カクテルキッス4-ふたりの約束-

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いづみからの一報で、千景の無事は分かっていた団員たちだったが、朝改めて現状を知らされた時も、動揺を隠せない様子だった。
「そんな、千景さんが……」
「ちかげ、ぜんぶわすれちゃったの~?」
「Oh……昔のヒソカと一緒ネー……」
「劇団、どうすんの?」
「怪我の方はどうだったんですか?」
昨夜、というか朝方だったが、いづみたちの帰宅を待たず就寝させられた面々が、特に質問責めにしているようだった。
至は臣の作ってくれた朝食を無理やり、そうとは見えないように詰め込んで、千景の着替えを見繕っていづみに渡し、早めに寮を出た。万里や紬の視線を感じたけれど、振り返ってなどいられない。
この状態では今日も運転は危ないかなと、自身の体調や昨夜のフラッシュバックを懸念して、電車通勤に切り替える。タトンタトンと単調な振動に揺られていれば、心を無にできた。
職場の方はかなり慌てたが、不思議と仕事は少しの振り分け程度で済むらしくて、千景には長期の療養期間をくれた。有休も溜まっていたのだろう。
仲介役となってしまった至は、人事部や総務部とのやり取りで、自分の仕事が少しも片付かなかったが、忙殺されていれば嫌なことは考えずにすんで、むしろありがたかった。
(……職場の方でも完璧っていうか……いや、こっちだから、かな。いなくなっても仕事回るようにしてある……)
昼休みには、お見舞いだのなんだのを持ってくる社員、主に女性たちであふれ、至のデスクはあっという間に千景への見舞品で一杯になった。
そのうち何名かは、至と話す口実にしていたようだが、さてこの荷物をどうしよう、と思案する。
千景の入院も、そう長いものではないし、ナマモノだけ病室に届けてやろうと整理を始めた。気を利かせた同僚が紙袋をどこかから調達してきてくれて、ありがたく使わせてもらう。
そうして仕事が片付かないまま、至は定時で退社した。定時で上がらなければ、病院の面会時間が過ぎてしまう。
電車で二駅。
歩けない距離ではなかったが、この荷物を持って歩くのは避けたかった。もっとも、この時間帯では電車も混んでいて、押し潰されそうな見舞品を守るのに大変な思いをしたわけだが。
病室の前について、至はごくりと唾を飲み、深呼吸を三回ほど繰り返した。
千景に、普通に接せるだろうか。会社の後輩として、劇団の仲間として。
(普通に、普通に。普通ってどうやるんだっけ。ホント思い出せない)
千景と、ただの先輩後輩として接していた時のことが思い出せない。いっそ自分も記憶喪失のようだと思ったが、ここでこうしていてもしょうがないと、意を決してノックをし、返事を聞く前に勢いだけでドアを開けた。
「あ」
千景はベッドの上に体を起こして、本を読んでいたようだ。至の姿を認め、少し気まずそうに顔を歪めたのが、心臓に突き刺さる。
「先輩、具合どうですか」
「え、ああ、うん。痛みとかはないんだ、平気。えっと……ごめん、きみの名前も分からなくて。昨日の人たちが、至って呼んでた気はするんだけど……それで合ってるかな」
どき、と胸が痛みでない感覚を伝えてくる。
名前は至で合っているが、千景にその音で呼ばれたことはない。
「は、い……茅ヶ崎、至です。俺、会社の後輩で、同じ劇団に所属してました。寮も……同じ部屋で」
「そうなんだ。うん、劇団に入ってたってことは、今日来た……えっと、いづみさんに教えてもらった。さっき脚本も読ませてもらったよ。俺が役者だったなんて、まだ信じられないけどね」
千景はまだ何も思い出せないらしい。
頭にも、腕にも包帯が巻かれたままだ。
記憶をなくす前よりも穏やかに音を操るのは、不安に揺れているからだろうか。
「会社の後輩ってことは、至とも、仲が良かったんだろ。ごめん、忘れてしまって……職場の方、大丈夫なのかな。仕事回るのかどうか……」
「まあ、職場でもそれなりにやりとりはありましたね。部署は違うんですけど。あ、これみんなからお見舞いです。入院、そんなに長引くわけじゃないんですよね。ナマモノ以外は寮に持って帰ります。あと、職場からは長期療養もらいました。落ち着いたら復帰してほしいって」
至は、千景とは逆に早口になってしまう。自分とのことを知られないようにと思えば思うほど焦りが生まれて、まともに顔が見られなかった。
