カクテルキッス4-ふたりの約束-

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それからどれだけ時間が経っただろうか。寝室だからといって眠る気にはなれず、かといっていつものようにゲームをする気にもなれない。
今、密はどんなことを話しているだろう。千景はそれをどんな気持ちで聞いているだろう。そう思って悶々とただ無為に時間を過ごすだけだった。
遠い国で密と出逢って、どんな任務をこなし、日本に入国し、大事な人を亡くし、絶望し、そして劇団へ入団してきた。
密との間に、もう一人いた大切なひととの間に、何があったのか。
できれば、千景が傷つかないようなできごとであってほしいとは思うけれど、その願いは叶わないのだろう。
「先輩……」
至には祈るしかできない。千景がどんな過去を持っていようと、自分の中の気持ちは変わらない。それを伝えていくしかなかった。
その時、コン、とドアが鳴った気がして、ベッドから腰を上げる。
「至……話、終わった……」
ドアを開ければ、底には険しい顔をした密がいた。至の胸がドクンと嫌な音を立てる。
「先輩の様子、どう……?」
「……反応しない」
密が、リビングの方を振り向く。至は、はじかれたように寝室を飛び出した。ソファの上で体ごと項垂れる千景の姿が見え、駆け寄った。
「先輩!」
それほどに衝撃的な事実だったのだろうか。
任務の内容なのか、密たちと過ごしてきた日々の暮らしなのか、劇団に入った経緯なのか。
そのどれもでありそうで、至は千景の前に膝をついて、頭を抱えるように体を折る千景を覗き込んだ。
「先輩」
「……さわらないでくれ……」
「え?」
「触らないでくれ、至」
小さな声が、絞り出される。それは震えているようにも思えて、至は息を飲んだ。千景のこんな声は聞いたことがない。
周りのすべてを拒絶するような音は、至をも不安にさせた。
「先輩、しっかりして。密、これいったい何を聞いてこうなっちゃったの」
「たぶん、任務の内容……間違いなく犯罪だから」
至は言葉をなくす。犯罪というのは、どの程度なのだろう。至にとって現実感のないものでも、実際それを行ってきた千景にはそうは思えないはずだ。
「オレが言ったことは全部本当……これからどうするか、至のことをどうするかは、お前が決めるといい、エイプリル」
「密、そんなっ……」
「至、千景の傍にいるなら覚悟がいるかもって、言ったと思う……千景に至は無理だって、アイツに言ったこともある。でも、千景に幸せになってほしいのも、本当……」
密が、至の手首をぐっと握りしめてくる。確かに、密にそう言われたことを覚えている。あの時は、実感もあまりせずに、千景を好きかと訊かれて、好きだと答えていたような気がする。それを受けて、密は千景の居場所を、この家のことを教えてくれた。
密の心の葛藤は、あの時からあったのだろう。
「たとえどっちを選んでも、オレは力になる……」
「密……」
「千景のこと、お願い」
言って、密は出ていってしまう。ここから先は、千景自身と、至の覚悟の問題だ。
至は再び千景を見上げて、目元を覆った手にそっと触れてみる。
「……触るな」
「先輩」
「触るなって言ってるんだよ!」
パシリと振り払われて、思わず息を飲んだ。
「知ってた、のか、至」
おぞましい物でも見るような顔つきで、千景は至を突き放す。至は、体が凍り付いたかのように動けなくなった。
「俺が今まで何をやって生き延びてきたのか……任務で度々罪を犯してきたの、知ってたんだろ!? 窃盗だの密売だの、そんな……!」
「せ、先輩落ち着いて」
ある程度予想はしていたものの、千景の口から発せられるそれは、密の言った通り間違いなく犯罪だ。日々を普通に暮らしていれば、無縁なはずの。
「この手で人だって殺してきたんだ! どうしてお前はそんなヤツの傍にいられる!!」
ガンと鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。掴もうとしていた千景のシャツの手前で、思わず指が止まってしまったのを自覚する。
だけどそれは、ほんの一瞬だった。
「知りませんよそんなこと! それでも好きだったんだからしょうがないでしょ!」
止まってしまった指で、千景の両腕を握りしめる。つなぎ止めていられるように、強く、強く。
「人殺しとか、そういうの擁護できるわけもないし、サイアクかよって思ってますよ! 俺だってできれば普通に逢いたかったですよ! けど気持ちが全然小さくならないの、どうしたらいいんですかっ……」
犯罪を容認するわけではない。組織が、どういう理由で千景に任せたのかも知らない。だが少なくとも、千景は好き好んでやっていたわけではないはずだ。
「なんで俺なんか好きになったの、至……何で俺はお前に触れたんだ、こんな汚れた手で、傍にいたいなんて、よく言えたものだな!」
「ちょっと先輩聞いて、俺はそれでもいいんですよ! 別に汚れてるとか思ってなかった、こうして手だって?げます!」
「無理に?ごうとするなよ、こんなの、良いわけないだろうが!」
?いだ手を振り払われそうになる。それは勢いもついてものすごい力だったけれど、このときばかりは至も全力でつなぎ止めた。ここで放してしまったら、もう二度と触れられないような気がした。
「無理にとかふざけてんですか!? そんなんで、先輩みたいな面倒くさいペテン師に、ずっと片想いなんかできるわけないでしょうが!」
「お前と別れた俺の判断は正しかったな、殺しまでやらせるようなとこ、命がいくつあっても足りないじゃないか」
「俺はまだ納得してません、俺を守るためだったって言うなら、絶対別れてなんかやりませんからね」
