、叶わないにしても。俺は運良く叶ったっていうか、気づいた時には好きになられてて、なってただけだし」
「そうなんだ。今度聞かせて、紬たちの話」
「うん。至くん、あの……、千景さんて、大丈夫……?」
「――え?」
紬の言葉が歯切れ悪くなる。至は息を飲んだ。
紬は、千景の何かを知っているのか。
以前の拉致事件の時に、密から何か聞いているのかもしれない。同じ組にいるのだから、そういうやりとりがあっても、おかしくないはずだ。瞬時に、いろいろな仮定が頭の中を廻った。
ここは、なんと言うべきなのか。千景のことは知っているふうに返せばいいのか、それとも何も知らないふりをしていればいいのか。
(どっちだ? 紬、何をどこまで知ってるんだ……先輩が言うわけないけど、密の方から何か聞いてる……いや、でもここで肯定したら、知らなかった場合にまずい)
「大丈夫って、何が? あ、あの人は同性がそういう対象だから、そういう意味なら平気だよ」
あの拉致事件で、恐らく千景と密の間に、何かあったことくらいは知っているのだろう。
あの二人が昔からの知り合いであったこと、軽くない確執があったこと、あの事件で和解できたことくらい、誰だって推察ができる。
千景がどんな組織に属しているかまでは、紬は知らないはずだ。
至はそう解釈して、話題を逸らしてみた。
千景の立場が悪くなることだけは避けたい。その引き金を引いて、嫌われたくない。恐らくあの男は、邪魔になると知ったら平気で手を離す。だから、紬には踏み込んでほしくない。
「そうじゃなくて……千景さんて、なんだかちょっと、何を考えているか分からない時があるっていうか。あ、ごめんね貶す意図はないんだ。あの人を相手にして、至くんが傷つくんじゃないかって、俺、心配で」
「――以前よりは、格段に分かるようになったけどね。壁が、薄くなってる。ありがと紬、俺は大丈夫だから、心配しないで」
そうだよなあと、至は心で思って笑う。
以前の千景は、顔は笑っていても、奥で何を考えているか分からない時があった。
心理学を専攻していたらしい紬には、それは顕著に感じられただろう。職場で接していた至でさえそうだったのだから、紬がそう思うのは仕方がない。
「あの、だからね、苦しくなったら、ちゃんとよりかかってね。俺でも、万里くんでもいいから、ちゃんと言ってほしい」
至は目を瞠って、紬を振り向いた。
どうやら、本当に言いたかったのは、そっちの言葉らしいのだ。回りくどいことをせずに、直球で言ってくれればいいのにと、目を瞬く。だけど、紬らしいとも思ってしまう。
「うん……そうするよ、ありがとう紬」
「よかった、口出すなって言われるかと思っちゃった。今度俺の話も聞いてね至くん」
「ハハ、紬の場合はさ、愚痴っていうよりのろけになるんじゃない?」
「えっ? そ、そんなことないと思うけどなあ」
言いながらも、紬の頬は赤い。きっと幸せな恋愛をしているのだと、至の心も軽くなった。
(うん、でも……本当に、肩の荷が下りたっていうか、楽になった。話せる誰かがいるって、こういうことか)
そういえば、高校時代にも同じような感覚を味わったことがある。
ゲーム好きなことを隠して、自分を作っていたあの頃、話せる相手がいた時もある。
あの時も、すっと体から力が抜けていったような気がするのだ。
「じゃあ至くん、いってらっしゃい。気をつけてね」
「ん、ありがと」
至は車に乗り込み、見送ってくれる紬にひらりと手を振って、アクセルを踏み込んだ。
(これで、俺と先輩のことを知ってる人は三人、か……)
知られたくはなかった。できれば、墓まで持っていきたい事実でもあった。
千景にこれ以上ハマりたくないと思う傍らで、もっと溺れてしまいたいという思いがある。
それを、許された気分だった。
(誰も否定しないんだもんな。ほんと、お人好しばっか)
誰か一人くらい、〝馬鹿なことはやめろ〟と止めてくれてもいいものを、彼らはいとも簡単に、人の恋心を受け入れてしまう。
否定してくれるのはきっと、千景くらいしかいない。
(否定されたい気持ちと、受け止めてほしい思いがごちゃ混ぜだ……恋って面倒くさい)
面倒くさいと思うのに、やめてしまえない。
至の瞳は千景を映したがる。唇は彼の名を呼びたがる。指先は触れたがる。
信号で停まるたび、至は両手で握りしめたステアリングに突っ伏して、ゆっくりと息を吐いた。

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