「それと、仕事は部署の方でちゃんと回るみたいです」
「そうなんだ? 俺いなくても回るんだったら、あんまり大した仕事してなかったのかな……」
「違いますよ、誰が見てもできるようにしてたんでしょ。海外の取引先多かったから、俺は手伝えませんでしたけど……先輩は、よく……俺のこと気にかけて、手伝ってくれました」
しょんぼりと肩を落とした千景に、至は即座に否定を返す。千景が仕事のできない、ただのイケメンというだけなら、こんなに早く会社の手続きが終わるはずがない。こんなにたくさんの見舞品が集まるわけがない。それはひとえに、千景の人望だ。
「だから、先輩が大丈夫だって思うタイミングで、復帰したらいいと思います。日常生活には問題ないって、先生も言ってたんでしょう。俺も、その……さ、支えますから」
「ありがとう、至。ハハ、家族がいないって聞かされて、ちょっとショックだったんだけど、後輩や仲間には恵まれたみたいだな」
千景はそう言って笑う。うっかりときめいてしまいそうになって、慌てて顔を背けた。
「あ、先輩のタブレット持ってきましたよ。暇つぶしにはなるでしょう」
「俺が使ってたもの? 助かるよ。ここら辺から何か思い出せないものかな」
千景は至から荷物を受け取って、肩を竦めて苦笑する。至はなぜか、渡したくないような気分になって、タブレットをぎゅっと握った。
千景は忘れたかったのではないのか。このまま忘れていた方がいいのではないか。無理に思い出すことはないと。
「至?」
「えっ、あ、す、すみません……」
タブレットから手を放そうとしない至を、不思議そうに呼ぶ千景。至はハッとして手を放した。思い出せば、聞かなくてはいけないことが出てきてしまう。
どうして、と、納得のいく答えをもらうまで放せなくなるだろう。
思い出してほしいけれど、思い出してほしくない。
「ねえ至、劇団って公式サイトみたいなものあるのかな。見てみたい」
覚えていなくても、千景はここにいてくれる。以前みたいに、以前より、穏やかに、優しく笑いかけてくれる。それ以上は望みたくない。
「ありますよ。夏組にデザインやってるヤツがいて、すっごい格好いいの作ってくれてます。えーと……URL」
ブラウザを立ち上げて、そう長くはないURLを打ち込むか検索してもらおうと思ったが、千景が途中で「あ」と手を止めた。
「これかな。ブックマークに入ってた」
至がそうさせるよりも早く、千景の指先が動いた。タップして開いたのは、確かにMANKAIカンパニー公式サイトで、至はぱちぱちと目を瞬いた。そうして、思わず噴き出す。
「マ、ジか、せんぱ……っかわい、サイトをブックマークとか、本当カンパニー大好き過ぎだろ……っ」
千景が劇団を大切にしているのは知っていた。直接言われたことはなくても、分かる。自分という人間を受け入れてくれた、大切な居場所だろう。
そういう意味では、千景に負けないくらい至も劇団を大切に思っている。
「劇団員紹介……ああ、確かに俺がいるね。至と同じ春組なのか……」
「はい。最初は五人だったんですけど、先輩が入ってくれて、六人に。ちなみに他の夏秋冬もおんなじ感じですよ」
劇団員の写真やプロフィールが載っているページを、千景は熱心に確認している。やがて、ある人物のページで指先が止まった。
(――あ)
それは、御影密の紹介ページ。
「この子……」
他の団員と反応が違う。至は思わず、ガタリと腰を上げた。
「密のこと、何か覚えてるんですか!?」
「……いや、分からない。昨日いた、よね……」
「ああ、はい……先輩の無事が分かったら帰りましたね……」
そういう意味かと、至は再度腰を下ろした。
密のことだけでも思い出したのかと思ったのにと、がっかりしたのが伝わってしまったのか、千景が気まずそうな顔をした。
「ごめん……」
「あっ、いや、すみません、俺らのことは気にしないでください。別に思い出さなくてもいいし、誰も責めやしませんよ」
「……ねえ、至って、俺と特別親しかったりしたのか?」
「……――は?」
ドクンと心臓が音を立てる。思い出さなくていいと言った傍から、千景は核心をついてきた。頭のどこかに、残っているのだろうか。
「な、んで」
「昨日彼が……密が言ってた。オレのことはともかく、至まで忘れるなんて、って……密だけが、唯一俺を責めてきたんだ」
至は目を瞠った。まだ千景自身混乱していただろうあの時、密の放った言葉を明確に認識していたというのか。
