カクテルキッス3ーたった一度のI love youー

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「鬼か」
「至さん顔怖ぇよ」
 結局どれだけも睡眠を取れずに出社して、体の痛みと気怠さをどうにか隠して仕事をこなし、どうしても遅れがちになる案件を必死で片付けて、やっぱり定時に帰れず残業をして寮に戻ってきた。
 監督が用意してくれた夕食のカレーが、とても美味しかったのが救いで、稽古もなかったのが幸いした。
 風呂で汗を流して、最近ご無沙汰だった万里との協力プレイに突入したところだ。
 鬼か、といっても、ゲームの進行のことではない。また、万里に対して言ったものでもない。
「あー……悪い、疲れてて」
「いっすよ。なんか把握できたし」
「俺お前のそういうとこ嫌いだわ」
 一応クエストだけは進めるものの、ハードなバトルは選ばなかった。疲労が顔に出ているのだろうが、万里が言っているのはそういうことではない、と分かってしまうのも癪だった。
「千景さんとまーた何かあったんだろ。つか、俺にバレたことでモメたりしてんの?」
「そうやって人の傷えぐんな。……モメてはない。いろいろ言われたけど」
「平気なんすか」
 ああ、と至は悟る。ゲームの共闘はいつものことだけれども、万里は心配してきてくれたのだと。
(どいつもこいつも、お人好し。だから力技って言われるんだよ)
「さぁ……とりあえず、セフレは続けてくれることになってるけどね。首の皮一枚で?がってる感じ」
 ?がっている、のだとは思う。
 対価を言った至に対して、きっちりと抱いてくれたわけだし、あれで〝終わり〟にはならないはずだ。
「勢いで告ればよかったのに」
「馬鹿、言ったらマジで終わるわ」
 無責任なこと言いやがって、と至は思う。
 この関係が良い方向に変わればいいが、とてもそうは思えない。
「そうかな、無理っぽくもないと思うんすけど」
「無理な事情があるんだよ」
 千景は、普通の世界の人間ではない。命の危険さえあって、今回は本当に運が良かっただけで、もっと危険な任務もあるのだろう。
 そんな彼が、色恋沙汰にうつつを抜かすとは思えない。もしそんな相手ができたとしても、組織のことをよく分かっている、かつ自分の身をちゃんと守れる人だけだろう。
 至には、無理だ。
 千景のことを、ほんの少し知ることができたけれど、知るだけでは、駄目なのだ。
 中途半端に知るくらいなら、いっそ何も知らない方が良かったのではないかとさえ思う。
「好きってだけじゃ、どうにもならないものがあるんだ」
 だから自分たちはセフレでいいのだ。
 想うこの気持ちを抑え込んででも、傍にいられればそれでいい。
 たくさんの闇を抱え込んでいる千景の、逃げ道にでもなれればいい。
 心臓の痛みなんて、なんでもない。千景に離れていかれることを考えたら、恋心を押さえつけることなんて、簡単にできる。
 隠して、押し殺して、笑いながらセックスに満足して、じゃあまた今度、なんてキスで終わることくらい、なんでもない。
 今日だって、職場では普通にできたはずだ。
 なんでもないふうを装うために、視線を重ねることはなかったし、自販機でカフェオレのボタンを押すこともなかったし、ランチの時間もわざとずらした。
 千景が退社していくのを確認してホッとして、ようやく仕事に本腰を入れたくらいだが、不自然なことはなかったと思っている。
「そんな顔で言うことかよ。ったく……」
「うわっ」
 万里がコントローラーを放り出して、至の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「そんなしんどそうな顔して、諦めたようなこと言わないでくださいよ」
 そのまま肩に抱き寄せてくれて、千景とは違う体温が至の肌に伝わってくる。
「アンタの言う事情がどんなもんか知らねーけど、本当にどうにもなんないんすか? 向こうだって、アンタの気持ち知ったら、考え変わるかもしれないだろ」
「どうだろ……難しいと思うよ。そもそも俺は言う気がないし、言っても変わるとは思わない」
 至は自嘲気味に笑う。単純に、フラれるのが目に見えていることもあるが、それ以上に、千景の考えを変えられるほどの力など、ない。
 それを実感するのが怖くて、千景にその理由を押しつけている。こんな狡さを知ったら、万里は応援なんてしてくれなくなると、口を噤むのだ。
「こんな俺に好かれても、あの人だって困るだろ」
「何言ってんだよ、イケメンエリートが」
「いや、そんなの武器にも盾にもならん。向こうが手強すぎる」
「あー」
「でも、慰めてくれてありがとな、万……」
 いつまでもこうしていたら紬に悪い、と至は万里の肩から体を起こす。
 千景とは違う温もりも心地よかったけれど、これは自分のものではない。他に必要としている人がいる上に、自分も求めている温もりはたったひとつだ。
 そう思ったところに、衝撃が走る。
 万里の向こうに、千景を見つけたからだ。
 頭が真っ白になった。
 彼は開けたドアの枠にもたれかかり、じっとこちらを眺めている。唇を引き結び、心が読めない、表情のない顔でだ。いや、そもそも千景の心が読めたことなどないが、問題はそんなことではない。
