カクテルキッス3ーたった一度のI love youー

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「なんかあったんすか。遅えなーって思ってたけど、どうせ千景さんといるんだと思ってたのに」
「いや、先輩とは別行動。ちょっと、モテる男はつらいなっていうアレだ」
 万里に促されるままに、洗面所で傷口を洗い、改めて状態を確認した。深くはないなという万里の言葉に、安堵もした。
「痴情のもつれ?」
「っつか、それに巻き込まれた感じ。いきなりナイフで切りつけられた」
「は? どこのどいつだよそれ、秒でヤッてくっから教えろ」
「警察に逮捕されたから平気だって。現行犯てやつ。別にニュースにもならないんじゃない?」
「あぁ……ならいいけど」
 部屋に戻り、万里が消毒からの手当てをしてくれる。さすがにケンカ慣れしてるんだなと苦笑した。
「これくらいなら痕は残らないと思うけど……」
「そっか、良かった。サンキュ」
「なあ、アンタほんといろいろ自覚した方がいいぜ」
 手当てを終えて、万里が心配そうに呟く。痕は残らないだろうという見解に、やはり役者としてはホッとした。
「自覚?」
「女に好かれやすいっていうか」
「万里に言われたくない」
「でもさ、至さん。変な意味じゃなくて、最近のアンタ、艶っぽいの分かってる?」
 眉間にしわを寄せて、万里はとんでもないことを返してくる。まさか彼の口から、艶なんて言葉が出てくるとは思わなかった、と若干失礼なことを思いつつ、目を瞬いた。
「千景さんとのことがあるからなんだろうけど、前より、たぶん……いい感じになってっから。あ、だからって俺がどうこうは全然ねぇんだけど」
「いやそりゃ分かるけど。艶……艶ぁ? 万里、お前大丈夫? 眼科行く? なんなら俺の使い捨てコンタクトやろうか?」
「真面目に聞けよ。今回はこれくらいで済んだけど、また変なことに巻き込まれっかもしれねえだろ」
 万里は呆れと怒りを混じらせて、包帯を巻いた右腕を指さしてくる。
 女性に好意を持たれやすいというのは、自惚れでなく自覚しているし、最近ちょっと、そういうふうに絡まれることが多いなと感じていたけれど、そんな理由だとは思っていなかった。みんな恋がしたい季節なんだよと、無理やり納得していた気がする。
「アンタに何かあったら、劇団のヤツら困るし、何より心配すんだろ。俺だってそうだよ。だから、もうちょっと気をつけろって言ってんの」
 年下のくせに、いや、下手に歳を取っていないからなのか、万里はこういうとき、ひどく素直に心を表してくる。彼が素直にならないのは、ライバルである十座に対してだけなのだろう。
 至は手当てされた右腕にそっと触れ、俯いた。
「うん……ごめん、今回のこと、軽く考えてるわけじゃないよ。気をつける」
「ん。そんで、何かあったらちゃんと言ってくださいよ。秋組はカチコミ慣れてっし」
「ははっ、そうならないようにしとくよ。ありがと万里、手当ても」
「おー。……今寮にいるヤツらには、言わない方がいいんすか?」
 至が素直に謝ると、万里は照れくさそうにしながらも、安堵してくれたようだ。至は万里の問いかけにそうだなと頷いて、ナイトウェアに着替えた。
「俺個人のトラブルだし、事故みたいなもんだしね。変に心配させることないだろ」
「あー、特に咲也とか、めちゃくちゃ心配しそうっすね。リョーカイ。じゃあ俺部屋に戻るわ」
 肩を竦めて、万里は至の意向を汲んでくれる。まったくありがたい存在だと、胸をなで下ろした。
 二人部屋に、ひとりきり。
 ふう、と息を吐いてやっと、実感が湧いてくる。
 闇に光る鋭いナイフ。向かってくる悪意。足下からせり上がってくる恐怖。
(うわ、マジかよ……)
 ぞわり、と体が震える。あからさまな悪意が、これほどにおぞましいものだとは思わなかった。
 刺した刺されたという世間のニュースを聞いても、所詮は他人事だと思えた。怪我をした人は気の毒だと思うが、そんな非日常が、どうにも思い浮かばなかったのだ。
 千景に逢うまでは。千景の真実に気づくまでは。
「……ねえ、こんなのでも怖いし、こんなかすり傷でも、痛いんですよ、先輩……」
 至は、手当てされた右腕をさする。避けきれなかった傷は痛みを伴って、至を現実へ引き留める。
 万里も言うように、深い切り傷ではなかったのに、痛みが残っているのだ。
 あの短時間の悪意でも恐ろしいのに、こんな小さな傷でも痛いのに、千景はこれまで、どれだけの痛みを負ってきたのだろうか。物理的にも、精神的にも。
 千景をすべて知ることなどできやしない。
 だけど彼は、その痛みを許容してまでも、大切なものを守ろうとしている。それは過去の思い出でもあるし、今手の届く距離にいる家族でもある。
(俺もその中に入れてんのかな、とか……そういうの、考えるより先に、心臓痛くなんのな)
 千景の感じた孤独が、ほんの少し見える。
 密が記憶を失っていたということは、彼はその時、独りだったはずだ。どこにいるかも分からない状態で、どういう感情を抱いたかまでは分からない。
(でも、だから、今……あの人はここを守ろうとしてんのか……)
 胸が締めつけられる。怪我を負う危険を、命さえ危ういことを理解していても、千景は家族のために闇に身を落とす。
 なんて不器用で、大きくて、深い愛情なのか。
 至の中の想いが、大きくなる。深くなる。不器用すぎて伝えられもしない想い。
「怪我、してないといいな……」
 今日の仕事はいったいどんなものなのだろう、と息を吐く。詳しく聞く権利はないし、そこまで千景の世界に踏み込めない。千景の守ろうとしているものが、日常の平和であればあるだけ、自分がそちらに踏み込むわけにはいかないのだ。
「あの人が守ってるのは、日々を演劇に燃やす愛すべき馬鹿たちだしね。密は別にしても」
 だから至は、必要以上に踏み込まないでいればいい。千景が〝日常〟を感じられる要素であればいい。
 他の団員よりほんの少し、卯木千景という人間を知っている。それだけでいいのだ。
 どうか無茶なことをしていませんように。
 そう祈りながら、いつものようにゲームに手を伸ばす。それこそが、至の日常だ。

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