「だから、至とは親しかったのかと思って。それなら本当に申し訳ない……」
「い、いや、だってほら、職場も部屋も組も同じなんで。そりゃ他のメンバーよりは、多少仲が良かったかもしれませんけど。と、特別な意味なんてないですよ」
至は慌ててぶんぶんと手を振り、特別の意味を払いのけた。特別イコール恋人だったとは思っていないだろうが、変な気を遣わせたくない。事実、自分たちは特別な関係ではなくなっていたのだから。
「あの……先輩、俺のこと迎えに来てくれてたんです。そこで事故に遭って……俺のことかばったんですよ。謝るのは、俺の方です。俺のせいでこんなことになって、すみません……」
本来なら千景が負わなくていい怪我だった。忘れなくてもいい記憶だった。いや、彼は忘れたかったのかもしれないが、原因のひとつに至があることは否めない。
「至を? ふぅん……そうなんだ」
千景は目を丸くして、そしてじっと見つめてきた。普段になかった名前で呼ばれ、そんなにまっすぐ見つめられてしまっては、胸が変に騒ぐ。気を引き締めていないと、言いそうになってしまう。
自分たちは恋人なのだと、都合のいい〝?〟を。
「至が謝ることないと思うけど……もしそれを苦しく思ってるなら、お願い聞いてもらってもいいかな」
「お願い? えっと……なんです? 俺ができることであれば」
「もっと劇団のことを教えて」
「は? そ、そんなの……他にもっと適任いるでしょ、監督さんとか……あと、左京さん。眼鏡のヤクザっぽい人いたでしょ、昨日」
「至から聞きたい。至の声、すごく安心するっていうか……心地いい? なんでだろう……」
千景はそう言ってぽすんと体をベッドに沈める。至はカッと?を紅潮させた。そんなことは、千景からも聞いたことがない。
恥ずかしくて嬉しくて、至は口許を押さえた。
「あ、ごめん、でも至も仕事忙しいよな。彼女とデートとか、あるだろうし……ごめん、都合も聞かずに」
「いやっ、それはいいんですけどね。先輩って今までそういうカンジで女の人口説いてたのかなって。今の、男の俺でもちょっとキたっていうか、恥ずかしい」
「えっ? そういうつもりはなかったんだけど、ごめん」
千景が慌てて否定をしてくる。ほんのりと?が染まっているようで、新鮮なものを見た気分だ。
「俺でいいならいくらでも。ちょうどそういう親しい相手もいませんしね」
「そうなの? でも至はモテるだろ。ああ、女の子にしてみたら、イケメンすぎて近寄り難いのかな」
先輩に言われたくありません、とにっこり笑って返してやった。実際、見舞品だって九割が女性からなのに。
「そういえば、俺は? 誰かそういう……恋人とか、いたのかな……いたのなら、その人にも知らせてあげないと」
「彼女の話なんか聞いたことないですよ。もちろん見たことも。仕事終われば帰って稽古だし、公演なくたって他の組のサポートとかあるし、休日だって先輩は引きこもってネットサーフィンか、万里と脱出ゲームか監督さんとスパイス巡りかだったし」
そもそも女性に関心がなかったようだとは、言わないでおいた。同性愛者だと分かれば、いつか至とのことに行き着いてしまうかもしれない。他人に聞かされた〝先入観〟や〝責任〟だけで、ヨリを戻してほしいわけではない。
(例えばこのまま記憶をなくした状態で、知らない女の人と幸せになるルートだって、あるわけで。……ある、ん、だよな……しんどいことに)
千景に自分とのことは言わないと決めた以上、彼がこの先誰を好きになろうが責めることはできない。
できればそれを祝福できるよう、心を強く持たなければと、気づかれないように太腿の上で拳を握った。
「俺もフリーだったのか……というか、芝居ばっかりだったのかな」
「そのケはありましたよ。入った当初は、ホント素人のくせに演技だけは上手かったし。腹立つ」
ちょっとしたいざこざを乗り越えてからは、芝居馬鹿……というか、春組馬鹿になった。
「紬と丞ほどじゃないんですけどねー。割と、まあそれなら仕方ないかって言いながらも、すごい楽しそうにしてました」
至は劇団サイトの紹介ページを見せながら、それぞれの個性を呟いていく。平均年齢がいちばん低い夏組は元気で騒がしいだの、秋組はガラが悪くて面白いだの、お酒を飲むなら冬組での飲み比べはやめた方がいいだの。
そして春組は、いちばん丁寧に、ゆっくりと説明した。