「馬鹿を言うのもいい加減にしろ! 以前の俺が本当にそう思っていたかも分からないんだぞ!」
「だったら思い出してくださいよ、俺のこと愛してるって言ってくれたじゃないですか!!」
別れを切り出されたあの日、千景に向かって叫んだ言葉を、再び千景に向かって投げつける。
あの日は最後まで言わせてもらえなかった音が、ようやく形になった。
「愛してるって……言ってくれたじゃないですか」
勢いに気圧されたのか、言葉を飲んだ千景の?を、空いた指先で撫でる。
ザフラでのあの夜、千景は言ってくれた。一度しか言えないと言いつつも、他の誰にも聞こえないように、吐息と一緒に囁いてくれた〝愛してる〟。
まだ一月も経っていないのに、忘れてほしくなかった。
至は腕を千景の首に回して引き寄せ、片手は?いだままで千景に口づける。
何度も交わしてきた口づけなのに、まるで初めてのような錯覚に陥った。
「俺は、何度言っていいんでしたよね。愛してるって、何度でも……」
触れるだけで離れて、千景の肩に額を預ける。それなりにショッキングだった千景の任務。それでも、それを上回る恋情を、全部注そそぎ込んでやりたい。言葉だけではきっと伝わらないし、今の千景には届かないだろうことが分かっていても、至は?いだ手に力を込めた。
「……危険だと分かってて、なんで飛び込んでくるんだろうな。それなんて縛りプレイなの、茅ヶ崎……」
「知りませ、…………え?」
難題を設けてゲームをプレイするのが好きなのは事実だが、そんなつもりではない。そう言おうとして、違和感に顔を上げた。
そこには、悔しそうに、嬉しそうに顔を歪めた千景がいる。?いだ手の力を強められて、至は目を見開いた。
「ちかげ、さん……?」
今、彼は確かに〝茅ヶ崎〟と呼んだ。以前のように。
ついさっきまで、至と呼んでいたのに、どうして。
廃人レベルでゲーマーなのは、今の千景には見せていなかったはずだ。それなのに、プレイスタイルまで知っている。なぜ。
そして、諦めにも似た歓喜の表情の意味。
それらから、導き出される結論は――。
「戻っ……て、ます? 記憶……」
「――お前が思い出してって言ったから。キスで目覚めさせてくれるとは、さすが弊社の王子様、ってことろかな」
苦笑する彼の顔は、以前と同じものだった。
「…………っとに、ノーロマンが……っ」
もう少し気の利いた返し方はなかったのかと、強く千景を抱きしめる。?いだ手は離れてしまったけれど、その代わりに互いの背を抱くための力に変わった。
触れる唇は、慣れた感触。入り込んできた舌の力強さも、以前と同じもの。いや、より一層強く絡んでくる。
「う……、っん、ん……は」
唇の間に隙間がなくなる。食らうように舌を吸い、吸われ、薄い胸板と厚みのある千景の胸板を合わせ、抱いた背にいくつも服のしわを作った。
「はあっ……あ、んん……」
髪を梳く千景の指先が心地いい。腰を抱く千景の腕が嬉しくてしょうがない。
苦しくて息ができない。放してほしいけれど、離れたくない。背中に回ったこの腕をどうしようかと、頭の片隅で思う。舌に歯を立てられて、ビクリと肩を震わせたら、濡れた唇が離れていってしまった。
「あ……」
「そんなに物欲しそうな顔するな、茅ヶ崎。抱くぞ」
「なんで抱かないのか分かりませんけど」
今の流れは完全にそういう雰囲気だったのでは、と眉間にしわを寄せて抗議する。これだからロマンの分からない男は、と悪態をつけば、今度は千景が至の肩に額を預けてきた。
「以前、お前が殺される夢を見た」
「……笑えないんですけど」
「俺の傍にいるってのは、そういうことだ。……守る自信がない、情けないけど」
千景の口から、別れを切り出した理由が発せられる。おおよそ至の思っていた通りでホッとしたけれど、ゾッとする。
そういう危険性はあっただろうが、正直、考えないようにしていたのが本音だ。
「でも……それは先輩が一人きりで俺を守ろうとしていたからですよね」
「……うん?」
「俺は、先輩の日常であろうとした。何も知らない振りして……いや実際何も知らないんですけど。そうやって先輩を守ろうとしながらも、俺は俺を守ろうとしてなかった。弁えてるつもりでも、知らないことでラインを踏み越える危険性だってあったのに」
知らないというのは危険なことだ。今回のことで、痛感した。記憶のない千景が、知らずに組織とのコンタクトを取ってしまう可能性があった。知っていれば、せめて事前に教えていれば、こんなにバタバタとせずに済んだのに。
「先輩は、ザフラでちゃんと言おうとしてくれた。俺はそれから逃げたんです。無意識に」
「だけど……俺はお前がああ言ってくれて嬉しかった。だから、守ろうって思ってたんだ……お前を傷つけてでも」
「俺は、もっとちゃんと話を聞くべきだった。こうあるはずだって思い込みで、対話を避けてきたんです。他人と深く関わるのに慣れてないんですよね、まだ」
「関わらなくて良い。危険な目に遭わせたくない。そう思ってるのは本当なのに、手放すのも怖いんだ」
「最初で最後の恋ですもんねえ、お互いに」
それぞれが思い思いのことを話しているように見えて、行き着くところはひとつだけ。
「千景さん、俺ともう一度、ちゃんと恋人同士になってください」
至は千景の?を両手で包み、まっすぐに見つめる。記憶のなかった彼が、まっすぐ見つめてくれてたように。
「茅ヶ崎……」
「返事は? イエスかはいか愛してますか」
「……じゃあそれ全部でお願いしようかな」
呆れと諦めと、めいっぱいの愛しさを込めて、卯木千景が笑ってくれる。それだけで最大級の幸福をもらった気分だった。

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