カクテルキッス3ーたった一度のI love youー

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「うそ、マジ最悪……」
「悪いな、時間がない」
「こんな状態で放置とか!」
「自分で抜けるだろ。俺のことオカズにしていいから」
 千景の指先が頬を撫でていく。そんな些細な刺激にさえ震えるのに、千景はそれ以上触れてくれなかった。ひとりでさっさとバスルームに向かってしまって、本当に慌ただしい。
「し、信じられん、鬼かっ……」
 中途半端に高められた熱が、体の中でくすぶる。至の屹立はむなしく天井を指し、自分でどうにかするしかないようだ。
 至はおずおずと手を伸ばし、自身をしごきあげる。バスルームとはいえ相手がすぐ近くにいるのに、自分で処理することの空しさよ。
「ふっ……う、うぅ」
 せっかく本人から許可が出たのだし、遠慮なくオカズに使わせてもらう。
 もう、見られようがどうしようが、どうでもいい。今はこの熱をどうにかしたい。
「あ、あん、先輩、や……駄目、だめ、まだ、あぁっ」
 先ほどまで千景でいっぱいだったそこに、自分の指を入れてみるも、やっぱり物足りない。
「う、うぅ、あ」
 ないよりはマシだけど、と中をかき回して、いいように締めつけて、千景の吐息を思い出す。茅ヶ崎、と呼んでくる切羽詰まった声を思い出す。
「あ、あ、いやっ、いく、いきそ……っ」
 至は体を丸めて、びくびくと震わせる。白濁とした体液が飛び出して、シーツを汚した。
「あ、あ……ぁ」
 荒い呼吸で胸が上下する。クラクラする視界と、酸欠で痛む頭が煩わしい。
「はあ……しんど……」
 この分なら、もうほんの数分相手をしてくれれば、千景でイけたのではないかと思う。
 物足りなくてしょうがないけれど、放置していった張本人は、なんでもないようにバスルームから出てきた。
(……――あ)
 抗議でもしてやろうと体を起こした至の瞳に、〝卯木千景〟ではない男が映る。
 着ているものはいつもと同じだし、眼鏡も一緒なのに、声をかけづらい。
 きっと彼は今、〝エイプリル〟になろうとしているのだろう。
 なろうとしている、と思ったのは、彼がちらりとこちらを見たからだ。
「悪いけど、俺の鞄持って帰って」
「え、あ、はい……」
 いつもより静かで、わずかに低い声が、至の耳をすり抜けていく。
 これから向こうの家に向かって、着替えでもするのだろうか。まさか、日常を匂わせるスーツをまとったままで、彼が仕事をするとは思えない。
 もう彼と視線が合わない。後ろめたさなのか、意識を集中するためなのかは分からないが、こちらを見ようとしないのは、意図的に感じられた。
 千景が、足早に部屋を出て行こうとする。至は思わず、口を開いた。
「あのっ、先輩!」
 彼の足が、ピタリと止まる。止まるつもりではなかったとでも言いたげに、小さな舌打ちが聞こえてきた。
「お、……おやすみなさい」
 口をついて出た言葉に、彼はもちろん、至自身も驚いて目を見開いた。
(あ、馬鹿だ。こういうときって普通、〝気をつけて〟とか、〝怪我しないで〟とか、そういうこと言うもんだろ)
 言ってから、なんて間抜けな言葉なんだと至は思うが、もう遅い。彼の耳にも届いてしまっている。呆れられるだろうなと諦めた頃、彼が一つ瞬いた。
 右の人差し指の背に口をつけ、その指を放るように押し出してくる。
「おやすみ、茅ヶ崎」
 それだけ言って、千景は部屋を出ていった。至はひとりきり残されたベッドの上で、頬を真っ赤に染める。
「な……にあれ……」
 力が抜けて、へにゃへにゃと崩れていく。
 千景から、キスをもらってしまった。おやすみを返してもらってしまった。
 あの〝おやすみなさい〟は、彼にとって許容範囲だったのだと知ってホッとするのと同時に、あんなキスを投げられて、死にそうなほど心臓が高鳴る。
「ずるい……マジでずるいあのひと……まさかそんなことするとは思わないだろ……」
 ううう、とベッドの上でうなりながら、千景に対してあった怒りもどこかへ飛ばしてしまう。
 あんな仕種が似合う人間なんて、そうそういやしない。しかも、至の気持ちを知らないでやっているのだから、余計に始末が悪い。
(でも……仕事、大丈夫なのかな、危険なヤツじゃないといいんだけど……っていうか、たぶん危ないヤツだろうけど)
 仕事を優先され、この状況で放置された。それはとても寂しい。悔しい。
 なぜ千景が危険なことを続け、組織を抜けないのか、分からない。
 いや、分からないわけではないのだ。
 千景の所属している組織が、どれほどの規模で、どれだけ深い闇を抱えているのかは知らないが、抜けるのはきっと、任務に就くより危険なことなのだろう。
 組織の存在を知っている、秘密をたくさん知っている人間を、そう簡単に放流するはずがないのだから。

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