「真澄はね、本当に監督さんのこと大好きなんですよ。重いなーって思うけど、若さですかね。分かりやすいアプローチしてて、いつか実るといいなあって。綴はうちの大事な劇作家。役者と作家の両立って本当に大変だと思いますよ。加えてちゃんと大学行ってんですから。あ、脚本読んだんでしょ? どうでした? 泣きますよね」
至が話している間、千景は小さく相づちを打ってくれる。言葉が途切れた辺りで、質問が飛んでくる。それに答え、また話す。変な茶々を入れられることもなく、ゆったりと時間が流れた。
「シトロンは日本語の使い方が面白くて。たまにわざとやってるみたいですけどね。だけど笑いが絶えないから、ある意味ムードメーカーなのかも。咲也は大事なリーダー。一見頼りなさげに見えるけど、芯が強くて、まっすぐなんです。何よりも芝居が大好きで、その情熱で俺たちを引っ張っていってくれる。みんな大事なメンバーです」
「……至は?」
「は、俺ですか? いやー俺はどうだろ……休日どころか平日だってゲームしかしてないし、芝居はそこそこ好きだけど、体力ないし、人と関わるの苦手だったし、そういう俺が、なくてはならない存在だなんて、言えないでしょ」
「でも、いてくれなきゃ困る」
え、と至はタブレットから顔を上げる。そこで千景の瞳とぶつかった。
「何言って……あ、人数的な意味なら、そうかも」
「違う、そうじゃなくて……こんなに丁寧に、嬉しそうに春組のこと話せるのは、至が大切に思ってるからだと思うよ。俺は芝居のことは分からないけど、気持ちをひとつにできなきゃ駄目なんだろ? 至が大切に思ってることは、きっとみんな知ってるから、至だって大事なメンバーの一人なんじゃないの?」
技術的なものでなく、構成的なものでもなく、感情として、必要とされるもの。それは大切なことだ。技術も構成も、割とどうにかできるものだが、感情だけは強制されるものではない。
「一緒にやりたいって思ってるから、こんなにたくさんの公演してきたんだろ。自信持って、至」
特に悩んでいるわけでもなかったが、言われて悪い気はしない。
至は恥ずかしそうに目を泳がせて、はいと頷いた。
「今は、そこに俺の居場所がないかもしれないけど、いつか一緒に舞台立てるといいな」
「は? 何言ってんですか。退院したら様子見ながら稽古に決まってんでしょ。一応ファンもついてきたんですよ、次の公演だってあるんですからね。記憶がなくたって、先輩にも頑張ってもらいますから」
「…………お手柔らかに頼むよ」
千景は目をぱちぱちと瞬いて、顔を引きつらせる。
いったいどれだけ厳しい稽古なのかと、案じているに違いない。
「まぁ大丈夫ですよ。体力のない俺がついていけるくらいの稽古ですから。……体力は、ちょっと、つけようと思いますけど」
「ははっ、じゃあ、まあ俺にできる限りで、頑張るよ。ありがとう至」
つけようと思う気持ちはある。あるのだが、実施にいたらないのが情けない。目を逸らした至に、何かを察したのか、千景が片を震わせて笑った。
胸が鳴る。それを自覚して、至は腰を上げた。
「じゃあ、俺そろそろ帰りますね。何か足りないものとかあります? 明日監督さんに持ってきてもらうよう頼みますけど」
「いや、大丈夫。あんまり迷惑かけるわけにもいかないだろ」
「は~それ禁止~。俺らには迷惑かけてもいいんですよ。後で三倍返ししてもらうんで。先輩、甘えるの下手ですよね」
「……そういうものなの? いや、でも足りないものとか特にないから、平気だよ。ありがとうね」
不思議そうに首を傾げる。そんな仕種はあんまり見たことがなくて、やはり以前の千景とは違うのだなと実感させられた。
「じゃあ、おやすみ至。気をつけて帰ってね」
「……はーい。おやすみなさい、先輩」
だけどこれが千景でないとは言えない。千景の中に眠っていた性質なのかもしれない。
至は病室を出たが、直後、大きなため息が聞こえた。千景のものだ。それは疲労を伴っていて、思わず振り返って戻ろうとしたが、千景はそれを望んでいないだろうし、面会時間ももうすぐ終わってしまう。
(そりゃ、疲れるよな……何も分からない状態で、俺らにも気を遣って……。検査とかもあるんだろうに)
至は、気づいてやれなかったことを申し訳なく思いながら、病院を後にした。
過度な接触は、お互いのために良くないと思い、翌日は見舞いに行かなかった。その次も、その次の日も。
お互いがお互いであるためには、それが最前だと、この時は思っていたのだ。

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