「至さん? ……あ」
 至が硬直したせいか、万里も千景の存在に気がついたようで、ドアの方を振り向く。だけど万里は、気まずそうな素振りも見せず、ハハッと笑った。
「やっぱ鈍すぎって思うんだけどよ、これ」
 ぼそりと呟いた万里の言葉が、至に届いたかどうかは、分からない。至は、動揺でそれどころではなかったのだ。
「せん、ぱ……いつから」
 千景に、どこから聞かれていたのかということが、頭の中を支配する。
 千景の気配を感じ取れなかった理由は、過ぎるほどに分かるが、寮内でする会話ではなかったとカタカタ顎を震わせた。
 千景に知られたかもしれない。
 浅はかで、馬鹿げた恋心。千景に受け入れられるわけもない想いを、知られたかもしれない。
「先輩、聞いてました? どこから!?」
「気づかない方が悪いんだろ、怒るな」
「どこからだって訊いてるんですよ!」
 ふっと既視感に襲われる。以前同じようなことがあったのを思い出す。立場はまるっきり逆だが、千景が密と話し込んでいるところに、遭遇してしまったことがある。
 あの時は、どこから聞いていたんだと至が訊かれる立場だった。
「場合によっては、弁解させてもらいます」
「至さん、弁解って」
「万里、いいから黙ってて」
 どこから聞かれていても、まずいような気がした。心臓がドクドクと音を立て、時間を巻き戻したい衝動に駆られる。
「〝向こうだって、アンタの気持ち知ったら〟……あたりかな」
 千景が、ドア枠にもたれていた体をゆっくりと起こし、部屋の中に足を踏み入れてくる。至は必死で自分の中の時間を戻し、その時点からこっちで、決定的な言葉を出しただろうかと思い起こした。
「あ……そ、う、ですか」
 幸いにも、千景の名や先輩という音は口にしていない。ホッとして力が抜けていく。冷や汗までかいていたことを自覚して、乾いた笑いを漏らした。
「至さん」
「あー、平気、ありがと万里。大丈夫だって」
 心配そうな声で、万里が声をかけてくる。誤解をされるとは思わないが、なぜか機嫌の悪そうな千景の傍に、これ以上万里をいさせるわけにはいかなかった。
「ごめん万里、ちょっと先輩と話すから」
「あー、いっけど、お互いに素直になった方がいいと思うぜ」
 万里はそう言って、ソファから腰を上げる。呆れたようなため息には苦笑を返して、千景とすれ違う万里を見送った。
「で、どういう弁解したかったんだ、茅ヶ崎は。昨日?をついたことに対して?」
「?なんてついてません」
「好きな人はいないんじゃなかったの?」
「それはっ……」
 部屋の中央で千景と向き合うけれど、視線が合わせられない。こうも動揺した状態では、千景に悟られかねない。
「それは、過去っていうか、その、そう、昔の話で……どうにもならないっていうか」
 ?をついた。過去でもなんでもない。千景の話をしていた。今現在の、恋の話をしていた。
「……そうまでして隠したいなら、いいけど。まさかその男の代わりにされていたとはね」
 至は目を瞠った。千景を振り向くけれど、珍しく千景も顔を背けていて、視線は一度も重ならない。
「先、輩っ、ちが、違う!」
 だけど、これだけは否定しておかねばならない。至は千景の腕を掴んで、無理やり振り向かせた。
「代わりとか思ってない、代わりになんかっ……誰かの代わりになんか、なるはずないでしょ……!」
 千景を、誰かの代わりにしたことなんかない。
 卯木千景という人間の代わりなど、誰にもできるはずがない。
 誓って、そんなつもりで接していたのではないと訴えかける。
「俺は、先輩としたかった! 先輩だから……してほしかったんですよ、代わりなんて、思ってない、他の誰とも、あんなこと……できません」
 じっと眼鏡越しの瞳を見つめる。
 もう、これで知られてしまってもいいと思うほど、千景もまっすぐに見つめ返してきてくれた。
(先輩は、ちゃんと俺を見てくれてる。恋愛って意味じゃなくても、こうして見てくれる……なんかもう、それだけでいい気がしてきた)
「先輩が……こういう俺のこと嫌なら、やめ、ても、いい、かなって……思います、けど」
 千景が好きだ。
 止められない想いは苦しいけれど、言えない想いは胸が痛いけれど、それは至の勝手だ。千景を巻き込むことはない。途切れ途切れの言葉は、本音と裏腹であることを物語っていたけれど。
「茅ヶ崎」
 千景の手が、頬を撫でる。返事をする意味で、至はひとつ瞬いた。
「一応確認するけど、俺は、――お前を抱いていてもいいのか?」
 千景が、苦しそうに顔を歪めて訊ねてくる。とても行為を望んでいるふうには見えないのだが、その言葉に甘えてもいいものだろうか。
「……はい」
 欲には勝てない。千景が何をためらっているのか分からないが、触れてくれるのならば甘えたい。至は結局そう返して、目を閉じた。
 少しの間があって、千景の唇が触れてくる。触れるだけのキスは、自分たちにしては珍しくて、深いものより照れくさい。だけど、心地がよかった。

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